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更地になった一区画に。

いつも歩いているはずの住宅街。

数日ぶり、もしかすると数週間ぶりに歩いていると、ぽつねんとして一区画が更地になっている。砕かれたコンクリートやビニール片、木材などをそのままに、更地になっている。ああ、取り壊されちゃったのかあ。思いのほか極小な空間を横目に通り過ぎようとして、ふと思う。あれ? ここ、どんな建物があったんだっけ?

懸命に記憶の糸をたぐるも、なかなかもとの風景を思い出せない。そこにあったはずのそれを、それ単体として認識していなかったのだ。連なる家々を総体としてしか、認識していなかったのだ。風景を写真に収めていたわけでもなく、たぶんもう二度と取り壊されたそれを思い出すことはかなわない。

そういう自分に気がついたとき、ぼくはどうしようもないさみしさをおぼえる。いつか自分という人間が消えてしまったとき、こんなふうに忘れられていくんだろうなと思ってしまう。空白地帯としての更地があるうちは、不在の事実くらいは残るだろう。けれども自分がいたはずの場所にもやがて別の建物が組まれ、いないということさえも忘れ去られるのだ。


こういう物思いに対して、だから仕事が大事なんだと訴える人がいる。たとえ自分は消えてしまったとしても、自分のつくったものは残る。それは鉄橋なのかもしれないし、東京タワーなのかもしれないし、あるいは本なのかもしれない。残るものをつくりなさい、それがあなたの存在証明になるのだ。というアドバイスである。たしかに一理ある話でもあり、心に美しい物語にも思える。ぼくもある時期、雑誌と比較した際の本づくりの魅力について、「残ること」を意識していた。

でもなあ。なんか、そうじゃないんだよなあ。自分がなにをやったかの記録として橋や本はわかりやすいものだと思うけれど、それ(自らの存在証明)を目的にするのは仕事として違う気がするし、そこまで「おれ」やその欲望を前面に出さない仕事を、ぼくはしたい。

で、思うのだ。写真じゃないかと。けっきょく残るのは写真じゃないかと。自分が撮影する写真ではなく、自分が写り込む写真。写真館で撮ってもらうような写真ではなく、自分ひとりを被写体とした写真でもなく、もちろん自撮りでもなく、なんでもなく不意に写り込んでしまったスナップ写真。画面の端のほうで笑う自分。誰かとしゃべっているらしい自分。カメラの存在をまったく気にしていない自分。そうやって、そのつもりもないのに写っちゃった写真こそが、自分がそこにいたという証明であり、誰かのなかに残るということではないのか。

原理的に人は、自分にそういう写真が何枚あるのか知ることはできない。自分の知らないところで、誰かのスマートフォンやアルバムのなかに、期せずして自分がいる。撮影者の記憶に残っているわけでもなく、ただ日常の一風景として写り込んでいる。消せない事実として写り込んでいる。それが残るってことなんじゃないかなあと思うのだ。そしてそういう場に、もっと居合わせておきたいなあと。