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2018年現代美術回顧 「五輪」を引き込み、「沖縄」に飛び込む

止めどない底抜けの感覚――。今に始まったことではないが、とりわけ2018年は政治社会の前提が音を立てて崩壊してしまった現実を痛感させられた。嘘に嘘を重ね、その虚偽にあわせて記録や情報を改竄して憚らない反歴史主義、あるいは弱者を露骨に切り捨てる一方、身内をなりふり構わず優遇する縁故主義。近代国民国家の大前提だったはずの三権分立や立憲主義、そして公共性ですら、今や存続の危機に瀕していると言わねばなるまい。わたしたちが今目撃しているのは、戦後70年あまりをかけて、われらの先達が育んできた民主主義という理想が脆くも崩落する反面、それが批判的に退けたはずの封建主義が剥き出しの暴力性を露わにするという、にわかには信じがたい退行現象である。結局のところ、明治以来の近代というプロジェクトは幻だったのだろうか。

現代美術が文字どおり「同時代の表現」であるならば、そのような退廃や崩落を表現しないわけにはいかない。だが、多くの美術家は政治社会の現実から目を背け、見てみぬふりをしがちである。世俗的な現実から隔絶した美術の自律性を無根拠に信奉する美術家は依然として少なくないし、たとえ主題として言及することはあっても、コンセプトを盾に一定の距離を保ちながらあくまでもスマートに表現することが多い。だが、足元が崩れ落ちて落下しているのが他ならぬ私たち自身であるのに、どうして平然としていられるのか。そのような超然とした態度は、美術家にありがちな特権的で洗練された貴族趣味を満足させることはあっても(この「貴族」を「アニメ」と言い換えてもよい)、底抜けの現実を正確に観測することはできないし、ましてや私たちが彼らの作品から現下の絶望的な状況を改善するための思想を学ぶことはまったく期待できない。もっと言えば、美術を「非政治性」という圏内に自閉させることは、結果的に退廃する政治社会の現状追認に貢献するという点で、じつはきわめて政治的なのであり、それを当人が自覚していないぶん、より罪深い。

そうしたなか、2018年に発表された現代美術のなかで突出して優れていたのが、風間サチコとキュンチョメである。彼らの作品はいずれも現在の政治社会の問題に彼ら自身の肉体によって正面から対峙しながら鋭い批評性を発揮していたからだ。

「風間サチコ ディスリンピア2680」(原爆の図丸木美術館)はスポーツの祭典であるオリンピックと人種差別の温床として知られる優生思想を同列に表現したもの。新作の版画《ディスリンピック2680》では、1940年、すなわち皇紀2600年に開催が予定されていながら日中戦争の影響により取りやめられた幻の東京オリンピックと、同年に制定された「国民優生法」(後の「優生保護法)とを射程に収めながら、それから80年後の再来年に開催が予定されている東京オリンピックをある種のディストピアを描き出した。

すべての国民は甲乙丙丁の四種に分類され、健康的な肉体に恵まれた甲乙は祭典の主人公として脚光を浴びるが、そうではない丙丁は巨大スタジアムの人柱として利用されるほかない。ベルトコンベアーの先でゴミのように落とされた挙げ句、セメントの海に沈められる丙丁の姿は衝撃的だ。硬質の描線が、その無慈悲な暴力性をよりいっそう際立たせている。だが、それらを単なるフィクションとして笑い捨てることができないのは、私たちが暮らす現実社会においても、健康と不健康、勝者と敗者、持つ者と持たざる者といった基準による分断がすでにはじまっていることを、この作品が静かに照らし出すからである。ディストピアはもはや架空の物語などではなく、現実社会そのものがディストピアに近づきつつある。風間の版画はつねに極端で過激な世界を描き出しているが、じつは世界の本質を的確に抽出している点で、リアリズムなのだ。

とはいえ、それは現実社会の闇を闇として直接的に描いているわけではない。そもそも版画というメディウムの特質は闇のなかから光を彫り出すことにあるが(「闇に刻む光 アジアの木版画運動1930s-2010s」、福岡アジア美術館)、風間は光と闇のコントラストを強調しながら光を浮き彫りにする方法を採用しない。むしろ、その世界はどちらかといえば明るい。ユーモアもある。だが、だからといって多幸感に溢れているわけではまったくなく、明るいがゆえに現実社会の闇が逆説的に色濃く見えるのだ。闇から光を彫り出すのではなく、光から闇を逆照すること。その批評的な反転こそ、風間サチコの真骨頂にほかならない。

一方、キュンチョメが取り組んだのは沖縄の米軍基地の問題。新作《完璧なドーナツをつくる》(「TERATOTERA祭り2018」ほか)は、沖縄在住のさまざまな人びとの米軍基地についての「声」を集めたドキュメンタリー映像である。もとより複雑な事情を抱えた政治的な問題であるがゆえに、基地についての声を耳にすることも口にすることも少ない。だがキュンチョメは、沖縄の人にサーターアンダーギーを、米軍基地の人にドーナツを、それぞれつくらせ、米軍基地のフェンス越しに前者を後者の穴に埋め込んで完璧なドーナツをつくるという作品の構想を沖縄在住の人びとに語ることで、その機会をつくりだした。

経済的に依存しているがゆえに基地の存続に賛成せざるをえない複雑な心情を吐露する者がいれば、現存するハーフのアイデンティティを守るために賛成を明言する者もいる。あるいは、基地との距離感が現在では考えられないほど近かった幼少時代の記憶を証言する者がいれば、基地の存在自体を絶対的に容認できないと憤る者もいる。ドーナツとサーターアンダーギーの合体というメタファーを的確に読み解きながら、彼らは心の奥底に折り畳んでいた思いをていねいに言語化したのである。

このことの意味は決して小さくない。なぜなら、とりわけ本土の人間は、ちょうど政治社会の現実から逃避する美術家と同じように、こうした沖縄の「声」に聞く耳を持たないからだ。彼らの「声」を本土に届けたキュンチョメの批評的な功績は果てしなく大きいが、重要なのはその際に政治的な身ぶりをことさら強調したわけではないという点である。キュンチョメは沖縄の人びとに作品の構想を無邪気に語る一方、自らの政治性は決して明らかにしなかった。もしあからさまに基地の是非を表明したまま彼らと対面していたなら、彼らは自らの政治的立場を開陳することはなかったはずだ。キュンチョメは、言ってみれば現代美術の非政治性を装いながら、沖縄の米軍基地をめぐる政治的ポリフォニーを奏でてみせたのだ。言うまでもなく、このような二重性の戦術は、すぐれて批評的である。

近年、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」(Socially Engaged Art)という新生の外来語が姦しい。風間サチコやキュンチョメの作品は、そのような流行現象の日本版として考えられるのかもしれない。だが、ソーシャリー・エンゲイジド・アートがいかがわしいのは、それが現代美術の同義反復を犯しているからだ。現代美術は、つねにすでに、日常生活や社会制度の変革を念頭に置きながら社会に関わっている。たとえば、石川真生(「大琉球絵巻」、原爆の図丸木美術館)や、毒山凡太郎(「Public archive」、青山|目黒)、増山士郎(「Tokyo Landscape 2020」、Art Center Ongoing)らも含めて、政治社会を批評的に表現する美術家は少なくない。アジア諸国の現代美術にとって政治的・社会的な条件が表現の動機になっていることも判明した(「アジアにめざめたら:アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代」、東京国立近代美術館)。底が抜けた転形期にあっては、安易なキャッチ・フレーズに惑わされることなく、本質的な原点を今一度確認することが必要ではないか。

初出:「図書新聞」3383号、2019年1月19日、8面


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