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うるさい人たちは、なにがうるさいのか。

「うるさい」は、おもしろい言葉だ。

よく採り上げられるところとしては、そこに「五月のハエ」の字も当てられること。すなわち「五月蠅うるさい」と書いて、うるさいと読んでもいいこと。まあ、実際の話として五月になると蝿がどれくらい増えるのかはわからないけれど、たぶん増えるのだろう。そしてぶんぶん飛び交う蝿とは、羽音の音量が「うるさい」というよりもむしろ、存在それ自体の鬱陶しさのほうが勝っている気がする。つまり「うるさい」には、「鬱陶しい」の意が強く含まれるのであり、だからこそ「わずらわしい」と同じ字で「うるさい」と読ませるのだろう。

そしてまた、なにかに精通している人を指して「うるさい」と呼ぶこともある。あの人はコーヒーにうるさいとか、演劇にうるさいとか、フランス文学にうるさいとか、そういう話である。

こうした人々は「あれこれウンチクを垂れて煩わしい」とか「やたらと注文が多くて煩わしい」、また「あいつにそれを語らせると面倒だ」といった意味で語られつつも、ひと言でいえばもう「音としてうるさい」のだと思う。つまり、おもしろくもない知識を一方的にしゃべり立てているその声が、もはやノイズとしてしかこちらに届かず、ゆえに「音としてうるさい」のだ。

しかし一方、「専門的だけれども聞いていておもしろい話」というのも当然ある。

たとえば「コーヒーにうるさい人」と一緒にコーヒーを飲むとした場合。

うるさい人はここぞとばかりに知識を披瀝したり、場合によってはこちらが飲んでるコーヒーにダメ出ししたりする。これは、ひどくうるさい行為だ。それに対して、喫茶店のカウンター越しにマスターが豆の説明をしてくれたり、おいしいコーヒーの淹れ方をアドバイスしてくれたりするのは、まるでうるさくない。単純におもしろかったり、役に立ったりする。

これは喫茶店のマスターという立場や権威がそう思わせているのではない。答えはもっとシンプルで、「聞かれてもいないこと」を得意気に語りはじめる人、さらにその知識によって優位に立たんとする人が「うるさい」のだ。その人の持つ知識それ自体が「うるさい」のではなく、コミュニケーションスキルの不足が「うるさい」を生み出しているのである。

……と考えを整理してソーシャルメディアを眺めてみると、見事なまでに「うるさい」言動にあふれている。

○○にうるさい人とは、接するのも煩わしい人であり、その声がすでに音としてうるさい人なのである。