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古賀史健

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古賀史健の note、2018年以降のぜんぶです。それ以前のものは、まとめ損ねました。
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2022年3月の記事一覧

エアポート2022。

エアポート2022。

どのタイトルの、誰のセリフだかは忘れてしまった。

ドストエフスキーの小説で「いまやロシアは鉄道の時代なのですよ」みたいなセリフがあったのを憶えている。ロシアの全土に鉄道網が張り巡らされ、人や物資がじゃんじゃん行き交う、たいへんな時代に突入してしまったのですよ、と。それは現代の我々がインターネットについて語るときのような高揚と困惑を含んだセリフだった。19世紀ロシアにおいて、駅というのは特別な空間

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ふざけることの、おそろしさ。

ふざけることの、おそろしさ。

アカデミー賞授賞式での件を考えている。

自分だったらどうしただろう、と考えている。やっちゃったかもなあ、と思う自分がいる。どんな理由があろうと暴力はいけない、というのはまったくそのとおりだ。当人は愛する人を守ったつもりでいながら、結果としては女性である妻を一人前とみなさないマッチョな男性像をなぞる行為だった、という指摘もよくわかる。でもなあ。

クリス・ロック氏は、ふざけていた。心底ふざけきって

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ぼくは日記を書かない。

ぼくは日記を書かない。

ここの note を毎日書きはじめて、もう8年目になる。

時間の感覚とはおそろしいもので、ここまでくれば案外簡単に「とりあえず10年続けてみようかな」と思えるし、人にも言える。実際には3ヵ月続けることだってむずかしくて面倒なのに、8年やったんだから10年くらい行けるだろ、と思えてしまうのだ。

で、10年続けたらどうするか。note の更新をやめたあと、どうするか。

純然たる「日記」をつけてみ

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タイトルについて考える。

タイトルについて考える。

たとえば、の話である。

『アンパンと日本人』というタイトルの本があったとする。なんとなくおもしろそうである。あんこの歴史、パン食文化の流入とその普及、アンパンの発明、饅頭との比較といったアンパンそれ自体の話もできそうだし、カレーライスやとんかつを引き合いに出しながら「いかにして日本人は、欧米文化をローカライズしていったのか」という大きな話にもなるだろう。たぶんそういう本だ、『アンパンと日本人』は

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テレビだからできること。

テレビだからできること。

サッカー日本代表が、ワールドカップ出場を決めた。

これでフランス大会から数えて、7大会連続の本大会出場だ。しかしながら今回、国を挙げてのお祭りムードみたいなものはほとんど感じられない。なかば恒例となっていた渋谷スクランブル交差点からの「ワールドカップ出場決定!」の馬鹿騒ぎ中継も、きのうは目にしなかった。

感染症ゆえのことか。あるいはウクライナ情勢を鑑みてのことか。もちろんどちらも影響しているだ

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ビジネス書にはなりえないもの。

ビジネス書にはなりえないもの。

犬と暮らすということ。

おそらくこれを主題にして、小説を書くことはできる。いや、ぼくには書けないけれど、犬を迎え入れてからお別れするまでの日々は、じゅうぶん小説になりうるテーマだ。子どもが犬と出会うところからはじまる小説でもいいだろうし、老夫婦が犬を迎え入れる話でもいい。そういう作品は——漫画や絵本を加えるならば——すでにたくさん存在している。

また、犬との暮らしをエッセイとして書くこともでき

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ライフラインを守るために。

ライフラインを守るために。

10年ひとむかしとは、よく言ったものである。

むかしの話をしようとするとき、つい「10年くらい前のことなんだけどさ」と言いはじめる自分がいる。しかしながら実際に指を折って数えてみると、そのエピソードは15年や20年ほど前のことだったりする。これは完全に体内時計がズレてきている証拠で、たとえば20歳にとっての10年前はどう考えても「ずいぶん前」なのだけれども、ぼくみたいな年齢にとっての10年前は、

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無責任な「疑え!」の言葉。

無責任な「疑え!」の言葉。

「疑え!」というアドバイスがある。

常識を疑え。他人の話を鵜呑みにするな。直感を疑い、経験を疑え。ぼくもこれまでいろんな人から聞いてきたし、いろんな本に書いてきた言葉だ。多くの発明・発見・イノベーションは、なにかを「疑うこと」から出発しているといっても過言ではないし、いわゆるクリティカル・シンキングもまた、換言するに「疑え!」である。

しかしながら最近、なんでもかんでも「疑え!」で済ませていい

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未来の自分をエゴサーチする。

未来の自分をエゴサーチする。

エゴサーチという言葉がある。

グーグルやツイッターの検索窓に自分の名前を入力し、その評判を調べてまわる行為のことで、英語ではエゴサーフィン(Egosurfing)と呼ばれるのが一般的らしい。幸いなことにと言うべきか、ぼくはほとんどエゴサーチをしない。とくにツイッターがそうなのだけど、検索したところで表示されるのは『嫌われる勇気』の一節を引用した bot アカウントばかりで、ぼく個人の評判など滅多

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いまの痛みを感じ続ける。

いまの痛みを感じ続ける。

きょうはなんだか、てきめんに花粉症の症状が出ている。

もともと慢性のアレルギー性鼻炎であるぼくは、一年を通して左右いずれかの鼻が詰まっている。そのせいもあって花粉症に騒ぐ人を見ても、「みんなようやくおれの気持ちがわかったか」くらいの感想しか持たない時期がしばらく続いていた。花粉症かもしれないし、花粉症ではないかもしれない。どちらにせよ、おれの鼻は詰まっている。そう思っていたわけだ。

しかしなが

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自己肯定感がくじかれるとき。

自己肯定感がくじかれるとき。

自己肯定感について考える。

世のなかには、流行語大賞のフィルターに引っかからない種類の流行り言葉というものがたくさんあって、たとえば、腑に落ちたことを「腹落ちした」と表現するのもそうだし、精度や理解度に近い意味合いで「解像度」なる語を使うのもそのひとつだ。で、近年多く耳にする「自己肯定感」。これも以前であれば「自己評価」のひと言で語り済ませてきた概念であり、言葉なのだろう。

こういう言葉に出合

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お金と寄附、そして親鸞について。

お金と寄附、そして親鸞について。

自分になにができるんだろう、と考える。

どこかの地が自然災害に襲われたとき。疫病がやってきたとき。そしてなにもしていない市民が戦禍に巻き込まれたとき。「そこ」にいない自分。いまのところ無事に暮らしている自分。そしてたいした力も持たない自分。そういう自分にできることとはなんだろう、と考える。安易な無力感に襲われてしまうのは、考えることをやめたがっている証拠だ。そんなふうに思いなおしては、何度も何度

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ぼくが好きな人たちはみんな。

ぼくが好きな人たちはみんな。

犬の朝はいそがしい。

トイレもしたいし、水も飲みたい。人間に甘えることもしたければ、ごはんだって食べちゃいたい。天気がよければ窓辺やベランダで日光浴したいし、よくよく考えたらまだ眠たい。はじまったばかりの一日に、あたまと身体が追いつききれないのだ。

そういう犬をなだめすかすように、朝の散歩へと連れ出す。歩いていると、彼の意識が少しずつ覚醒に向かっていくさまが感じられる。のろのろしていた足取りは

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明日はただの観光客に。

明日はただの観光客に。

今日の午前中、ひさしぶりに洗車をした。

ガソリンスタンドの自動洗車機に頭から突入して洗う式の、手間ひまをかけない洗車だ。あの巨大なブラシで洗われ、モコモコの泡に包まれ、その泡がまたブラシと強力な水流によって洗い流され、どでかいドライヤーで乾燥されてゆくのを車内で見守る一連の時間が、ぼくはたまらなく好きだ。遊園地の遊具に乗っているような快感があるし、大量の水を浴びるからなのだろう、なんとなく車内の

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