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古賀史健

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古賀史健の note、2018年以降のぜんぶです。それ以前のものは、まとめ損ねました。
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2022年6月の記事一覧

不良がいなくなったその理由。

不良がいなくなったその理由。

不良といえば、○○だった。

いまや不良ということば自体が死語になりつつあるけれど、ヤンキーの名に取って代わられるまで彼らは、不良と呼ばれていた。そして漫画であろうとドラマであろうと映画であろうと、そこに登場する不良たちは決まって煙草を吸っていた。不良は、未成年の中高生であることがほとんどであるため、煙草は立派な違法行為だ。身体にいいとか悪いとか言う以前に、法的にアウトな行為だ。そして不思議とフィ

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醤油ラーメン、こんにちは。

醤油ラーメン、こんにちは。

所用のため、実家に戻っていた。

福岡で生まれ育ったぼくには、かなりの福岡的な価値観が根づいている。わかりやすいところで言えば食べものだ。ラーメンはとんこつに限ると思って生きていたし、関東風のうどんつゆにはなかなか馴染めなかった。刺身は濃厚な「刺身醤油」で食べるのが当たり前であり、焼き鳥とは豚バラと鶏皮を食べるものだと思っていた。

そうして23歳のときに上京するのだが、どうしても「ラーメンはとん

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投資だとか貯金だとか経験だとか。

投資だとか貯金だとか経験だとか。

いまひとつどうも、手応えに欠ける。

毎日ちゃんと忙しくしているし、やらなきゃいけないことをやるべき順番に従ってひとつずつ、こなしている。それでも仕事が、具体的には原稿が、まだ動きはじめる段階に入っていない。いや、無理をすれば原稿執筆に突入することだって可能なのだけれども、事務的な「やらなきゃいけないこと」が目白押し過ぎて、なかなかそちらに足を踏み出せない。「こんなことしてていいのだろうか?」的な

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来月の引越を前に思う。

来月の引越を前に思う。

引越の多い人生だった。

転勤族の家庭に生まれたことが影響しているとは思わないものの、東京でひとり暮らしをするようになってからも2年ごと、つまり家賃の更新のたびにあたらしい住居へと越す暮らしを続けていた。ひとつの場所に長く暮らすことにも飽きるし、単純に「更新料を払うのがもったいない」と思ってしまうからだ。冷静に考えれば転居費用のほうがうんと高いのだけれども、そんなおもしろくない計算をする人間になり

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これは、歌です。

これは、歌です。

子どものころ、海外の歌が好きだった。

海外の歌といっても、いわゆる洋楽のことではない。「おおブレネリ」とか「チキチキバンバン」とか「アルプス一万尺」とか「ロンドン橋」とか「森のくまさん」とか、そういう邦訳された童謡・民謡のたぐいだ。これらの歌は、いずれも垢抜けたものとして響いた。歌詞のなかに登場する海外の景色や固有名詞にもワクワクするのだが、なにより歌っていてたのしかった。笑顔で踊りたくなるよう

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『それで君の声はどこにあるんだ?』感想。

『それで君の声はどこにあるんだ?』感想。

日本に生まれ暮らす人間にとって、キリスト教はなかなか厄介な存在だ。

たとえばカントやヘーゲルの近代哲学に触れようとするとき、そこにはかならず超越者としての《ゴッド》なるものの存在が登場する。めざすべき真理をそこに置いた上で議論が展開され、たぶん自分がこれをちゃんと理解するのは無理なんだろうなあ、と思わされる。あるいはドストエフスキーやトルストイを読むときも、やっぱりロシア正教の存在が邪魔になる。

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すべては梅雨のせいに。

すべては梅雨のせいに。

もしかしたら、いい季節なのかもしれない。

いま、東京は梅雨である。わかりやすい梅雨である。カラッと晴れ渡る日がほとんどなく、いつもどんよりしていて、天気予報と関係なしに不意の雨が降る。実際の話、この一週間だけで3度はそういう雨に降られた。雨に濡れるのも嫌だし、それでなくとも日々のどんよりと低気圧は、心が晴れないものである。さっさと梅雨が、明けてほしい。

これはぼくにかぎった話ではないようで、こ

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書きたかったけれど、書けなかったこと。

書きたかったけれど、書けなかったこと。

「これぞ映画!」だと考える、大好きな場面がある。

映画『アマデウス』で、ウィーンの宮廷作曲家であるアントニオ・サリエリが、まだどこにも発表されていないモーツァルトの楽譜を読むシーンだ。この楽譜は、夫の職を求めるモーツァルトの妻が「うちの夫も(毎晩遊び呆けているようでいながら)ちゃんと仕事してるんです」とこっそり持ち込んだもので、楽譜の読めない妻はその価値を知らない。

あわてて楽譜をめくるサリエ

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逆輸入の、これまた逆輸入。

逆輸入の、これまた逆輸入。

こんなこともあるんだなあ、と思う。

英ケント大学のアナ・カタリーナ・シャフナー教授による著書、『自己啓発の教科書』(原題:The Art of Self-Improvement)を読んだ。文化史が専門だという著者が、自己啓発というジャンルの系統樹を解き明かし、それぞれの言説がどのように受容されていったかを論じたとてもまじめな一冊だ。一例を挙げると「たとえば政治においてポピュリズムが急激に高まって

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さるの話を入口に。

さるの話を入口に。

さる、という動物がいる。

ときにさるは、「おさるさん」と呼ばれる。ほかの動物はあまり、そう呼ばれない。犬も猫もウサギも鳥も、そう呼ばれない。かろうじて思い浮かぶところがあるとすれば、「お馬さん」だろうか。そもそも「お○○さん」は、お坊さんとか、おすもうさんとか、お侍さんとか、ほどよい親しみと敬いのなかに付けられる接頭&接尾語の組み合わせである。

そのためたとえば、「さるのような顔だ」と言うより

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変化とは、そして成長とはどういうことか。

変化とは、そして成長とはどういうことか。

「あの人は変わってしまった」

一般的にこれは、あまりいい意味で使われる言葉ではない。望ましい方向への変化であれば、普通に「あの人は変わった」と評されるだろう。望ましくない方向への変化だからこそ、「変わって-しまった」の評価が下されているのである。

何年か前にぼくも、ある人が「古賀さんも変わってしまったね」的なことを言っていたと、耳にしたことがある。それがどこまでネガティブな意味を含んだ発言だっ

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その名称のありがたさ。

その名称のありがたさ。

隠すほどの話でもないので言うと、最近ハズキルーペを使っている。

紙の本を、とくに初版の古い本を読んでいると、さすがにもう裸眼ではきつくなってきた。いまのところまだ、遠近両用メガネをかけたり、読書専用の老眼鏡をつくったりする予定はない。尻で踏んでも大丈夫、のハズキルーペとともに本を読んでいきたいと思う。

ハズキルーペのいいところは、どこにも「老眼」の字や音が入っていないところだ。なんといっても「

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人工知能に「意識」を見出すとき。

人工知能に「意識」を見出すとき。

GoogleのAIに関する記事を読んだ。

「Language Model for Dialogue Applications(対話アプリケーションのための言語モデル)」の頭文字からその名を与えられたLaMDA。ほかの記事を読んでみるとLaMDAは、「冥王星や紙飛行機になりきってもらう」といったシチュエーションでの会話も可能なのだそうだ。その一部を引用したものがこんな感じ。

ひとつめの記事なんて

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うるさい人たちは、なにがうるさいのか。

うるさい人たちは、なにがうるさいのか。

「うるさい」は、おもしろい言葉だ。

よく採り上げられるところとしては、そこに「五月のハエ」の字も当てられること。すなわち「五月蠅い」と書いて、うるさいと読んでもいいこと。まあ、実際の話として五月になると蝿がどれくらい増えるのかはわからないけれど、たぶん増えるのだろう。そしてぶんぶん飛び交う蝿とは、羽音の音量が「うるさい」というよりもむしろ、存在それ自体の鬱陶しさのほうが勝っている気がする。つまり

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