見出し画像

エアポート2022。

どのタイトルの、誰のセリフだかは忘れてしまった。

ドストエフスキーの小説で「いまやロシアは鉄道の時代なのですよ」みたいなセリフがあったのを憶えている。ロシアの全土に鉄道網が張り巡らされ、人や物資がじゃんじゃん行き交う、たいへんな時代に突入してしまったのですよ、と。それは現代の我々がインターネットについて語るときのような高揚と困惑を含んだセリフだった。19世紀ロシアにおいて、駅というのは特別な空間だったのだろうなと思う。

きのう、ひさしぶりの飛行機に乗った。コロナで旅行がむずかしくなって以来、3年以上ぶりの飛行機だ。変更された搭乗口までてくてく歩きながら、ふと思った。空港は、なぜエア・ステーションではなく、エア・ポートなのか。つまり、「空の駅」ではなく「空の港」と名づけられたのか。

ドストエフスキー作品の登場人物みたいに、鉄道や駅がいまよりずっと特別な響きを持った時代のことを考えるなら「空の駅」、すなわちエア・ステーションであっても問題はない。むしろそちらのほうがカッコよかった可能性もある。

そして決められた線路を走る列車と違い、飛行機は大洋を航行する船のごとく自由に空を飛ぶ。だからここは「空の港」なのだ、という理屈もなんだかあやしい。少なくとも自家用自動車が普及する以前の人びとにとって、線路やレールが「不自由」のメタファーになっていたとは考えづらい。

考えに考えて、デカいからかな、と思った。

搭乗口の変更で歩き回ればわかることだけれど、空港の建物はとにかくデカい。端から端まで歩かされたら、到底10分15分ではたどり着けず、いわゆるところの「動く歩道」、水平式エスカレーターが何本も走っているくらいに広い。少なくとも日本国内において、あれより大きな建造物なんて存在しないんじゃないか。そしてそのデカさが、「駅」よりも「港」と呼ばせたのではないか。

きっと多くの人がそうだと思うけれど、空港に行くとぼくは、妙な高揚感に包まれる。そしてその高揚感は「これからはじまる旅への期待」とか「ここからどこへでも行けるよろこび」みたいな素敵なお話ではなく、東京ドームや横浜国際総合競技場に足を踏み入れたときのワクワクに近いのかもしれない。つまり、やたらとデカい建造物がもたらす目眩にも似た、ワクワクだ。空港という場所を愛するおれは、その機能が象徴するもの(旅、夢、希望など)に興奮しているのではなく、でけえ建物に興奮しているだけなのだ。

なんとも大味な結論にたどり着いたころ、ようやく搭乗口に到着した。