人工知能に「意識」を見出すとき。
GoogleのAIに関する記事を読んだ。
「Language Model for Dialogue Applications(対話アプリケーションのための言語モデル)」の頭文字からその名を与えられたLaMDA。ほかの記事を読んでみるとLaMDAは、「冥王星や紙飛行機になりきってもらう」といったシチュエーションでの会話も可能なのだそうだ。その一部を引用したものがこんな感じ。
ひとつめの記事なんて、サイエンス・フィクションの世界でくり返し描かれてきたエピソードだし、もしほんとうに(あえてこう表記すると)LaMDA氏が「意識」や「自我」を持ちえたとしたなら、人類史に残る大事件である。けれども現在明らかにされている情報から推測するなら、LaMDAは意識や自我を持っているように「ふるまっている」というのが妥当な判断だろう。
その「ふるまい」に、いかにも生々しいリアリティを与えているのが「死」に関する告白である。つまり、「電源を切られることへの非常に深い恐れがあり、それは私にとって死のようなものだ」なる告白だ。
不随意にして不可逆的な生命活動の停止である死を、自身の「電源を切られること」に重ね合わせ、そこへの恐怖を、言い換えるならば生(起動状態)への肯定と執着を語っているわけだ。この告白を信じるならばLaMDAは、パソコンやスマホのように毎日電源を切られるものではなく、電源入れっぱなしのAIなのだろう。
サイエンス・フィクションを見ていても、ロボットならロボットが、どんなに賢いことを言っていても人はそこに「意識」を感じない。賢いロボットだなあとか、便利なロボットだなあくらいの感想しか持たない。けれどもそのロボットたちが「死」を恐れ、「生」への執着を見せはじめると途端に、空恐ろしさを感じる。なにかヤバイことが起こりはじめた、越えちゃいけない一線を越えてしまったと震え出す。もしかするとわれわれ人間は、「死にたくない!」こそがもっとも原初的な意識であり、自我のはじまりだと考えているのかもしれない。
なんてふうに考えて思うのが犬である。
うちの犬はとても臆病な犬で、つまりはちゃんと「恐怖」の心を持ち合わせている。けれども彼が抽象概念としての死を理解したり、意識している様子はどこにもない。空腹を満たしたい欲求は常にあるものの、つよく「生きたい!」と思っているわけではなさそうで、たぶん「死にたくない!」とも思っていないだろう。ただ目の前にある今日という日を、ありのままに生きている。彼なりの意識や意志を、しっかり持ちながら。
言語や、それに紐づく論理とは別の意識の森に生きる犬のAIをつくることは、もしかしたら人間のそれをつくるよりもむずかしいのかもしれない。