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大人になるということ。

きのうから、つかの間の夏休みをとっている。

近県のドッグラン付き貸別荘に出掛け、暑すぎるからと外に出掛けることもせず、ただ犬とごろごろしたり昼からワインを飲むなどの時間を過ごしている。実際にやっていることを挙げれば、すべて自宅でできることだ。ソファでごろごろすることも、昼間から酒を飲むことも、当然自宅にいながらできてしまう。そして自宅であれば Netflix のドラマを見たり、ウーバーイーツを注文したりも自由で、むしろ近県の貸別荘よりも便利だったりする。便の利、そのあるなしでいえば、あきらかに自宅にいたほうが便利だ。

それでもわざわざ高速道路を長距離走行し、宿代を払ってまでこういう場所に来ているのはぼくの場合、怠け心との向き合い方がいちばんおおきいのだと思う。

たとえば三年越しで書き上げ、昨年に刊行した『取材・執筆・推敲』という本。それなりのヴォリュームをもって書いたこの本で言いたかったことを無理やり要約するなら「さぼるな」のひと言に尽きる。

才能の有無はよくわからないけれど、ひとまず「さぼること」さえしなければ一定のクオリティには到達できる。あなたの仕事が評価されないとしたらそれはさぼっているからだ。自分の気づかないところでさぼっているから、あなたはうだつが上がらないのだ。ライターであろうとほかの仕事であろうと、原則としてそういうものだとぼくは思っているし、その前提で『取材・執筆・推敲』という本を書いた。

そして自宅のソファでごろごろし、昼間から酒を飲んだりすることはぼくにとってどうしても「さぼっている」との罪の意識を刺激される行為であるのに対して、休暇中の旅先でごろごろしているときにはまったくさぼっている後ろめたさを感じない。むしろ休暇を存分に満喫しているような、休暇という仕事に全力を投じているような充足感さえ感じさせる行為だ。

そういうわけで現在、ぼくは昼から白ワインのあてに地元の港でとれたアジフライを頬ばり、ぽわぽわした気持ちのままこれを書いている。

20代のころ、そして30代のころは休むことがほんとうに下手だった。身体を壊すまで働き、壊れたから休むことが「休養」なのだと思っていた。なんというかそれは「吐くまで飲む」を信条とする、酒の飲み方を知らない大学生みたいなアティチュードだ。上手な休み方を知った現在、こんなふうに昼から酒を飲む自分をずいぶん大人になったなあ、とほめてあげたくなる。