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無責任な「疑え!」の言葉。

「疑え!」というアドバイスがある。

常識を疑え。他人の話を鵜呑みにするな。直感を疑い、経験を疑え。ぼくもこれまでいろんな人から聞いてきたし、いろんな本に書いてきた言葉だ。多くの発明・発見・イノベーションは、なにかを「疑うこと」から出発しているといっても過言ではないし、いわゆるクリティカル・シンキングもまた、換言するに「疑え!」である。

しかしながら最近、なんでもかんでも「疑え!」で済ませていいのかなあ、という気がしはじめている。

陰謀論を思うからだ。

一般に陰謀論にハマる人は、「信じやすい人」だと思われがちだ。荒唐無稽な陰謀論を語る人を見ると、「どうしてこんなデタラメな話を信じているんだろう?」と首をかしげてしまう。

しかし、そもそも陰謀論とは「世間ではAが正しいと言われているが、ほんとうはBなのだ」という理屈で成り立つ論である。Bという〝真実〟を信じる前提には、「Aを信じない」の強固な意志がある。つまり彼ら陰謀論者は「信じやすい人」である以前に、「常識を疑う人」でもあるはずなのだ。

そういう現実を前にすると、さすがに「疑え!」だけで知的な態度を説いた気になるのは無責任だよなあ、と思う。陰謀論のみならず、あやしい儲け話だって、カルト宗教だって、その人なりの「常識への疑い」を経て、飛びついた物語なのだから。


疑うことは、やはり大事だ。常識とされるものを疑う人でありたいと、ぼくも思う。しかしながら、疑うことはただの入口であって、Aを疑う代わりにBを信じるというのなら、それは「鵜呑み」にしてるのとなんら変わりがない。Aを疑った先に、不格好でもいいから自分なりに考えをめぐらせて、なんらかの結論を導き出す。与えられる「真実B」を信じるのではなく、自分の答えを出す。もちろん考えた挙げ句に「やっぱりAが正しかった」との結論に行きつくことも多い。刺激に満ちた「真実B」に比べ、それはぜんぜんおもしろい答えではない。けれども、そのおもしろくなさを受け入れることもまた、知的な態度だと思うのである。

「疑え!」というアドバイスは、「そして考えろ!」と続けてこそ意味を持つものなのだ。