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いまの痛みを感じ続ける。

きょうはなんだか、てきめんに花粉症の症状が出ている。

もともと慢性のアレルギー性鼻炎であるぼくは、一年を通して左右いずれかの鼻が詰まっている。そのせいもあって花粉症に騒ぐ人を見ても、「みんなようやくおれの気持ちがわかったか」くらいの感想しか持たない時期がしばらく続いていた。花粉症かもしれないし、花粉症ではないかもしれない。どちらにせよ、おれの鼻は詰まっている。そう思っていたわけだ。

しかしながら数年前から、完璧な花粉症を自覚するに至った。目だ。ほかの季節ではありえないほど、目がかゆい。そうだ、そういえばメガネ屋さん時代、花粉症対策ゴーグルみたいなやつ売ってたわ、おれ。売りながらぜんぜん目のこと気にしてなかったわ。

とはいえ花粉症(春)の季節が続くのも、およそ5月まで。梅雨の雨が降りはじめるころには日常が戻ってくる。


2020年以来、ぼくらはずっと「日常のような非日常」のなかに生きている。たとえば慣れてしまいつつあるものの、道ゆくみんながマスクをしている光景なんてのはやはり、非日常と呼んでしかるべきものだ。戦争も、天災も、非日常のものであるはずだ。

「世界はもはや、後戻りできないところまで変質してしまった」的な言説はよくわかるのだけれども、またそれくらいの意識を持たねばならないことも承知しているのだけれども、うーん。

以前とまったく同じ世界は戻らないにしても、なんらかの「日常」は戻ってくる。その日常が「戻ってくる場所」を、いまのうちから耕しておく。それが大切だと思うのだ。非日常な緊張感や不信感を当たり前としすぎず、そこにある違和感を違和感として保持したまま、いつかくる日常に備える。言い換えるならそれは、非日常としての「いま」に慣れず、「いま」に痛みを感じ続けることでもあるのだけれど、この痛みに鈍感になることが、いちばん怖いと思うのだ。