見出し画像

そのレトリックはどうなんだ。

犬に比べて猫は。猫に比べて犬は。

人間を、犬派と猫派にわけて語りたがる人たちがいる。たしかに犬と猫は違う動物なのだから、「犬はこうだ」「猫はこうだ」とそれぞれの特徴を語ることはできる。そして、「それゆえわたしは犬を愛する」「だからこそわたしは猫が好きなのだ」と結論づけるのもけっこうだ。けれども犬なら犬のよさを語るとき、わざわざ猫の価値を引き下げる必要はない。犬だけを見て、自分の思う犬のよさを語っていけばいいのである。

と、ここまでの話はよく語られるところではあるけれども、本日はもう一歩先まで考えてみたい。

たとえば犬のよさを語るとき、自分が犬派であることを公言するとき、犬と馬とを並べて語る人はいない。「馬の場合はこうだけれども、犬の場合はこうだ。だから自分は犬が好きなのだ」なんて話は聞いたことがない。これは馬にかぎらず、牛や羊もまたしかりである。馬派、牛派、豚派、なんて言葉があるとすれば、それは飲食にまつわる話であろう。

じゃあ、なぜ犬と猫ばかりがこのような派閥争いの俎上に載せられるのか。


比較のしやすさである。犬と猫は(少なくとも牛馬に比べれば)背格好が似ている。家のなかでも飼えるし、人と遊んだり、人の布団にもぐり込んできたりもする。けれども、その気質や性格は正反対といってもいいほど異なっており、好き好きがわかれる。さらにまた、犬と猫は実質的にペット界の二大勢力となっており、二者択一の対象としやすい。

そういう諸々の理由から「犬に比べて猫は」や「猫に比べて犬は」の人たちが現れるのだろう。

たしかに物事は、比較対象があるとその価値を理解しやすくなるものだ。たとえばマラソン競技の魅力を説明するのに、比較対象としての100メートル走を挙げると「マラソンならではの魅力」を語りやすくなる。あるいはお好み焼きの魅力を説明するのに、比較対象としてのピザを挙げると、「お好み焼きならではの魅力」を語りやすくなる。そういう「似ているけれども遠いもの」のマイナス面を挙げつつ、「これ」の魅力を語ろうとするのは、きわめて初歩的なレトリックと言える。

けれども、ほんとうに犬なり猫なりが好きであれば、その魅力を洞察しているのであれば、わざわざ比較対象に頼ることをしなくても自分の言葉で語れるはずだ。

犬猫の話ではなく、洞察と話法の話としてぼくは「比較対象に頼り過ぎない」を心懸けたいと思っている。