「ヨブ記」あらすじ解説【旧約聖書】
聖なる書物を汚すものは天罰が下されます。私が天の業火によって焼き尽くされるのは確実な運命です。ですからキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者様たちが、私に手を下す必要はまったくありません。
理解不能物語
「ヨブ記」は旧約聖書の中でも有名な物語です。創世記、出エジプト記のつぎに有名くらいです。しかし普通に読んでも理解不能です。読みにくいことこの上ありません。理解できないのは私が信仰を持たないからなのですが、信仰を持たないままなんとか理解できないか挑戦してみました。
全文
新共同訳
http://www.yoyoue.jpn.org/bible/job.htm
日本聖書協会訳
http://ur0.link/MXYJ
ネット上で読めますが、いきなり読んでも理解不能です。
このまとめを読んでから読まれることを勧めします。
でも天罰を恐れる方はこのまとめ自体を読まないことをお勧めします。
あらすじ
Aパート
ヨブという信仰厚いリッチマンが居ました。財産大量、子供たくさん、幸福でした。
神とサタンがヨブについて会話します。(ヨブ記ではサタンは神の手下、チョイ悪キャラの設定です。神の敵とまではゆきません)
神:「私のしもべヨブは信心深いやつだ」
サタン:「それはヨブがいい生活してるからです。彼から全部奪ったら神を呪うようになります」
神:「ええで、やってみろ。だが命は奪うな」
サタンはヨブに害を加えました。ヨブは財産全部失い、子供も全部死に、皮膚病になりました。悲惨です。死を待つのみです。でも神を恨みはしませんでした。信仰厚いからです。
Bパート
ヨブの友人が3人訪ねてきます。変わり果てた姿にショックを受けます。7日間のショックの後、ようやく話をする雰囲気になったのでしょう、ヨブが口を開きます。
「私の生まれた日は消えうせよ」
つまり「生まれてこなければよかった」という意味です。
3人の友人は「神は現状復元してくださる」「神は勧善懲悪」「いややっぱりヨブが罪を犯したから罰を受けているんじゃ?」とか色々言います。
しかしヨブの主張は一貫していて、「悪いことはひとつもしていない」「この境遇は不当だ」「神とお話したい」です。
4人で延々と議論していますと、なぜか突然3人の友人以外の人物が登場します。エリフさんです。「いままで話を聞いていた」という設定が急に加えられます。かなり不自然です。エリフさんは「やっぱりヨブが間違っている」と言います。
Cパート
嵐の中から神が出現します。
神:「誰だ、知識もないくせに。天地創造のときにお前はどこにいたのだ。天地全部私の作ったものだ。まいったか」
ヨブ:「参りました」
ヨブが降参したので、神は友人3人に、ヨブに贈り物をすることを命令します。エリフさんには言及なし。そしてヨブは現状回復してもらい、以前の倍の財産を得て、子供もできて、長生きしました。めでたしめでたし。
章立て表
42章あります。長いです。
問題はBパートです。そもそもなにを言っているかわかりません。議論しているようで、議論になっていないようにも見えます。実はA、Cは散文で書かれていて、Bは詩だそうです。おそらく作者が違います。後でドッキングしています。A、Cは神を「ヤハウェ」と呼び、Bは「エロヒーム」と呼びます。全然違います。神話でも古いものはこんなものです。アマテラスもオオヒルメムチという別名あります。名称統一する前に神話ができちゃった。あるいは違う神を信じる部族の話が合体したのかもしれません。本当言うとBパートはなくても話としては成立します。でもひとつにまとめられて、ひとつの話として歴史上流通しているので、ここではひとつの物語として解読しましょう
成立背景
舞台となるウツという土地は、南エドム、と言われています。シナイ半島の向かって左がスエズ湾、右がアカバ湾ですが、アカバ湾の北側と考えればよいと思います。別にパレスチナではありません。つまりユダヤ人ではありません。ユダヤ人でないひとをユダヤ教徒にする活動です。ユダヤ教教団営業部の活動なのです。
レビヤタン
海の怪物が何度も出てきます。レビヤタンと呼ばれたり、海の怪物と呼ばれたり、ラハブと呼ばれたり、呼称も統一しませんが、登場の仕方もものすごく不自然です。ちなみにレビヤタン=リヴァイアサンです。ホッブスの著作で有名ですが、それの初出がヨブ記です。
第3章でヨブは自分の生まれた日を呪って、「 日に呪いをかける者、レビヤタンを呼び起こす力ある者が、その日を呪うがよい。」と言います。
第7章でヨブは、「私は海の怪物なのか。(それほど危険な存在ではないはずの私に)なぜ監視が必要なのか」
と言います。
第26章でヨブは「神は強力」という箇所で「神は御力をもって海を制し英知をもってラハブを打たれた」と言います。
しかし最も不自然なのは、神です。しかし神に不自然では失礼ですので、超自然と言いましょう。
第40章で神は、陸の怪物ベヘモットと海の怪物レビヤタンの描写にこだわります。レビヤタンの部分のみ参照します。(新共同訳、注意!長いです)
「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げその舌を縄で捕えて屈服させることができるか。 お前はその鼻に綱をつけ顎を貫いてくつわをかけることができるか。 彼がお前に繰り返し憐れみを乞い丁重に話したりするだろうか。 彼がお前と契約を結び永久にお前の僕となったりするだろうか。 お前は彼を小鳥のようにもてあそび娘たちのためにつないでおくことができるか。 お前の仲間は彼を取り引きにかけ商人たちに切り売りすることができるか。 お前はもりで彼の皮をやすで頭を傷だらけにすることができるか。 彼の上に手を置いてみよ。戦うなどとは二度と言わぬがよい」
二度と言わぬがよいと言われても、レビヤタンと戦うなんて誰も一度も言っていません。でも神の発言なので誰も突っ込みません。超自然です。
そして第41章に突入、全部がレビヤタンの描写です。(新共同訳、注意!死ぬほど長いです)
「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。 彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。いるなら、わたしの前に立て。 あえてわたしの前に立つ者があればその者には褒美を与えよう。天の下にあるすべてのものはわたしのものだ。 彼のからだの各部についてわたしは黙ってはいられない。力のこもった背と見事な体格について。 誰が彼の身ごしらえを正面から解き上下の顎の間に押し入ることができようか。 誰がその顔の扉を開くことができようか。歯の周りには殺気がある。 背中は盾の列封印され、固く閉ざされている。 その盾は次々と連なって風の吹き込む透き間もない。 一つの盾はその仲間に結びつきつながりあって、決して離れない。 彼がくしゃみをすれば、両眼は曙のまばたきのように、光を放ち始める。 口からは火炎が噴き出し火の粉が飛び散る。 煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。 喉は燃える炭火口からは炎が吹き出る。 首には猛威が宿り顔には威嚇がみなぎっている。 筋肉は幾重にも重なり合いしっかり彼を包んでびくともしない。 心臓は石のように硬く石臼のように硬い。 彼が立ち上がれば神々もおののき取り乱して、逃げ惑う。 剣も槍も、矢も投げ槍も彼を突き刺すことはできない。 鉄の武器も麦藁となり青銅も腐った木となる。 弓を射ても彼を追うことはできず石投げ紐の石ももみ殻に変わる。 彼はこん棒を藁と見なし投げ槍のうなりを笑う。 彼の腹は鋭い陶器の破片を並べたよう。打穀機のように土の塊を砕き散らす。 彼は深い淵を煮えたぎる鍋のように沸き上がらせ海をるつぼにする。 彼の進んだ跡には光が輝き深淵は白髪をなびかせる。 この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。 驕り高ぶるものすべてを見下し誇り高い獣すべての上に君臨している」
神が「彼のからだの各部についてわたしは黙ってはいられない」と言って長々と描写を始めてしまうのです。これまた超自然です。この章は神が自分の偉大さをアピールしてヨブを服従させるためのものです。なんでわざわざレビヤタンのアピールをせにゃならんのか。
海洋民族
信仰持たぬ私は以下のように考えます。
南エドムのウツ、アカバ湾の北に住むヨブ、およびヨブの物語を聞く人々は、海洋交易民族のはずです。そのような民族は通常、海の生物を信仰します。それがレビヤタンであり、別名ラハブであり、海の怪物なのです。難破が一番怖い事件ですから、当然そうなりますね。海が荒れるとレビヤタンの仕業と考えます。だから普段はレビヤタンに「偉大なレビヤタン、おとなしくしてください」と祈りを捧げています。
そういえば日本でも昔、海上交易民族ワニ族と、陸上民族ウサギ族が争いまして、緒戦は海上戦闘能力のあるワニ族優位、しかし最終的にはオオクニヌシという援軍を得たウサギ族の勝利、宇佐神宮にその名を残しているんじゃないかと私は想像しております。
敗北したワニ族は中国山脈の山奥に逼塞、トーテムとしてワニを信仰していた名残で、正月にわざわざ日本海からサメ(すなわちワニ)の肉を運んで正月料理として食べていました。30年以上前は確かにしていました。今はどうだか知りませんが。
話戻って当時のユダヤ教教団営業部は、そんなレビヤタン信仰を持つ海洋交易民族に布教攻勢かけたのではないか。そんな彼らを一神教に勧誘しようとすると、
1、彼らの信仰するレビヤタンを作ったのも神である
2、しかし神にとってもレビヤタンは傑作といえる作品である
ということを強調しなければなりません。
普通突然一神教の教義を説明されても興味なんか持てません。関係ある名前が出てくるから興味を持ってもらえるのです。レビヤタンを讃えるのを聞けばその部族の自尊心が満足できますし。上位互換の神としてヤハウェを信仰してもいいかな、という気になります。なかなか上手な営業方針です。
Bパート
物語の目的は私なりにわかりました。
しかし問題はBパートです。ここが何度読んでも理解不能です。ここではヨブと友人が交互に語ります。3回繰り返して最後ツォファルが語る番をエリフさんが横取りします。
ヨブ9回、友人+エリフ9回、合計18回の会話です。何度読んでも頭に入らない内容です
難しすぎるので、適当に章立て表にしてみました。自分史上最悪にアバウトな章立て表です。理解できないので雑になるのは仕方がありません。
(拡大して見る必要ありません)
一方で、本文読まないのも無理があるので、徹底的に削っていって、長さを半分以下にしました。
https://yomitoki2.blogspot.com/p/blog-page.html
簡略化しても長いです。すみません。両者勘案してみると、どうも何度も同じ事を繰り返すことが会話の目的で、本当は議論をしたいわけではないようです。
ヨブは
「嘆き」
「神は強力」
「人間ダメ=神は強力」
「神への呼びかけ」
「勧善懲悪になっていないという不平」
の5種類を繰り返し語っています。
友人3人+エリフは、
「神は強力」
「人間ダメ=神は強力」
「信仰大事」
「勧善懲悪原理」
の4種類を繰り返し語っています。
エリフは「苦難を経なければ無価値」と、やや変わったことを言います。
ヨブと友人の会話を分けてみました。ヨブは嘆き(水色)中心、ほかの人は説得中心の構成になっています。
反復強化戦略
この物語で議論が延々と続くのは、反復強化戦略によるものです。どんな宗教書でも自分の宗教の宣伝に決まっていますが、この物語もそうです。「神は強力」「神は全能」「神は知恵」「神が天地創造した」「神の業は以下のとおり」「私も知っている、神はどうこうされた」などなどとひたすら反復することによって、神の偉大さを読むもの、聞くものに印象付けようという意図です。選挙の時に候補者の名前を連呼するのに似ています。しかし無駄な台詞の連呼ではありますので、そのせいでBパートがものすごくわかりにくくなっているのです。
反復強化の部分を省略して、一応理論の流れをまとめてみました。たいして内容ありません。一応議論と言えなくもないですが、議論になってないとも言えそうです。
キャラ設定としては、
エリファズ:ヨブが悪いことをしたと思っている、勧善懲悪を強く信仰
ビルダド:神の強力さを強く信仰
ツァフォル:人間の不完全さを強調
となります。
実際に演劇仕立てで布教する場合には、
エリファズ:頑固親父タイプキャラ
ビルダド:神掛かったキャラ
ツァフォル:内省的弱気キャラ
で設定したのではないでしょうか。
エリフさんは若くて理想に燃えるキャラです。
仲介者
なぜエリフさんが不自然にも突然出現したか。それは彼が神と人との仲介者だからです。仲介者さんは実は議論の中でさんざん必要とされてきました。
ヨブが神と語りたいと希望するからです。
第九章ヨブ
「あの方とわたしの間を調停してくれる者仲裁する者がいるなら わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるならその時には、あの方の怒りに脅かされることなく 恐れることなくわたしは宣言するだろうわたしは正当に扱われていない、と」
第18章ヨブ
「このような時にも、見よ天にはわたしのために証人があり高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。 わたしのために執り成す方、わたしの友神を仰いでわたしの目は涙を流す」
と、神と語りたい、そのための仲介者があればよい、とヨブは語ります。エリフ登場のための伏線です。
ヨブが友人との語りの中で、何度も神と語ることを希望します。そこに割って入ったエリフは、延々と神の偉大さを述べたのち、最後に神の力の一環として、嵐を描写します。ファンファーレの直前に太鼓がドロドロとクレッシェンドする状況ご想像ください。
第37章エリフ(新共同訳)
「 聞け、神の御声のとどろきをその口から出る響きを。 閃光は天の四方に放たれ稲妻は地の果てに及ぶ。 雷鳴がそれを追い厳かな声が響きわたる。御声は聞こえるが、稲妻の跡はない。 神は驚くべき御声をとどろかせわたしたちの知りえない大きな業を成し遂げられる。 神は命じられる。雪には、「地に降り積もれ」雨には、「激しく降れ」と。 人の手の業をすべて封じ込めすべての人間に御業を認めさせられる。 獣は隠れがに入り、巣に伏す。 嵐がその蓄えられている所を出ると寒さがまき散らされる。 神が息を吹きかければ氷ができ水の広がりは凍って固まる。 雲は雨を含んで重くなり密雲は稲妻を放つ。 雨雲はここかしこに垂れこめ導かれるままに姿を変え命じられるところをあまねく地の面に行う。 懲らしめのためにも、大地のためにもそして恵みを与えるためにも神はこれを行わせられる。(~中略~)今、光は見えないがそれは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと 北から黄金の光が射し恐るべき輝きが神を包むだろう。 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。 それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。」
そして神が登場するのです。
ながながと引用しましたが、次の38章、神の出現への導入なのです。神が嵐の中から出現するシーンにスムーズにつなげるために書かれています。別に日光の中から出現してもよさそうですが、嵐を恐れる海洋民族、嵐になるとレビヤタンが出現して船が沈められると思い込んでいる人々には、最高にインパクトのある神の出現の仕方です。
だいたい神が超越的になればなるほど、人間との距離が離れますから、どうでもいい存在になってしまいます。超越的すぎて普通の人間では感じることができない存在になります。それでは営業成績ガタ落ちです。
だから、(のちのキリスト教でもそうですが)聖職者が重要になります。エリフははっきり聖職者の役目です。若造で頼りなく、おとなしくしている。いざというときには語りだす。すると神が呼び出される。
「最後の審判」以前の一神教
実は勧善懲悪原理はこの世に存在していません。どんなに厚く神を信じていても、どんなに善根を積んでいても、人間死ぬときは死にます。事故はだれにでも平等に起こります。悪人が栄えることもしょっちゅうあります。でも神を信仰してもらわなければいけません。
多神教世界でしたら話が簡単です。たとえばレビヤタンを信仰する人々は、たまたま海に出ることが多いからそうしているだけで、山に行くときは山の怪物ベヘモットに祈ればよいだけです。病気の時には薬の神様、日照りの時には雨の神様、その場その場に応じて祈りを捧げます。
日本なんかそうですね。受験合格のために菅原道真に賽銭を投げ、結婚したいときは出雲大社に賽銭投げます。状況はすべて切り分けられています。神が弱い分、人生全体に神の責任はありません。個別のイベントに責任があるだけです。
ところが一神教は面倒です。神が全知全能である分、全てが神の責任です。
神を信じたからといって、かならずしも幸福になれるわけではありません。どうしようもなく不幸になる場合も、もちろんあります。しかし神のパワーが増大した分、神の責任も増大しすぎて収集がつかなくなっているのです。信仰する全員を絶対に幸福にしないといけない。無理ですね、そんなこと。ここで「最後の審判のときに復活できる」、となれば話は一気に簡単になります。たとえ現世で不遇でも、神を厚く信仰して、できるだけ善根を積んで生活してゆこうと思えます。不幸でも信仰が維持できるのです。
が、どうもこの時代、最後の審判の思想がユダヤ教になかったようです。死んだら陰府にいってそれっきりです。その思想状況で一神教の絶対神を信仰してもらうためには、無茶でもなんでも信仰による幸福率100%を保障しないといけません。どんな絶望的な状況でも、神は絶対救ってくださる、そう強硬に主張するよりほかはありません。その約束手形は空手形なのですが、空手形であるからこそ説得の技術が必要になります。
以上まとめます。紀元前にアカバ湾の北側での説得技術は
1、部族の最強の神(この場合はレビヤタン)を登場させて、賞賛しまくる
2、レビヤタンを作ったくらい、それくらい偉い神として自分たちの神を登場させる
3、最悪の状況の人間でも救われる、というストーリー立てる
4、最悪の状況の人に神を信仰を堅持させることによって、信仰の強さを印象付ける
5、登場人物が、神の偉大さ、全知全能さを反復強調する
6、信仰についての議論を組み入れる
というものでした。のちの最後の審判を採択したアプローチに比べれば非常に無理がありますが、無理があるがゆえに力の入った文学になったのは確かです。
鑑賞のてびき
ヨブが生まれた日を呪う部分は、インパクトのある表現です。最低そこだけ読めば大丈夫です。掲載しておきます。
「わたしの生まれた日は消えうせよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
密雲がその上に立ちこめ、昼の暗い影に脅かされよ。
闇がその夜をとらえ、その夜は年の日々に加えられず、
月の一日に数えられることのないように。
その夜ははらむことなく、喜びの声もあがるな。
日に呪いをかける者、レビヤタンを呼び起こす力ある者がその日を呪うがよい。
その日には夕べの星も光を失い、
待ち望んでも光は射さず、曙のまばたきを見ることもないように。
その日がわたしをみごもるべき腹の戸を閉ざさず、
この目から労苦を隠してくれなかったから。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があってわたしを抱き乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し憩いを得て眠りについていたであろうに」
適当に分かち書きしましたが、これで正しい分割なのかわかりません。正直詩文としての戦略が私に読めていないのです。どなたか詩を読むのが得意な方にお願いしたいです。