fujiko

自分のアウトプット用に。 日記、エッセイ(定義があまりよくわかりません。)をよく書いて…

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自分のアウトプット用に。 日記、エッセイ(定義があまりよくわかりません。)をよく書いています。良ければ見ていって下さい。短いです。 色々な方のイラストをお借りいたします。

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鈍行(笑)って言うなよ

私は関東圏の地方に住んでいる。 親の協力を得て上京してみたこともあるし、関東圏以外にも住んだことがあるが、自分の肌感とやらが合っていて身を置いている。 東京にもよく行く機会があるのだが、周りの人から結構遠くないかと言われることがある。 確かに、夜に東京で飲み、そこから帰路に着くとなると腰が重くなる。 まあ、そんな滅多に起こらない事象はポアソン分布で求めておくくらいにしておきましょうや。 東京と家の間の移動に多いのは、日が落ちる前である。 私は窓の外を見るのが好きで、

    • 季節を好う

      「春宵一刻価千金」 字面だけ見ると、なんだか難しくて堅くて一攫千金みたい。 ぜひ意味を調べてみて欲しい。 100理解はできないので、「春の夜は素敵だね」という理解をさせて頂くことにする。 別の記事でも書いたように、私は季節を感じることが好きなので、この言葉に出会えて凄く幸せになった。 夜桜が見れる春だろうか、春の匂いが存分に楽しめる時なのだろうな、想像するだけでも何だか楽しい。 空気を吸って、「春やね〜」と共感してくれる人はきっといる。 ロマンチスト?自己陶酔?

      • 納期は2日後です

        久しぶりにnoteを開くとこんな通知があった。 「のばすことができます」 のばすことができる!? そんな都合のいいことがあるのか、と見た瞬間に思ってしまった。 社会に出た人間からすると、有難い音である。 ひたすら頑張り、血眼になってキーボードを打つ。 「のばしましょう」 愛犬が「ごはん」を合図に、駆け回るのと同じように、私の心は踊り狂う。 私は侵されていた。 今回は、踊り狂える案件ではなかったのだ。 私が頑張らねばならない案件だった。 ほいほい着いていったら、

        • みんなの勝ち

          鏡を毎日毎日見て、どんなに願っても大きくは変われない。 私は今までルッキズムだったのかもしれない。 ルッキズムと戦いながら。 ああ、もっと可愛かったらこんなことで傷つかないんだろうなあと幾度も思ったことがある。 最近は整形のハードルが低くなり、私の周りでも二重整形をしている子が割といる。 可愛いなあ、素敵だなあと思う。 私もやりたいか、といわれると答えはNOである。 自分の顔が知らぬ間にいじられるなど怖くて、そんな勇気はない。ピアスも開けられないのに。 恐怖も勿論、

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        鈍行(笑)って言うなよ

          久しぶりの定義

          noteを久しぶりに更新してみる。 私の更新が止まった理由は、どうやら「満たされていた」からだったようだ。 更新が止まる少し前に恋人ができた。 そして今恋人とはお別れしている。 「4ヶ月で別れた」 各位に伝えると、短いと言う人もいれば、4ヶ月"も"と言う人もいた。 私は後者の"も"だった。 心に開いた穴を埋めるには、感情を書き出すという行為が私には必要のようだ。 埋めるのに、出すとは気持ちの悪い矛盾だ。 そして私は長らく開いていなかったnoteを開き、過去に書い

          久しぶりの定義

          誰かが綺麗にしてくれていた

          朝、玄関の扉を開けるとおじさんがいた。 私はビビリなので、「わあ!」と小さい声で発した。 理性が働いた瞬間である。 そんな私のか細い声はおじさんには多分届いていないが、扉が開いたという事象におじさんは驚いていた。 この1秒の間で、登場人物は2人になり、お互いに驚いている空間が出来上がった。 見知らぬおじさんとの気まずい空間を和ませるべく「すみません〜〜失礼しま〜〜す」と笑顔で鍵を閉めながらサヨナラをした。 おじさんは私が鍵をかけている間、手を止めて私から一定の距離を

          誰かが綺麗にしてくれていた

          循環しよう、そうしたい

          ぐわ〜〜り。 ここ半年、私はほぼノーストレスで生きてきた。 一人山の上から、皆ストレス社会で頑張っているなあ、と輪の外にいた。 友達の口から出てくる負の言葉を聞くたび、それなら外に出てみたらいいじゃない。なんて思いながら、そうだねとぬる〜い言葉を発していた。 ノンストレス女、 最近、だんだんとブツブツ愚痴をこぼすようになっている。 関係ないやろ!うるさいな! 勿論、独り言である。私の負の感情に対する独り言は関西弁である。 ただ、私は性格上適度な刺激を求めるタイプ

          循環しよう、そうしたい

          置いていかれないように

          9月になった。 認めたくないくらい暑い9月。 今日の朝、9月であることをスマホで改めて知る。 昨日たまたま目覚ましの音楽を変えた。思いのほか五月蝿くて、驚きで目が覚めてしっかりとロック画面を見たからである。 今日もまた生活が始まる。 毎朝、カーテンと窓を開ける。 今年引っ越して来た家から始めたルーティンである。 玄関から窓まで一直線で空気の入れ替えをすると良いと聞いた事がある。 薄い記憶なので、全然違うかもしれない。 けれど、私はこの家に住み始めて調子が良い。 この

          置いていかれないように

          君は準レギュラー

          私は今日、ナスを主役としたお味噌汁を自分で作って食べた。 ナスのお味噌汁が日々の献立に存在している人にとっては、「あら、そう」となることだろう。 だが、私にとっては初めての試みなのだ。 だだだって、「ナス」だよ!!! あの紫色で、火を通したらグデングデンになってしまうアイツが味噌汁に合うと思う?最初に「ナス入れてみよう!」って行動に移した人は誰なの?味噌汁に何が合うか研究してみたとて選択肢としてナスを選ぶことある? かくいう私も冷蔵庫に残ってしまったナスを見て「味噌

          君は準レギュラー

          粗探しにはキャップなし

          「小さいことだけどさ」 近しい人がよく言ってくるこれ。 「保険をかけて言うならば、気にしなければ?」 私のおでこにピタリと止まるこの言葉。 反芻反芻反芻。 関係性を守るため私はサッと前髪を直す。 清廉潔白な私でありたいが、私は私利私欲まみれである。 すんっとしている私だが、同じように「小さいこと」を気にする。 私は「反面教師」を常に必要としていることがその所以である。 ”自分が成長するために、粗探しをしてそれを反面教師とする。” 証明の一文目みたいな音ですね。

          粗探しにはキャップなし

          迷子にならないように

          電車で人と人の間に座るのが苦手です。 これはパーソナルスペースが小さくなるからとか、壁に寄っ掛かれないからとかではありません。単純に間に座るのが下手ということです。 自分のおしりが分からないのです。 隣の人の膝の上に失礼してしまったらどうしようか。 失礼してしまったら「あ、ごめんなさい。」と言って本来の自分のスペースに戻るのか。その後の居心地の悪さを想像したら、もう戻れないか。 それとも膝の上に落ち着いてしまうのか。 そんなことを想像していると私の口元はゆるゆるに緩

          迷子にならないように

          そういえば変だったよ!

          「生き急いでんの?」 一歩後ろからぴょんっと隣に来た彼女はわたしに言った。 コヤツは何を言っているんだと思った。 彼女から見るとわたしは何かに追われているか、何かを追いかけているように見えるらしい。 物理的に。 わたしはただ、歩くのが速いだけである。 ちょっと遅くしてみる?となるとどこまでスピードダウンしたら良いかわからない。 スピードって相対的なもの? そういえば、小学生の時リレーの選手の選び方変だったな。 一斉に走らせてゴールした順に先生が手を引っ張ってたや。

          そういえば変だったよ!

          誰かが言っていた

          いつもは選ばない真ん中に入り、ドアを閉めた。 中に入れば、いつもと同じ。 トイレである。 よく行くトイレは3つの個室が並んでいる。 わたしは決まって端っこの個室に入る。入るというより吸い込まれているくらいである。 「わたしは真ん中を選ぶ」 今日、トイレの入り口のドアをひらいた瞬間にこの言葉を思い出した。 真ん中を選ぶひとの気持ちを感じるべく、勇気を出して真ん中の個室に入った。 同じである。 個室の中は当たり前に同じなのである。 ドアを開き外に出た。 わたしは

          誰かが言っていた

          失って気づく

          私の好きなTV番組が終了するとのこと。 永遠に続くとも思っていないし、TVer回せ〜〜と言っているくらいだったので少し危機を感じることもあった。 なのにも関わらず、私は油断していた。 このままずっと楽しい時間を過ごせると思っていた。 この悲報は、ネットニュースで知った。 しかも文末のサブ情報で。 それも悲しかった。 ファンを軽視しているのでは!?とも思った。 1TV番組が終了するという、幾度もあったこの現象に自分がこんなにもショックを受けるとは思わなかった。推しメンの

          失って気づく

          「あの頃は」

          私はそんなに嫌いではない枕詞。 よく「俺たちの時は〇〇だった」がウザいとか聞く。 この”ウザい”は、言い方に対してであってほしいと思う。 私はウザいとは感じたことがないので、この感覚を否定されているような気がしてしまう。 昔の出来事やその人がそれに対してその時どう思ったのか、そして今どう思っているのかに興味がある。 出た出た「あの頃は」と、一蹴してしまうのは 多分、そいつのことが嫌いだからだと思う。 ”俺たち”にしているのも完全なる偏見。 私、人に恵まれているらしい

          「あの頃は」

          いつだって「大どんでん返し!!」

          最近、帯で本をえらぶことがある。 これは、帯の存在意義を存分に生かした行為だと思う。 と言っても、文言よりも誰が書いているかにフォーカスを当てる。 この人が面白いと思うなら面白いはずという一種の信頼の元、購入する。 期待値をあげてしまう行為ではあるが、読了後もなお「面白い」と思えるのは頭が上がらない。 そうは言っても、百発百中「面白い」ではないのが現実である。 作品が悪い訳ではない。 好みの違いや自分の理解力の乏しさが原因である。 ただ、私はこの現象が嫌いではない。

          いつだって「大どんでん返し!!」