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未来の自分をエゴサーチする。

エゴサーチという言葉がある。

グーグルやツイッターの検索窓に自分の名前を入力し、その評判を調べてまわる行為のことで、英語ではエゴサーフィン(Egosurfing)と呼ばれるのが一般的らしい。幸いなことにと言うべきか、ぼくはほとんどエゴサーチをしない。とくにツイッターがそうなのだけど、検索したところで表示されるのは『嫌われる勇気』の一節を引用した bot アカウントばかりで、ぼく個人の評判など滅多に出てこないからだ。それにまあ、インターネット上でおのれの評判を調べてまわること自体、なんとなくの違和感をともなう。

けれども唯一、ついついやってしまうエゴサーチがある。

書店だ。大型書店に設置されている、在庫検索端末だ。

本屋さんに行って、なんでもない客のような顔をしながら端末の前に立つ。おのれのフルネーム「古賀史健」を一文字ずつ、そこに入力していく。すると、おおお。『20歳の自分に受けさせたい文章講義』から『取材・執筆・推敲』までの著書が、ずらずらっと表示される。在庫があるのは『嫌われる勇気』だけ、みたいな本屋さんも多いのだけれども、それでもあそこに自分の名前が登録されているという事実について、いまだにくすぐったく感じる自分がいる。そういう自分を「ういやつじゃのう」と思う。


いま、あたらしい本のことを考えている。

打ち合わせレベルとはいえ、動きはじめているのは2冊。ひとつは単著で、もうひとつは共著になる予定の、長い時間をかけて取り組む本だ。

自分は今後、あと何冊くらいの本を出すんだろうなあ、と思う。量産のできるタイプではないし、著者としての自分にどれくらいの需要があるのか(仮にあったとしてそれがいつまで続くのか)もわからない。そしてたとえば、あと10冊とか20冊とか、自分に書きたいことがあるとも思えない。

けっきょくぼくのような書き手にとっては出会いがすべてで、出会いの数と質によって、これからが決まってくるのだろう。人との出会い、作品との出合い、学問との出合い、思想やプロジェクトとの出合い。

出会いがあれば、取材がはじまる。けれど、日常のなかに取材の目をもっていなければ「出会い」にも出合えない。要するにまあ、ちゃんと生きろ、ということだ。サボらずに、ちゃんと。


ずっと先の未来にタイムスリップできるとしたら、ひとまず本屋さんに行って、在庫検索端末を覗いてみたいな。「へえー、おれこんな本もつくってるんだ!」と驚いてみたいんですよね。この「未来の自分をエゴサーチする」って発想、わりとおもしろいと思うんです。