見出し画像

変化とは、そして成長とはどういうことか。

「あの人は変わってしまった」

一般的にこれは、あまりいい意味で使われる言葉ではない。望ましい方向への変化であれば、普通に「あの人は変わった」と評されるだろう。望ましくない方向への変化だからこそ、「変わって-しまった」の評価が下されているのである。

何年か前にぼくも、ある人が「古賀さんも変わってしまったね」的なことを言っていたと、耳にしたことがある。それがどこまでネガティブな意味を含んだ発言だったのかはわからないものの、ある出来事を境にぼくは変わってしまったのだそうだ。

犬である。ぺだるである。

「ぺだるくんが来てから、古賀さんも変わってしまったね」。その人は、そんなふうにぼくを評したのだという。たしかにぺだるがやってきてからというもの、ぼくのプライベートは一変した。会社で寝泊まりしたり、合宿と称してホテルに連泊しながら原稿を書いたりすることは、ほぼなくなった。海外に行く機会も、格段に減った。

さらにまた、犬に対するデレデレを、包み隠さず表明するようになった。これまでの人生でほとんど口にすることのなかった「かわいい」の四文字を、いまでは毎日何十回となく口にしている。そういうぼくの姿を見て、かつてのギラギラしていたぼくの姿を知っている人は当然、「変わってしまった」と感じるだろう。「まるくなった」と感じるだろう。いや、体型の話ではなく、人格面での話として。

けれどもぼくは、こんなふうに思うのだ。

ぼくにかぎらず人はみな、そうやすやすと「変わる」ものではないのだと。「変わった」ように見えるのは、それまで自分にさえ見せてこなかった一面が表出しているに過ぎず、「そういう自分」は最初からこころのどこかにいたのだと。

たとえば、寝そべる犬の腹を撫でながら「ぺーちゃん、かわいいねー」なんてデレまくる自分がいる。以前の自分からすれば到底考えられない、そしていまでも誰にも見せたくない、恥も外聞もない姿である。ふと冷静になって、ぼくは驚く。「おれにもこんな一面があったのか」。

これは変化ではない。「発見」である。より大袈裟なことばを使うなら、「出会い」である。自分が持っていた「そういう一面」を発見し、いまさらながらに驚いているのだ。そしてひとたび発見された「そういう一面」は、さも常連客のような顔をして、おのれの人格に組み込まれていく。なんなら前面に顔を出していく。そのくり返しこそが変化であり、成長なのではなかろうか。


犬や猫を迎え入れることではじめて出会う「自分」がいる。就職や転職によって出会う「自分」もいる。ひとり暮らしで出会う「自分」もいれば、習いごとを通じてはじめて出会う「自分」もいる。

初詣の神社でおみくじを引くように、まずはなにかをやってみること。そうして「自分の知らなかった自分」を引き当てること。心地のよい「自分」に当たるまで、何度でもくじを引いていくこと。

「やってみる」の大事さを、最近ひしひしと感じているのです。