04【針箱のうた】幼年時代―1916~1926(大正5~昭和1)年(2/2)
尋常小学校入学
H
小学校へ行ったのは?
フク
大正11年(1922年)に本所尋常小学校一年生。雨が降ると店の者におんぶして学校に行って、それで帰りに又迎えにくるからと言って、カサも長靴も持って行ってしまったことがあった。「山本(フク孫註:フクの旧姓)はカサもはきものもない」とはやし立てられて、ワーッと泣き出して裸足で家まで帰った。それからは雨の日はカサと長靴を自分の手でしっかりと持っておんぶして行った。近所の笑い者だったね。
H
近代史の年表を見ると、大正6年(1917年)に、天皇の「御真影」が全国の尋常小学校に配布されたとあるんだけど覚えてる?
フク
覚えていない。けれども教育勅語は覚えている。覚えさせられたから。それから英国皇太子が来るというんで、大英帝国国歌を覚えさせられた。ABCも知らないのに英語で歌わせられた。旗を振って皇太子をお迎えしたわけだ。
関東大震災
H
大正12年(1923年)の関東大震災のときどうだった?
フク
9月1日で学校が始まったばかりで早く帰宅していた。妹が奥の座敷でハンモックの中で寝ていた。私はその下で夏休みの宿題がやり切れなかったのでやっていた。そうしたらグラグラと地震が来たので、怖くて妹のハンモックに一緒に乗って地震の揺れをいくらかでも押さえようとした。そうしたら父母が棚から崩れ落ちた品物の上を這いながら奥に来た。それでうちには荷車が何台もあったから、荷車に品物を乗せて義母が前かけの中に売上をしめ込んで、義母が妹をおんぶして私は父の轢く荷車を押して逃げた。二ツ目通りから四ツ目通りの四の橋まで逃げたところ石炭の空船があったので父が交渉をして、お金をつかませて家の者はみんな乗っちゃった。それで五の橋で米を買って中川まで逃げた。中川で2晩も3晩も過ごした。
そうしたら中川の土手の方から「朝鮮人が来たあー、朝鮮人が来たあー」と言うから、みんなこわがって船の中で縮こまっていた。それから「朝鮮人が井戸に毒を入れたあー」とか「井戸のフタをしろー」とかいうので、その時に朝鮮人は怖いんだと思ってしまった訳なの。9月4日の日だったと思うけど、よく残っていたと思うけど荷車に荷物を乗せて、今の埼玉の野火止の母の田舎まで行った。今の震災記念堂、当時の陸軍省被服廠の所を通ったら「水をくれー」って悲しい声で呻いている人がいるのに、そのそばでお碗に1杯2銭で水を売っていた。それを見て私はびっくりして「2銭で水を買って飲ませれば死んじゃうんだよ」と言うけれども、父も見ていられなくてその水を買って飲ませてあげた。そうしたらそのそばに大きなお腹をした朝鮮の女の人が殺されていた。血を流してお腹から赤ちゃんが飛び出していた。
H
日本人は朝鮮人に対してひどいことをし続けてきたんだよね。大震災でも6000人以上の人が殺された。どうしてこんなことが起こったかを少し勉強しているんだけど、8月の朝日新聞には中国人も殺されていたと報道されていた。
日本は朝鮮を植民地にして、これに対して朝鮮人たちの怒りや反対運動はすごく盛り上がっていたんだ。大震災の4年前の1919年の3月1日には「独立万歳」を叫んで武器も持たずに民衆が朝鮮全土で立ち上がった。その時には8000名以上もの朝鮮人が殺された。その民衆の怒りに日本人は恐怖した。特に政府や軍部などの上層部の人たちほど。それで大震災の時帝都東京で反乱でも起きたら一大事だということで、さっきお母さんが言っていたデマ・流言を政府や軍部が意図的に流したという。軍隊や警察を先頭にして、恐怖にかられた町の人たちも自警団に組織され片棒をかつがされた。人のいい下町のおじさんが突如殺人者に変身させられてしまった。政府の流したデマが見抜けなかったんだ。
フク
うん。ああ。この間の戦争だってそうだもんね。みんな日本人にそんな考えを植えつけて、昔は1銭5厘の葉書1枚で大の男を連れて行ってしまって。結婚してすぐにやもめにしてしまって。何の補償もありゃあしない。戦後ようやくついたけど。
H
日本人にはわずかでもあるけど、補償がないといったら元日本人だった朝鮮人・台湾人に対しては全くないからね。戦後45年経っても「詫びる、詫びない」でもめている。
「浜千鳥」
H
関東大震災で政府や軍が、朝鮮人に対する恐怖心を煽ってひどいことをしたという話だったね。この自然災害に政府は戒厳令まで布告して軍隊を前面に出したんだって。日本の社会主義者も多数殺された。
フク
うん。それから、本所被服廠から出て日暮里を通った時、日暮里は焼けなかったんだけど、すいとんの炊き出しをやってい父母や母に背負われた妹はみんなで食べているけど、私は忘れられてしまった。荷車の中から「かあちゃん」といったの。義母が「あら、ねえちゃん忘れちゃったよ」といって、ようやくすいとんを一杯もらった。それから川越街道を母の田舎の野火止めに向かった。
H
その途中で死んでいる人なんか見た?
フク
日暮里のあたりでも見なかったし、川越街道ではずっと見ない。ともかく被服廠がすごかった。そうして野火止めに着いたんだ。その時私は箱の中で眠ってしまっていた。みんなは私を忘れて家へ入った。祖母が「フクはどうした」といったら、両親共「ああ忘れた」でしょ。祖母が飛んできて「可愛そうになあ」といって私を抱いてくれた。その祖母の顔も忘れないね。両親は私を忘れても、祖母は私を忘れないで抱きにきてくれた。
H
両親に忘れられちゃうというのは辛いね。
フク
辛いねえ。今だに忘れられていたことは忘れないもの。それから毎年夏休みになると祖母のところへ遊びに行ってた。野火止め用水での水遊びは楽しかった。私の7歳のお祝いの着物も祖母がつくってくれた。この小学校の頃は「浜千鳥」の歌をよく歌ったねえ。「親を尋ねて泣いている」というところがよかった。涙をこぼしながら歌った。
フク孫註:『浜千鳥』について
弟(長男)の誕生
フク
妹が大きくなってくると、妹ばかり可愛がられているようで、私のひがみ根性も大きくなっていった。そして私が小学5年の時、大正15年(1926年)3月25日、弟が長男として生まれた。ちょうどこの日は通信簿をもらう日で、私は甲乙丙の乙ばかりで成績が落ちてしまった。父母に見せると叱られるから、見せたくないと思い帰ってきたら、隣の娘が「フクちゃんち、男の子が生まれたよ」といった。私は「ああ男の子か、こりゃあ私は跡取りじゃあなくなった」と、半分はがっかりしたね。もう半分は通信簿を見せなくて良くなって喜んだ。
H
そういう意識が5年生であったの?
フク
あった。
教育勅語
H
小学校のことで他に覚えていることある?
フク
あんまり覚えていないねえ。そうだねえ。
H
天皇の「御真影」の奉安殿が日本中の学校につくられて、昭和も戦争中になると子供達が学校行事の度に最敬礼させられたということだけど、そんなことはなかった?
フク
そんなのはない。まだない。
H
小学校の勉強はどんな科目があったの?
フク
算術や読み方や書き方があった。算術は私はできるんだ、何をやっても。読み方と書き方がだめだった。結局、商人の子なんだね。算術は応用問題でも何でも負けたことはない。必ず解いた。だけど分数は分からない。
H
教育勅語は?
フク
教育勅語は自然に覚えちゃった。祝日や何かに全部やるから。神嘗祭とか新嘗祭と天皇誕生日の時は、うやうやしく校長先生が巻物を持って読むのを直立不動で聞いている。それから毎週の修身の時間には子供達に読ませた。
H
それで、天皇というのは偉いと思ってしまうわけだ。
フク
偉いねえ。何程偉いか分からない。
H
天皇陛下というのはこの国で一番偉い人で、神様だと思わされるわけだ。
フク
思わされるのではなくて、思っていた。だから天皇が戦争へ行けといえば、一銭五厘の葉書でも行かなくてはならなかった。天皇陛下のために、お国のために。
H
それは疑うこともできなかったの?
フク
疑えない。ヘタにあれすりゃあ、アカだもの。
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