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自己肯定感がくじかれるとき。

自己肯定感について考える。

世のなかには、流行語大賞のフィルターに引っかからない種類の流行り言葉というものがたくさんあって、たとえば、腑に落ちたことを「腹落ちした」と表現するのもそうだし、精度や理解度に近い意味合いで「解像度」なる語を使うのもそのひとつだ。で、近年多く耳にする「自己肯定感」。これも以前であれば「自己評価」のひと言で語り済ませてきた概念であり、言葉なのだろう。

こういう言葉に出合ったとき、ぼくは自己肯定感なら自己肯定感という言葉の意味を、いったん横に置く。そしてその言葉がどういう文脈の、どういう場面で使われているのかを観察する。

たとえば自己肯定感の場合、「人生のうまくいかなさ」の根源的な原因として語られることが多い。「○○○に悩んでいる人は、総じて自己肯定感が低い」みたいな話だ。そういう解として語られる場合、むかしからある「自己評価」の四文字よりも、「自己肯定感」という新鮮味のある言葉のほうが、言うほうも聞くほうも納得感を持ちやすいところは、たしかにある。

自分自身のことを振り返って考えてみたとき、おそらくぼくは「自己肯定感が低い」という人間ではない。特別高いとは思わないけれど、低くはない。自分が自分であることについて、自分を取り巻く環境について、また今後の自分にできるであろうことの範囲や限界について、すべてに満足することはできなくとも「まあ、そんなもんだよな」と受け入れている。

しかしながら最近、「ああ、これが『自己肯定感が低い』って感覚なのか」と思う機会が増えてきた。


たとえば本日、次に出す本の打ち合わせを、編集者の方とおこなった。いまの自分に言えること。この機会に整理しておきたい考え。掘り下げてみたいテーマ。思いつくままにしゃべりながら本の方向性を探る、初期段階の打ち合わせだ。

けれどもふと、「それがどうしたって言うんだよ」の思いが脳裏をよぎる。打ち合わせの直前までソーシャルメディアで見続けていた、海の向こうの出来事が脳裏をかすめる。自分のやろうとしている仕事が、心底どうでもいいことのように感じられる。そんなものになんの価値があるんだ、もっと大事なことがあるだろ、とおのれを叱りたくなる。

で、思うのである。

ここでくじけてしまうのが、すなわち「自己肯定感が低い」状態なのだと。

そりゃあいま、この状況下で考えるなら、自分の書く本なんてのは、あまりにも「のんき」なものだ。いま砲弾におびえている人たちを直接手助けすることにならないばかりか、あたかもそうした人たちが存在していないかのように振る舞うことで、日々の仕事は成立する。自分がいかにも無価値で、役立たずで、嘘つきな人間にさえ思えてくる。

けれど、そういう仕事にも価値があるのだ。深刻ばかりではない世のなかをキープしておくこともまた、大事な仕事なのだ。そう自分に言い聞かせないと、ほんとに無力感に包まれたままなにもできなくなってしまう。自己を、肯定できなくなってしまう。

自分の仕事に、どんな価値があるのか。そんなものはもう「あるはずだ」と決めつけておかないと動けないのだし、動かないことには仕事にもならず、価値も生まれない。それはたぶん、「自分という人間」の価値についても、同じことが言えるのだろう。