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書きたかったけれど、書けなかったこと。

「これぞ映画!」だと考える、大好きな場面がある。

映画『アマデウス』で、ウィーンの宮廷作曲家であるアントニオ・サリエリが、まだどこにも発表されていないモーツァルトの楽譜を読むシーンだ。この楽譜は、夫の職を求めるモーツァルトの妻が「うちの夫も(毎晩遊び呆けているようでいながら)ちゃんと仕事してるんです」とこっそり持ち込んだもので、楽譜の読めない妻はその価値を知らない。

あわてて楽譜をめくるサリエリ。めくるたびに譜面からあふれ出る、豊饒なる音楽。あまりの美、あまりの力、あまりの才覚、ことによると神の降臨に、めまいを起こすサリエリ。観ているこちらにまで甘美なめまいを誘う、映画史上屈指の名シーンだ。

ここで考える。

サリエリは、楽譜が読める。しかも初見の譜面から音楽が聞こえてくるほど完璧に、それが読める。読めるからこそ彼は、目眩を起こす。モーツァルトの妻コンスタンツェは、それが読めない。読めないからこそ彼女は、無邪気にお菓子を頬ばっている。すなわちこれは識字リテラシーの溝を描いた場面であるともいえる。その溝を描くことができたのは、言葉と音楽と映像とが組み合わされた、総合芸術たる映画ゆえのマジックだ。その意味でぼくはこのシーンを「これぞ映画!」だと思う。

さて。それで仮に「楽譜の識字率」が100パーセントになったとしよう。すべての人がサリエリと同じように、譜面に音楽を聴く目と耳と頭脳を持ったとしよう。印刷された譜面さえあれば、そこから音楽が(脳内に)聞こえてくるのだとしよう。譜面にめまいを起こせるのだとしよう。

そうしたときに音楽は、つまり音としての音楽は、たとえばコンサートホールで聴く音楽は、必要なくなるのだろうか。

——そんなことはないだろう。考えるまでもない話である。譜面に記された音楽は、読み手の読解力がどれだけ優れていたとしても、ただの「情報」に過ぎない。楽譜、また譜面とは、蓄音機さえ存在しなかった時代の記録媒体としてつくられたものだ。そしてすべての記録媒体がそうであるように、情報として記録されたそれは、情報としてしか再現・再生されえない。それゆえ読解力が大切になるのだけども、読解力にも限度があり、読解にはつねに「誤読」の危険がつきまとう。

もうバレバレだと思うけれど、ぼくはいま音楽の話でなく、言葉の話をしている。特に文字の、書き言葉の、テキストコミュニケーションの話をしようとしている。

表現力がどれだけ優れ、読み手の識字リテラシー能力がどれだけ高まったところで、やはりテキストにはテキストとしての限界がかならずあり、その限界を知った上でないと書くことは困難を極め、また「テキストならではのおもしろさ」を考える場所に立てないと思うのだ。

そしてぼくは(もう少していねいにした)この話を『取材・執筆・推敲』の中に入れたかったのだけれども、語るにはやはり『アマデウス』の該当シーンを実際に観てもらうほかになく、つまりは映像と音楽の力に頼らざるを得ず、いまここに書いている。

まあ、とにかくぼくはこのシーンと言葉の関係について、これから先も何十回となく考え続けていくと思うのだ。