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お金と寄附、そして親鸞について。

自分になにができるんだろう、と考える。

どこかの地が自然災害に襲われたとき。疫病がやってきたとき。そしてなにもしていない市民が戦禍に巻き込まれたとき。「そこ」にいない自分。いまのところ無事に暮らしている自分。そしてたいした力も持たない自分。そういう自分にできることとはなんだろう、と考える。安易な無力感に襲われてしまうのは、考えることをやめたがっている証拠だ。そんなふうに思いなおしては、何度も何度も考える。

ひとまず思いつくのは、お金だ。寄附、募金、義援金。それらのお金を送ることだ。赤十字に送ったり、国や自治体に送ったり、NGOに送ったり、あるいは国連の機関に送ったり、そういうことだ。

けれどもお金を送って済ませようとする自分に、抵抗がないわけではない。たとえば現地に足を運んでなんらかのボランティア活動に汗を流す人のほうが、ずっと真剣でずっと立派な態度に感じられる。お金だけの自分を、どこか後ろめたく思ってしまう。

さらにまた、お金を送ることよりも「具体的な生活物資」を送ったほうが、なんとなく役に立った実感もある。水、食糧、衣類、毛布、あるいは子どもたちが遊ぶサッカーボール。それらが実際に届いてくれれば、より具体的に役立てそうな気がする。お金と違って中抜きされたり、別の用途に使われる心配もないだろう。

しかし、たとえばこれから(ウクライナからの難民が集まる)ポーランドにぼくが大量のビスケットを送ったとして、それがほんとうに「いま、早急に必要なもの」なのかはわからない。医薬品が求められているのかもしれないし、毛布なのかもしれない。ひょっとすると案外、ワインがいちばんうれしかったりするのかもしれない。それはもう、現地にいる当事者にしかわかりえないことだ。

そうして再び、お金について考える。お金の力を考える。

お金は、使い途が自由だ。食料品を買うことも、医薬品を調達することも、その医薬品を扱う医療スタッフを揃えることも、お金にはできる。現地の実情を知る人が、臨機応変に「いま、早急に必要なもの」を揃えていくことができる。

その一方でお金は、直接「届けたい人」に届くとはかぎらない。間に入った悪い人が着服したり、ぜんぜん関係のない用途に使われたりする可能性だって当然ある。疑おうと思えば、どこまででも疑うことができるだろう。

でも、それだからこそお金なんだよなあ、と思うのだ。

ぼくは今回わりと早い段階で、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と在日ウクライナ大使館に、それぞれ寄附をした。そのお金がどんなふうに使われるのか、わからないと言えばわからない。でも、へんなことには使われないだろうと信じている。「使う人」の良心を信じるからこそ、寄附は成り立つのだ。

「お金は信用(クレジット)を物質化したものだ」という言説を、これまで何度も聞いてきた。その言葉の意味をどれくらい正確に理解できているのか自信はないものの、寄附に関してはまったく「信じること」と不可分だよなあと思う。

そうやって考えると寄附は、安易に物資を送ろうとすることよりもずっと、「良心」や「つながり」や「これから」を信じる人間的な行為なのかもしれない。

そしてこれはたぶん、親鸞の言う「自力」と「他力」の違いでもあるのだ。