ぼくが好きな人たちはみんな。
犬の朝はいそがしい。
トイレもしたいし、水も飲みたい。人間に甘えることもしたければ、ごはんだって食べちゃいたい。天気がよければ窓辺やベランダで日光浴したいし、よくよく考えたらまだ眠たい。はじまったばかりの一日に、あたまと身体が追いつききれないのだ。
そういう犬をなだめすかすように、朝の散歩へと連れ出す。歩いていると、彼の意識が少しずつ覚醒に向かっていくさまが感じられる。のろのろしていた足取りはほどなく軽くなり、やがてぐいぐいリードを引っぱったり、よその犬にわんわん吠えたりする。
犬を迎える前、犬との朝散歩について、あれこれの想像を膨らませていた。
いまの自分には、朝に散歩するなんてとても考えられない。でも、犬を迎えたらきっと朝、一緒に散歩するだろう。季節の移り変わりを感じ、道ゆく人とおはようの挨拶を交わし、公園なんかに出掛けるのだろう。いまの自分よりもずっと人間らしい暮らしを手に入れるのだろう。——そんなふうに思っていた。
けれどもしかし、犬との朝散歩が日課になった現在、そういう心穏やかな時間を過ごしているかというと、それは違う。季節の移り変わりだの、道ゆく人とのおはようだのをたのしむことはほとんどなく、ぼくはただ犬を見て、そのしぐさや表情、歩みの速度、しっぽのご機嫌具合などを見て、彼のとなりを歩いている。
朝の散歩中、「ああ、朝の太陽は気持ちがいいなあ」「散歩っていいもんだよなあ」みたいな感想を抱くことは、正直ない。ぼくはひたすら犬に向かって「朝の太陽、気持ちいい?」「お散歩、たのしい?」と問いを投げかけ、そこへの返事を確認してはよろこぶばかりの時間を過ごしているのだ。
ここ10年ほどのことだろうか。ビジネスからプライベートのいろんなところで、「ギブ」の大切さが説かれるようになった。目先の「テイク」を考えることなく、ただただ「ギブ」に徹しなさい、と。
けれど、利己をまったく含まない利他なんて、ありえないと思うのだ。ぼくと犬との関係でさえ、「あなたがよろこんでくれること」こそ、「わたしにとっての最大のよろこび」なんだもの。よろこぶ犬の姿が見たくて、ぼくは散歩やお出かけ、あたらしいおやつやおもちゃを用意するんだもの。
だから、相手が誰であっても、過度に恐縮したり遠慮してみせたりするのはやめておいたほうがよくって、ストレートに「うれしい」「おいしい」「ありがとう」を伝えられる人こそが求められるし、愛されるんだと思う。
気仙沼に行って、たくさんのおもてなしを受けて、おいしいものを食べて、思えばぼくの好きな人たちはみんな、「うれしい」「おいしい」「ありがとう」が気持ちいい人だよなあ、と思ったのでした。