見出し画像

ふざけることの、おそろしさ。

アカデミー賞授賞式での件を考えている。

自分だったらどうしただろう、と考えている。やっちゃったかもなあ、と思う自分がいる。どんな理由があろうと暴力はいけない、というのはまったくそのとおりだ。当人は愛する人を守ったつもりでいながら、結果としては女性である妻を一人前とみなさないマッチョな男性像をなぞる行為だった、という指摘もよくわかる。でもなあ。

クリス・ロック氏は、ふざけていた。心底ふざけきっていた。おそらくウィル・スミス氏が言葉で真剣な抗議をしても「おいおい、ムキになるなよ。ただのジョークだぜ?」と受け流すだけだ。むしろ抗議してきたこと自体を茶化し、あざけり、ゲラゲラ笑ってみせていた可能性も高い。ふざける構えを固めた人間は、ある意味無敵だ。どんな言葉も通用せず、こちらの「真剣」や「真面目」さえ、笑いの対象とする。ウィル・スミス氏に対する「言葉で言い返せばよかったのだ」的な指摘は、やや理想論にすぎる気がする。

冗談の恐ろしさは、それが「みんな」でなされるところにある。ネタのおもしろさ以上にジョークは、「まわりの人びとがゲラゲラ笑うこと」によって成立している。そのため特定の誰かをからかう冗談は、「みんな」でその人を笑うことにつながり、やられた側におおきな心の傷を残す。ツイッター上でもしばしば目にする光景だ。

そういう冗談を飛ばす人間がいるのはどうにもならないことだ。けれど、そこで自分が「みんな」の一員にならないことだったら、できるだろう。


ぼくは「おもしろい人」のことは好きなんだけども、ただ「ふざけている」だけの人は、どうも苦手だ。ふざける人の冗談はちっともおもしろくないし、ただ他人を傷つけながら自己保身を図っているように映るのである。