見出し画像

明日はただの観光客に。

今日の午前中、ひさしぶりに洗車をした。

ガソリンスタンドの自動洗車機に頭から突入して洗う式の、手間ひまをかけない洗車だ。あの巨大なブラシで洗われ、モコモコの泡に包まれ、その泡がまたブラシと強力な水流によって洗い流され、どでかいドライヤーで乾燥されてゆくのを車内で見守る一連の時間が、ぼくはたまらなく好きだ。遊園地の遊具に乗っているような快感があるし、大量の水を浴びるからなのだろう、なんとなく車内の温度がひんやりする感じもたまらない。

洗車機を出て、別スペースに車を運び、車体についた水滴をタオルで拭き上げていく。雨埃にまみれていた車体がぴかぴかを取り戻す。すべての作業を終え、ガソリンスタンドを出て道を走ると、視界の広さと透明度に驚かされる。汚れきったメガネを拭き上げたときのような、というよりも、はじめてメガネをかけたときのような明瞭が、眼前に広がる。家に帰るまでが遠足ですの法則に倣うなら、道を走るまでが洗車です、と言いたくなってしまう。

……というようなどうでもいい話を、この日に書いていてもいいのか。

そんな迷いがどうしても、3月11日にはつきまとう。14時46分の時間に合わせて黙祷を捧げることは、もちろんする。でも、そういう個人的な祈りだけではなく、やはり今日は「あの日」のことを考え、書くべきではないか。人目にさらす文章を書いている以上、そういうプレッシャーが自分程度の人間にもある。


以前、北朝鮮による拉致被害者のご家族が、こんな話をされていた。拉致された家族を取り戻すため、自分は日々さまざまな活動をしている。街頭で署名を呼びかけたり、政府に嘆願書を出したり、テレビメディアに出たり、講演を通じて被害の実際を訴えたり、さまざましている。

すると、こんな噂が聞こえてくるようになった。曰く、街で買いものをしている私を見かけたと。そのとき私が、誰かとおしゃべりしながら笑っていたと。それがけしからんと。カメラの前ではあんなに不幸面しているのに、カメラのないところでは笑っているじゃないかと。

「我々家族は、笑うこともできないんですか?」

その方は切々と訴えていた。


今日という日をどう過ごすかは、誰からも強制されるべきものではない。今日という日にゲラゲラ笑っていたって、ちっとも責められるべきことではない。もちろん、心のどこかであの日のことを考え、亡くなられた方々や遺された方々を思うことはしていたい。それでも笑っちゃダメだなんて、あるはずがない。

明日はなんでもない観光客として気仙沼を訪ねて、志の輔師匠に大笑いする予定でいます。