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構成読み解き概論

最近体力的にきつくて読み解きの更新が滞りがちです。しかしそれならそれで、一度落ち着いて今までの内容をまとめなおしてみようと考えました。


1、なぜ構成読み解きが必要か

100倍の非効率

どうも文学と言語学は関係ありそうな気がして、先日図書館でチョムスキーの「統辞構造論」を借りてきました。難しくてさっぱり理解できません。20ページ読んで止めました。それより前に、ある人から「あなたの考え方は構造主義に近いのではないか」みたいなことを言われて、気になってレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を借りてきました。文章読みにくいです。5ページほどでやめました。
嫌な仮説が浮かんできます。もしかすると私は、知性が少々足りないのかもしれません。しかしうっかりそんな事を認めてしまうと、敗北感で気分が落ち込みます。避けなければならない事態です。敗北感回避のために、私はイソップ狐方式を採用しました。「連中は要するに、文章が下手なだけだ。下手すぎて読みにくいのだ。ペッ。やはり文豪は偉大だ」。

ゲーテやドストエフスキーや漱石などのビッグネームを味方につければ、チョムスキー、レヴィ=ストロース風情の雑魚は軽く跳ね返せる、はずです。分野が違うので関係ない気も少ししますが、少なくとも気分的には落ち込まずにすみます。しかし問題は「著作を十分に理解」というのがどの程度のものなのかはっきりしないことです。「統辞構造論」「悲しき熱帯」はわりと新しい著作なので十分な解説はありませんが、「純粋理性批判」くらい古い著作ですと、非常に難しい本なのですが、詳細で明解な解説が存在します。ここまで理解すればまず十分というラインがすでにあるのです。ところが「ファウスト」「カラマーゾフの兄弟」はラインが不明です。読み解きはいくつか出版されていますが、いずれも隔靴掻痒で「純粋理性批判」解説ほどの明解さがありません。つまり、計算が合わない事態が発生しているのです。

1ページ読む時間で考えれば、「純粋理性批判」は「ファウスト」の100倍くらいかかります。読む手間が100倍なら、理解する時間も100倍です。でも100倍のほうが十分読解されていて、1/100のほうが十分には読解されていない。同じように頭の良い研究者がコツコツ理解していって、結果は100倍以上の差がつく。計算合いません。文芸読解の効率が悪すぎるのです。

多義性の沼

読みやすい文章で書かれているのに文芸の読解効率が上がらないのは、それ相応の理由があります。読みやすいのと理解しやすいのは別の話だからです。言葉は元来多義性があります。言葉の意味は若干ほかの言葉とカブる。「午前」と「朝」は意味が若干カブります。「ご飯」と「食事」は、より一層カブります。言い換えれば言葉の意味は輪郭が若干にじむのです。対して数字は、1と1.1は別の数、1.1と1.11は別の数、1.11と1.111は別の数、1.111と1.1111は別の数、二つの数の差がどこまで小さくなっても、やっぱり明解に別の数なのです。輪郭がにじまない。
哲学や思想で使う言葉は、法律といっしょでなるべく輪郭がにじまない言葉を使うようにしています。言葉の定義がはっきりして、コツコツ組み立てられる言葉になっています。だからコツコツ読解してゆくと、やがて全体像が見える。文芸や詩はそうではありません。組み立てられないように作られている。

こちらの歌詞がまさにそうで、個人の事を語っているかと思えば、「歴史」「神様」「天国」「騎兵隊」「インディアン」などの政治的言葉が混ざりこみます。個人感情の部分にフォーカスを当てれば「行き場のない自分の状況を歌った歌」となるのでしょうが、それでは誤読になります。正解は「白人、特にアメリカの軍事力による世界支配に対する異議申し立て」でして、正しくロックなのですが、政治的言葉は散発的に登場するだけなので明快な証拠にはなりません。哲学、思想、あるいは法律系の読み方だと個人感情の歌としか解釈できません。個人感情を歌った、しかしながら出来の悪い歌詞となるのです。
実際にはヴォーカルが小児マヒ的な動きをすることで弱者としての自分を強調しているので、メッセージとしては明解です。それでもわからない人にはわからないでしょう。音楽的な、感じる部分が多いものだからです。

言語、数字、および音楽は、だいたいこんな風に分布していると考えられます。

詳しくはこちらのページ参照いただきたいです。重複を避けるため本稿では説明を省略します。

コミュニケーション・サークル【貨幣・言語・音楽】|fufufufujitani|note

詩的な文章はつねに、音楽に隣接します。

やはらかに 柳あをめる 
北上の 岸辺目に見ゆ 
泣けと如くに(啄木)

や----や------
き----き------
な------
と韻を踏むことで、音楽的な調子のよさを実現しています。古い歌でも

ひさかたの 光のどけき 
春の日に 静心なく 花の散るらむ(紀友則)

ひ---- ひ------
は---- し------ は------

こちらも同じ戦略ですね。近代詩でも

み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ(三好達治・甃のうへ)

み------み--------
ひ------
ふ------------------
ひ----
わ------------------

と同音を入れ込みます。これを小説で実現する人も居ます。

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。」(川端康成・伊豆の踊子冒頭)

道がつづら折りになって、いよいよ

ア)天城峠に近づいたと思う頃、
ア)雨脚が

ス)杉の密林を白く染めながら、
ス)すさまじい早さで麓から私を追って来た。

私は二十歳、
コ)高等学校の制帽をかぶり、
コ)紺飛白の着物に袴をはき、

ガ)学生カバンを
カ)肩にかけていた。

このような音楽に近づく詩的な言葉は、当然ながら法律的言葉から遠ざかります。整合性が取れない。取れなくする必要があるのです。意図して音楽的な、感情的な、意味のわかりにくいものを書いているのだから、当然そうなります。わかりにくい歌の代表的なものとして

花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)

があります。多義的究極スタイルでして、表現されているのは32音ですが説明しだすと何倍にも膨れ上がります。言語の多義性を最大限に活用しています。もしもこんな言語の使い方が小説になったらどうでしょうか。むちゃくちゃ難解な作品になるはずです。長編小説だったらどうでしょうか。理解不能です。でも小説は売るものですから、表面的にでも難解さを見せるわけにはいかない。苦い薬でも飲みやすく砂糖でコーティングする必要あります。よって逆に、中身がわかりにくくなっています。

正気の人には読めない世界

そもそもなぜ作家たちはそんな複雑なことをするのか。なぜ小野小町はそんな多義的な歌を作ったのか。単に狂気だからです。
才能というものは、病気の一種です。そんなに良いものではありません。才能ある人々は言語の多義性の泥沼の中に入り込んで、そこから一生出られなくなった囚われ人です。我々一般人は作品の多義性を解明するために、泥沼の中を見てみようと努力するのですが、連中は努力しようとしまいと必然の糸に導かれてズルズルと深みに入り込み、脱出しようとしても沈みこみ、沈みこもうとしても沈みこみ、つまりどう動いても沈み込んで、最終的に全身泥に埋もれて死にます。救われません。
個人の生き方としては不幸この上ありませんが、だからこそ言語の世界の王者となって人々に影響を与えています。そして我々一般の人々は、その影響から逃れられません。言語能力違いすぎるからです。ですから歴史上有名な作品は、文化遺産とも言えますが、呪いにも近いのです。我々に認識できないロープを張り巡らせて、私たちを縛り続けています。ちょっとやそっとでは脱出できません。

そんな普通の私たちが言語多義的使用能力を無理に増強したらどうなるか。過去の文芸作品は簡単に理解できるようになりますが、代償として社会生活不能になります。社会生活は言語で営まれますから、狂人に分類されて誰も理解してくれません。文豪たちも元来その運命だったのですが、たまたま時代と環境に適応したおかげである程度は社会人として活動できただけです。天才数学者も似たようなものですが、症状は軽くなります。車のナンバープレートの数に興奮しても、社会人失格とはなりにくい。話題が奇抜なだけで、言語そものもがやばいわけではないからです。対して文学系ですと、話し言葉がほぼ全部嘘になります。本人は楽しくレトリックしているだけのつもりなのですが、世間様からはアカン人物とみなされて終わりです。

そんな謎語で記述された文学作品が、普通の人間には理解不能なのはご納得いただけると思います。いくら頭が良くても、頭が良いとはつまり成績が良いということで、成績が良いとは教科書や試験で使われる多義的でない言語の使用になじんでいるということですから、ジャンルが違うのです。井上尚弥に相撲を取らせるようなものです。そもそも井上では身長低すぎて大相撲には入門できませんが。
成績の良い、頭の良い人が哲学書をコツコツ研究すると、やがて明解な理解に到達します。しかし同じ人が文芸研究しても、謎語で書いているので効率が非常に悪いままなのです。

文学が必要な局面

そんな謎語がなぜ社会に存在するのか。誰も読めないのに皆が読もうとするのは何故なのか。その時、社会全体が狂気に陥っていたからです。典型的なのが太宰治の「斜陽」です。内容詰め込みすぎてややドロドロになっていますが、終戦直後の日本人は発狂気味だったので、難解複雑な作品でも刺さったようで、非常に売れた。読者の99.9%はろくに意味も分からずに、なにかを感じていたのでしょう。普段なら感じませんが、その時だけ日本人の感じるチャンネルが開いていた。

小林秀雄の「無常という事」も同じです。本来こんな難解な文章の意味が分かるはずがないのです。でも当時の日本人には刺さった。狂気に陥っていたから刺さった。

この時はGHQの検閲ありますから、こういう書き方しか無理です。これでしか自分たちの心情を表現する方法がない。検閲官は法律的に文章を読みます。一義的な読み方です。対して文学は多義的です。つまり検閲不能なのです。ジャンルが違いますから。そういう意味で、政治的文化的タブーを書くには、これしか方法ありません。多義性の沼はろくでもない存在ですが、たまには役に立つのです。

それではここらへんで政治的案件というより軍事案件の歌をお届けいたします。歌詞は重層的ですが、有名な話ですので説明は省略します。編曲も上手ですが、歌っている地味目のお兄さんたちが編曲意図を完全に理解しているのがなにより凄いですね。

三軸で切り込む

文学は現状では「意味が分かっていない島唄」です。ただの沼地です。では沼地をもう少し詳しく知りたいとき、出来ることは

1、沼の大きさ、深さをできるだけ正確に測量する
2、沼の泥の成分を分析する
3、付近の地形、他の沼、水脈、沼形成の履歴等を調べる

くらいですね。これくらいデータ集まれば、沼への対処方法考えることができます。同じように文芸作品の沼も、

1、作品の測量
2、登場キャラの列挙
3、周辺作品の調査

でなんとかなります。ゴリゴリ調査してゆけば、狂気に陥らずともかなりの深層まで解明できるのです。より具体的には

1、章立て表の作成
2、登場人物一覧表の作成
3、下敷きにした作品の調査

です。以下説明します。

章立て表

表計算ソフトに内容の要約打ち込んでゆきます。単純肉体労働です。

どの程度の量打ち込めば良いのか、わかっていません。感触的には文庫本1ページに1~5枚程度ポストイットを貼るくらいです。貼ったポストイットを一覧にすればこの表になりますが、最初から章立て表作成したほうが面倒がありません。本文と表計算ソフト両方画面に表示して作業しますと楽です。つまり電子書籍でないとやりづらい。

何日間、大きい作品だと何週間、「戦争と平和」だと1年かかりました。実働三か月なのですが、気分的にうんざりして進みませんでした。漱石「坊ちゃん」で1週間かかった記憶があるのですが、タイピングの早いOLですと1日でできるでしょう。肉体労働と言っても実はその程度の作業量でしかありません。

表ができると、プリントしてじろじろ眺めます。眺める時間が至福の時間です。読んでもよいですし、眺めるだけでも大丈夫です。数日、長い時では数週間、だらだら長時間見ているとなんとなく二次表作りたくなってきます。1/4~1/10に要約した二次表作成します。

二次表をまただらだら長時間見ます。最初の表の中身がなんとなく把握できているので、第三者からは無意味な表でもそれなりに楽しめます。必要ならば三次表を作成して、また見ます。一連の作業の中で全体の構成がだんだん浮かび上がってきます。この作業、考えると負けです。焦っても負けです。名作は逃げません。100年後にも多分名作として残っています。ですからダラダラ見続けてよいのです。どうせ文学読むなんて、本質的に時間のムダです。ムダついでに時間たっぷりかけましょう。もっとも最初に作る表が小さすぎると問題です。ゲーテの「ファウスト」は、最初に

こんな小さな表で妥協したので、意味をつかむのに数年かかりました。大は小を兼ねるのでしょう。どうせなら精密な一次表作っておくと楽だと思います。
表をまとめてゆくと、全体の構成が見えてきます。見えてくるというか、二次表、三次表を作る作業そのものが全体構成の検討になります。三次表まで作ると全体構成は既に明らかになっています。

「こんな表を作る手間を考えたら、全体まるごと記憶したほうが早いんじゃないか」と思う方もいらっしゃるでしょう。物凄く記憶力の良い人でしたら確かにそうです。一次表省略、二次表から考えるで十分です。しかし量の大きな作品ではなかなか覚えられません。
私も高校2年生と3年生の2年間だけ、なぜか視覚記憶力が良かった時期がありまして、文章は憶えられませんが映像が覚えられました。映画を一本見て、目をつぶると冒頭シーンからラストまで思い出せた。今冷静に考えれば、思い出せたと思っただけで実は不十分な記憶だったと思いますし、この能力自体も高校卒業すると消え去りましたが、しかし「人間は作品をどの程度把握できているだろうか」と考えるきっかけにはなりました。把握できていないのです。

映画を見る、感想を言う、それは誰でもできます。しかしその時は内容を散発的に思い出しているだけで、記憶には大量の穴があります。穴があっても問題ない作品もあります。密度の薄い作品です。しかし細かく記憶していなければいけない作品もあります。各部分の相互連関密度が高い作品です。名作はたいていそうです。無駄な箇所、独立事象がほとんどない作品、すべての要素が有機的にからみあっている作品です。そのような作品理解には、シーンそれぞれを思い出すのとは別に、シーンとシーンの関係、シーン同士のつながりも考察しなければならない。目をつぶって冒頭から思い出すような順次的想起ではダメです。全体を俯瞰して一覧で見なければなりません。順次的想起では俯瞰の速度が遅くなります。パソコン、スマホで例えれば、人間の順次的に思い出す能力では画面スクロール速度が遅すぎるのです。だから物凄く記憶力の強い方でも、二次表レベルのものは作ったほうが良いと思います。私の知る限り、漱石「夢十夜」の表さえ誰も作っていなかった。

作れば全体が対称構造になっていると気づきます。対称構造を前提に読めば、文章の意味がより深く理解できます。対称構造が見えなければ、個々の文章もよく理解できません。なんでそこまでして深く理解しなければならないのか。繰り返しになりますが、天才とよばれる作家は狂気の言語多義性泥沼住民だからです。この対称構造、かなり多くの文学作品で見られます。

シェイクスピアの「ハムレット」「ジュリアス・シーザー」「ヴェニスの商人」、漱石では初期の「坊ちゃん」「草枕」「三四郎」、皆対称構造です。それを十分検討した人が今までいなかった。実はハムレットは過去にイギリスの評論家が指摘していたようで、こちらの方が詳しく研究されています。

漱石もシェイクスピアも、膨大な量の研究がされてきたにも関わらず、こういう読解がされていなかったのはひとえに、人間の記憶があてにならないからです。シェイクスピア全作品を把握している優秀で熱心な研究者でも、実は中身は五月雨式にしか記憶できていない。だから構成に気づかない。しかし構成に気づかなければ上記リンクのような深い読み込みは難しいのです。

対句という原理

対称構造における対句は、対句といっても

江碧鳥逾白
山青花欲然

という形式的なものではなく、意味的な対句が多いです。あるいは場所で対句を作る。行動で対句を作る。「坊ちゃん」の場合はプチワルプルギスシーンが特徴的な対になっています。

話それますが、だいたい言語は

1、語順がかっちり決まっている。語形変化少ない(英語など)
2、語順はあいまいだが、格変化など語形変化で主語述語を示す(日本語など)

どちらかのパターンらしいのですが、漢文(中国語、ではなく漢文です)は、語順ルールはあってないようなものです。漢字オンリーなので格変化も助詞助動詞もむろんありません。かなり奇抜な言語です。言語といっても文章専用ですので、例外的な存在になったようです。その漢文では、対句を発見するのが読解の第一歩らしいです。

これを作品全体に広げて考察するのが構成読み解きと考えていただいて間違いありません。
文法があまりない漢文に文法の代わりに存在して内容理解を手助けする存在が対句です。物語の対句もおそらく「物語の文法」のかわりに存在していて、意味の理解を助ける。物語文法代替物が対句なのでしょう。

現実に物語を分析してゆくと、

1、対句をあまり重視しないもの(普通の三幕構成)
2、対称構造(鏡像構造)
3、反復構造

のだいたい三つになるようです。サンプル数が少なすぎてこれしか見つけられていない可能性はありますが、この三つが存在するのは確実です。
最初の三幕構成というのは少々説明が必要で、wikiにある三幕構成はハリウッド式三幕構成でして、

技術の精緻を極めているのですが、今言っているのはこれとは違って

太郎は歩き始めた
太郎はコケた
太郎は再び歩き始めた

式の、単純な構成を想定しています。これですと対句はさほど存在しません。普通の小説はだいたいこういう形式だと思います。しかし名作になると対句が大量発生してくる。

対句ふんだんにちりばめて、全体を有機的に仕立て上げるのです。そしてその対句を拾っていった場合、鏡像(対称)になるか、反復になることが多いです。反復構成というのは太宰の「斜陽」が代表格でして

こんな風になっています。実はより詳細に

対句を作っていまして、変態の極みです。付き合っていられません。しかしこの前後対応関係に着目できないと、意味が十分にはとれない。だから形式を研究するのは大事なのです。

歌と構造

反復構成は、早く言えば歌詞の一番二番です。同じ曲で歌詞だけ変えて繰り返す。

一番
夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

二番
山の畑の 桑の実を
こかごに摘んだは まぼろしか

三番
十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

四番
夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

一応解説しますと、負われたとは背負われたという意味で、本人が姐やに背負われています。
桑の実はブルーベリーみたいなもので、姐やは本人背負ったまま桑の実をつんでいた。だから一番と二番は同じシーンです。一番と二番のみ見ますと反復構成ですが、今二番を省略してみましょう。

A
夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

B
十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

A
夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

対称構造になりました。対称構造、反復構造といっても、この程度のものです。おそらく単純な反復構造が古いのでしょう。

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく
あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく
また子を欲するなかれ、いわんや朋友をや
犀の角のようにただ独り歩め。

交わりをしたならば愛情が生じる
愛情にしたがってこの苦しみが起こる
愛情からわざわいの生じることを観察して
犀の角のようにただ独り歩め。

朋友・親友に憐れみをかけ
心がほだされるとおのが利を失う
親しみにはこの恐れのあることを観察して
犀の角のようにただ独り歩め。

子や妻に対する愛著は
たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである
筍が他のものにまつわりつくことのないように
犀の角のようにただ独り歩め。

(仏陀・スッタニパータより)

4行目がリフレインで、延々と続きます。仏陀死後当分の間は暗唱で教えを伝えていまして、実際こういう形式でないと覚えられない。

桃之夭夭  灼灼其華
之子于帰  宜其室家

桃之夭夭  有蕡其実
之子于帰  宜其家室

桃之夭夭  其葉蓁蓁
之子于帰  宜其家人

(詩経)

こちらはちょいエロでして、有蕡其実がむっちりボディー、其葉蓁蓁があそこの毛ですね。新婦は新郎に接近してゆきます。期待は高まります。さすがは詩経の代表作、出来が良いです。最初の4文字がリフレインですね。これも暗唱というか、愛唱されていたものを書き留めてたものです。
しかしリフレインは憶えやすいですが、冗長です。時系列上でなにかが進展しているわけではない。物語としての流れがありません。

太郎は歩き始めた
太郎はコケた
太郎は再び歩き始めた

は流れがあります。よく見れば一行目と三行目は対称構造になりかかっているといえなくもない。ギリシャ悲劇「オイディプス」は、物語が対称構造取り始めた姿を見せてくれています。

こういう原初的形態も、もっと調べなきゃいけないのですが、進んでいません。今後の課題です。世間には「物語」「文学」「文芸」「小説」など沢山の言い方がありますが、対句は歌詞で顕著ですので、対句をふんだんに使用した物語が歌や詩に近寄ったの存在であるのは言えると思います。詩の要素が多い分だけ意味が不明確になる。多義的になる。

元来私は別にこういう形式の研究するために作業をしているわけではなく、文学作品の意味を理解したくて作業していたら物語の形式に気づいただけでして、言語の多義性の沼を克服しようとしてなんのこっちゃ別の沼に足を取られている気がしなくもありませんが、多分気のせいです。

登場人物一覧表

章立て表の次に重要なのが登場人物一覧表です。例えばドストエフスキーの「悪霊」ですが、

このように、ゲーテの「ファウスト」の登場人物一人につき、「悪霊」では二人ずつ対応させています。これにより難解をもってなる「悪霊」の内容が一気に明解になります。もっとも「ファウスト」の内容が読めていなければ意味がありませんが。

この登場人物のキャラ配置戦略に関しては、ドストエフスキーが絶対的な力量を持っています。

他の作家は数ランク落ちるようです。奇抜なところではコンラッド「闇の奥」のキャラ配置がストーリーになっているもの、

その後継作品である「グレート・ギャツビー」

そこらへんから参照したのか、ドストエフスキーから参照したのかわかりませんが、三島の「豊饒の海」

もキャラ配置に凝っています。こういうのも表計算ソフトでまとめなければなかなかわかりません。表を作って少しでも考える時間が必要なのです。
キャラ配置の研究で最も驚いたのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の素晴らしいキャラ配置戦略を、

夏目漱石が読み解いて、最後の作品「明暗」では対抗しようとしていることです。

しかしこれも私の調査ではこうなったというだけで、調査数1です。数が足りません。もっと研究量がこってりと積み重ならないとそれが真実だとは言い難いです。

下敷き作品の調査

前述のごとくドストエフスキーの「悪霊」の場合は、ゲーテの「ファウスト」を下敷きにしているのですが、その「ファウスト」に何が書かれているか理解していなければ、なんにもなりません。ところがこのファウストが同じように難解だから困ります。

特にファウスト第二部は単品の調査では理解できない事が事前にはっきりしていましたから、前もって「ファウスト」が下敷きにした、旧約聖書「ヨブ記」と、シェイクスピア「夏の夜の夢」を調べておきました。

それでようやく「ファウスト」の意味が取れた。そして三作品を調べて、ようやく「悪霊」に目鼻がついた。ついたのは目鼻であって詳細な説明にはなっていませんが。
文学解説では「この作品はだれだれの何々に影響を与えた」みたいな文章はよく見るのですが、その作品と後継作品をそれなりの精度で解読できなければ、関連に気づいてもたいして物事は明らかになりません。だから下敷き作品調査はおまけみたいなもんです。あくまで章立て表と登場人物一覧表がメインです。しかしたいてい物事の分析は二軸では少し足りません。三軸は必要です。だから下敷き調査も不要にはなりません。

2、天才という名の狂人たち

ゲーテ

その「ファウスト」でゲーテは、キリスト教教会に反抗しています。教義の中心にある三位一体論を批判しています。時は江戸時代後期、まだまだヨーロッパでも教会の力が強いですから、非常に危険な行為です。無論ニーチェより前です。

ゲーテの権威をもってしても危険すぎるので、発表は死の直前までずれ込みました。内容は時間論、貨幣論、経済論にまでわたり、さすがに充実しています。しかしわかりにくい。わかりやすく書いてしまうとアウト、という勝負なのですから仕方がありません。

ドストエフスキー

若いころは反政府運動していました。死刑宣告受けました。刑の執行直前で恩赦が出てシベリア送りになりました。シベリア送りとえいば過酷な環境で病死が定番ですが、ドストエフスキーは叩いても死なんタイプですね、生き残って出所しました。帰ってきてゲーテに対抗心まんまんで「悪霊」書いたりしました。共産主義否定の内容ですが、無論教会にも否定的です。イエス・キリストは好きなんですがね。彼の作品のいくつかは天才の極みでして、今日に至るまで全世界の文芸を支配する暴虐なツァーリとして君臨しております。単に権力欲強すぎただけなんじゃないかという気も少しします。キャラ配置戦略は絶後の力量でして、時々軍隊の部隊配置や首相の組閣戦略を連想します。

ロシア革命後、なにしろドストエフスキーは共産主義を否定していますから、ソヴィエト政府としては発禁にしたかった。しかしビッグネーム過ぎて発禁にできなかったので、トルストイの脇に置いて目立たなくしようとした。そうこうするうちに段々ソ連は弱っていって、とうとう崩壊した。今のロシアでは相当研究されているようです。そしてロシアは以前のような帝国主義国として元気に活動しはじめました。少々元気すぎるかもしれません。これくらいの作品になりますと、国家運営戦略の基礎になりえるのです。

ただソ連時代よりは読めているだろうというだけで、現代ロシアの研究も私はあまり信用していません。構成読みしているとも思えないからです。していても効率的ではありません。実は章立て表や登場人物一覧表作ってジロジロ眺める、というアプローチは漢字文化圏以外ではあんまり意味がありません。こういう大きな表の文字が、全部ひらがなで書かれている状況を想像してください。

効率上がりませんね。漢字は視覚情報を刺激しますから、絵を見ているようなものでして、文字を読まなくても眺めるだけでなんとなく意味が脳みそに染みてくる。新聞を広げて見出しを眺めているとき、見出しの文章は読んでいないはずです。漢字の雰囲気で何について書かれているか瞬時に判断して、興味ありそうなネタだったら視点をそこに集中させて読み始める。その見出しを眺める能力を使って、全体を把握してゆく作戦です。大天才の作品はこれくらいの作戦立てないと把握できないのです。しかし日本、中国、半島以外の人間はだいたいアルファベット系(ハングルはアルファベットですが)ばかり使っていますから、表をいちいち頭の中で読み上げなきゃいけない。我々は大変有利な状況なのです。かなと漢字を覚えるのは、初等教育では大きな負荷ですが、年とともにメリットのほうが大きくなってきます。

夏目漱石

優秀だからイギリスに留学しますが、少し精神を病みます。密偵が自分を監視していると思い込んでいます。被害者意識満載です。漱石のロンドン滞在は日英同盟成立前夜くらいのタイミングですから、イギリス政府の密偵張り付いても実は全くおかしくなかったのですが、真相は不明です。帰国後教師として生活しますがやがて病状が悪化、教壇の上で一人で興奮して炸裂するようになります。無論授業にはなりません。心配した友人がストレス解消に小説書くのを勧めます。その気になってネコが主役の文章書きます。当たります。
その後専業作家になります。明治政府が嫌いです。天皇も嫌いです。明治という時代そのものが嫌いなのです。江戸時代の江戸の生まれだからです。実家は名主、つまり庄屋さんです。脇差は差してもよい身分です。準サムライです。つまり準幕臣なのです。伊藤も山縣も嫌ってあたりまえです。連中への憎悪がつのりすぎて、西郷だけは認めていたようです。ですから「こころ」書きました。

政治的な作品、ということは弟子の小宮豊隆はわかっていたはずです。でも師匠が抹殺されることを恐れて言わなかった。当時は反天皇は抹殺が定番です。その後の評論家では江藤淳が良くないと思っています。本当はかなり読めたはずです。でも発表されているのは鋭い部分とアホな理解が変に混在した読解です。時代は戦後でしたが、彼もまた反天皇的な部分にフタをした。漱石像を歪めました。丸谷才一も本当はかなり読めているはずです。しかし著書にはそれほど的確な読みが見当たらない。少々やばすぎるキャラなので、みんなフタをしている部分もあると思います。

以上三人の活動まとめただけで、だいたい状況つかめると思います。彼らは善良な市民ではありません。教養があるのでそれらしく見えるだけで、内実はラーテルです。

本当はそれ以下のペリカンじゃないかという気もします。無駄に気が強い。ラーテルが(イタチ科ですから)最後の手段として臭腺持っているように、彼らも入り組んだ言語ガスで周りを汚染してゆきます。ところが世間の評価では温和で知的で尊敬すべき人物という事になっています。間違いです。だいたい芸術家で人格者なんて自己矛盾です。ラーテル人間と考えませんと作品が理解できません。この路線だと文学鑑賞という上品なイメージは毀損されてしまいますが、作品の内容は毀損されないのです。

太宰治

戦後しばらくGHQが日本を支配していました。言論の自由はありません。その中で太宰は、日本擁護、天皇擁護の作品を書きました。多義的、重層的作品にせざるをえなかった。しかし実は人間失格などは出来が非常に良くてすっきりしているので、少し文学を読める人なら意味が分かっていたはずなのです。しかし文部省の方針もGHQの規定したものそのままでしたから、読める人は口をつぐみ、読めない人はそのままで、75年が経過しました。戦後は続くよどこまでも。誤読も続くよどこまでも。日本という国は学生に例えれば、校則をきっちり守れる人が多くてたいへん良いことなのですが、たまにはなんでその校則があるのか、誰がその校則を作ったのか、自分の頭で考えなきゃいけません。考えすぎるとラーテル化します。それはそれで大変な人生になりますのでほどほどにするべきですが、この程度は見識持とうじゃありませんか。
そんな太宰は不自然に文章能力が高いです。原因を考えた末に、結論に到達しました。

太宰は日本語のネイティブスピーカーではなかったのです。「いや津軽弁は日本語の一種だ」と反論出そうです。あるいはもしかするとほんとうにそうなのかもしれません。しかし仮に百歩譲ってこれを日本語の一種だとみなしたとしても、太宰にとって標準語はほぼ外国語です。それは日本語について考えるようになりますね。考えなきゃ誰にも通じない。
太宰は構成感覚は漱石よりも良いくらいなのです。太宰が構成の基礎をなす対句に敏感なのだと思います。上にあげた漢文の対句と事情は似ていますね。意味不明の文字の羅列は、まず対句で整理しなきゃどうしようもない。我々にとっての漢文が、かれにとっての標準語だったのでしょう。

近代日本語は漱石が組み立てて太宰が完成させたというのがだいたいの評価です。漱石は江戸生まれですから、自分のネイティブな言語そのままでゆけた。ただし英国留学、漢詩が得意という属性です。江戸語を大幅に改良して近代社会に対応したものに作り替えた。

それでできた言葉を日本語周縁地域の視点から最終チェックしたのが太宰です。英語も漢籍も実力は漱石の0.1%以下です。「江戸弁」の実力はそれ以下です。だからこそその視点から最終仕上げができる。加えて太宰は女言葉が得意でした。
日本語の文章は奇抜な発生をしております。「男もすなる日記といふものを女もしてみむとするなり」からはじまりました。女になりきらなきゃいけない。運の良いことに、あるいは運の悪いことに、太宰は元来女の腐ったような人格の持ち主でしたから、努力しないで女になりきれた。執筆時には少しはシャキッとしますから、普段よりシャキッとした文章を書く、すると自然に標準レベルの女の繰り言のような文章になります。他の人には真似できません。女言葉で書くだけでポイント加算されるというのは不公平にも思えますが、日本文化の特色ですのでこれは仕方がありません。そして女の繰り言だからこそ、GHQの検閲を突破できた。GHQは日本歴史上最大の権力集中だと思っているのですが、その権力さえも潜り抜ける。犯罪的文章力です。

三島由紀夫

三島は刃物も好きだったようで、使えないくせに名刀を買い込みました。作家仲間の石原慎太郎に自慢しました。抜いて見せると言うのです。石原は(三島の下手さを知っているから)止めるのですが、三島は居合芸を敢行、想像どおり失敗して刀が天井に刺さって抜けなくなります。無理して抜くと名刀も刃こぼれしています。刃こぼれを直すのにまたお金がが結構かかると三島はボヤいたそうです。
というエピソードを、全く同じように大江健三郎相手に繰り返しています。天井に刺さるのも刃こぼれするのも一緒です。二回とも同じように天井に刺せるならある意味居合が上手いじゃん、という話題ではありません。

相手が石原と大江、ということは彼らの読む能力を見込んでのことです。三島らしくサーヴィス精神に富んだ一幕の芝居です。私には「助けて」という悲鳴に思えます。話せないけどあなたなら意味がわかるでしょう?下手な政治活動なんかするんじゃなかった。悲痛です。ここで問題は刺さった天井が何を表すのかなのですが、不明です。三島事件の直後CIAの警視庁への問い合わせが凄かったという話を読んだことがあります。となると天井はアメリカではない。少なくともCIAではない。しかしその話も本当かどうかわかりません。このへん現代史ですね。
三島事件は様々な人がコメントを出していますが、福田恆存と小林秀雄の二人だけは沈黙していたそうです。福田は英文学、小林はフランス文学、つまり国際情勢の知識が豊富です。つまり三島事件は国際案件の可能性が高い。ますます真相不明です。

権力と文学

作家五人の説明してきました。結局五人とも反体制です。これが文学なのです。苦悩を描いているから価値があるのではありません。苦悩なんぞ座敷芸です。三島の居合です。政治的、社会的にヤバいことを描くのが文学の王道です。ヤバいことをヤバいと規定するのは権力者です。だから文学はたいてい反権力になります。
反権力と言うとすぐ日本の総理の悪口言って反権力のつもりになる人が出現するのですが、それは反権力ではなくただの権力順応です。校則破った不良を非難する風紀委員です。校長の犬です。今日の権力者とは、英米の上層階級で構成されるアングロサクソン・ユダヤ複合体と呼ぶべきもので、それなりに優れた校長先生なのですが、ここ最近はいささか強欲すぎた。なんでもかんでも自分の利益にしたがる。塩梅ちゅうもんがわからなくなったようです。その上内政がダメです。壊滅的です。

アヘン戦争が1840年。鄧小平の黒猫白猫が1960年。中国が麻薬の害悪から脱出するのに、だいたい120年かかったと私は思っています。ということはアメリカも最低数十年は苦労するんじゃないかと思います。しかもまだ、麻薬からの脱出が始まっていない。

つられるように英米の最近の文化状況は非常に悪いです。英国映画は壊滅でして、ハリウッド映画も程度が低い。昔は英米はさすがに文学力高かったのです。文学力で世界を支配していた。最近では腹芸の利かない校長先生になっています。アマプラでいくつか見た感触にすぎませんが、近年ではフランス、ドイツ、ロシアのほうが映画が良くなってきています。こちらなんかよかったです。

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元来のフランス映画、「パリの屋根の下」などの、名もなき庶民の生活を豊かに描く伝統が復興したようです。ようやっとゴダールの悪影響抜けられました。チープすぎましたね、あれは。

「アバターの新作」の事件が最近ありまして、

世界中で興行収益一位なのに、日本でのみ三位だった。一位はスラムダンクで、二位はすずめの戸締り、要するに日本アニメに負けた。日本は幸いなことに文化力では、今現在ではアメリカを跳ね返せる唯一の国のようです。アメリカ映画の魅力が下がると同時に、読み解き含めてアニメ業界が頑張っています。

日本は元来、内向きと外向きを繰り返す国です。

最後の1995は適当ですが、ここらへんはもう少し時代が熟成しないと精度の高い判断は難しい。振り返れば遣唐使廃止も唐の政治状況が悪くなって魅力がなくなったからです。鎖国は、実態は幕府独占管理貿易なのですが、ともかく自閉的になったのは朝鮮出兵の失敗や日本人を奴隷にするクリスチャンたちに嫌気がさしたからで、要するに両方とも海外へのあこがれがなくなったからです。明治以降は海外へのあこがれがありましたね。実際私が若いころはまだ海外へあこがれがありました。町並みは奇麗だし、肉は沢山食えそうだし、行ってみたいなよその国でしたが、住みやすさ、治安、快適さなど考慮すればどうやらここが世界最高の場所のようで、あこがれがすっかりなくなった。インターネットがそれを助長していますので、当面内向的な時代だと思います。デフレ、緊縮財政、というより拡大財政への恐怖は、ベースにはこのメンタリティがあるのではないか。

といいながら、国防上アメリカの配下の地位はしばらくは変わりません。中ロイランが台頭してきても、しばらくこのままで行くと思います。現状まだ英米のほうがマシですから。ただ校長先生がもっとダメになったら転校するよりほかにないわけで、難しい時期ではあります。もっともライバル校にも魅力を感じていませんから、完全に引きこもるかしれませんが。
いずれにせよ引きこもりがたいていネットだけは見ているように、引きこもっても世界理解の努力は怠るわけにはいきません。読解の必要性はなくならないだろうと思います。

では最後に、日本がひきこもりはじめる少し前、時代を先取りした歌をお届けいたします。無論恋愛歌ではありません。



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