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「斜陽」あらすじ解説【太宰治】

「斜陽」の発表は1947年。終戦が1945年ですから2年後、日本はまだGHQの占領下にありました。占領が解かれるのはさらに5年後の1952年です。

他国占領下の文学ですから、直接書けないことも多々あります。しかしそのような状態でこそ作家の表現能力が最高度に発揮される、ということもあるのです。書かなければならない事があるならば、どんな手段を使っても書かなければなりません。


5層構造

「名作」と呼ばれる作品の多くは、重層的な構造を持っています。「斜陽」は5層あります。

1、華族の没落小説
2、キリスト教小説
3、日本神話小説
4、経済小説
5、政治小説

内容大変入り組んでいます。普通に読むだけでは普通に理解不能です。ゆっくり掘り下げて読み解いてみましょう。

1、華族の没落小説

あらすじVer.1

「お嬢様が貧乏になったあげく、不倫で妊娠します。不倫相手には捨てられますが、子供といっしょに前向きに生きてゆこうとします(あらすじ終)」

ひたすら暗い話です。上品な世界から一方的に汚辱にまみれてゆく話です。終戦直後の悲惨な社会で悲惨な描写が共感を誘ったのでしょう、たいそう売れたそうです。文章はすばらしいです。太宰治最大の強みは、女性言葉でソフトに書けるところです。土佐日記以降、女性言葉のウェイトが極端に高いのが日本文学の特徴ですから。たとえば第六章


***
外へ出て、こがらしに吹かれ、戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神も罰し給うはずが無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
***

女性が冬の風に吹かれながら、自分に言い聞かせながら足早に歩いてゆくのを、ハイスピードに一気に表現しています。これは「文豪」になればなるほど書けなくなる文章なんですが、太宰は書けるのです。道行(みちゆき)の文章として歴代有数の出来です。

あらすじVer.2

「華族の若い女性(主人公「かず子」)が、敗戦によって経済的に困窮します。兵隊に行っていた弟が帰ってきますが、遊んでばかりで役に立ちません。母は病気になって、一時持ち直しますが、結局死にます。

さびしくて子供が欲しくて弟の師匠の作家の押しかけ愛人になろうとします。ベッドインします。しかし同じ日に弟は自殺してしまいました。その上作家からは結局捨てられるのですが、妊娠に気づき、生まれてくる子と力強く生きてゆこうと考えます(あらすじ終)」

8章の構成


全体は8章構成になっています。

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表を真ん中で改行してみましょう。

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四章構成の物語が若干変容して2回繰り返されています

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この反復構成ですが、実は「走れメロス」と同じです。メロスでも同じ構成が2回繰り返されています。

「走れメロス」は、単純な友情物語ではありません。古いシラクス王(つまり衰弱した太陽)にとってかわり、メロスが新しい太陽王になってゆく物語です。「斜陽」も読んで字のごとく太陽の物語です。そして「メロス」と同じ構成を持っています。となると主人公の「かず子」は、メロスのように太陽になろうとする存在、古い太陽のシラクス王に該当するのがかず子の母ですね。

実際衰弱した母は病床で言います。「まぶしいのが、いやなの。これからずっとお座敷の灯はつけないでね」。真っ暗の中で寝ることを希望するのです。太陽の消えかかる瞬間ですから。

そして母の死後、妊娠した主人公かず子は宣言します。「私生児と母、太陽のように生きる」。新しい太陽の誕生です。悲惨な境遇を描いているように見えて、実は中身は太陽の蘇生の物語なのです。

あらすじVer.3

第一章(母の病気)

華族の「かず子」は気品のある母と二人暮らし。父は10年前に死去、弟の直治は徴兵に取られたっきり帰ってこない。かず子本人は一度結婚したが離婚した出戻り。終戦で東京の屋敷を売り払い、伊豆に引越し小さな家に二人で住んでいる。

第二章(かず子と男性)

屋敷ではボヤ騒ぎを起こして近所に迷惑をかける。しかし近所の人と親しむことができて、いっしょに畑仕事が出来るようになる。華族といっても戦時徴用はあった。立川の山奥でヨウトマケ(土木作業)をした。若い将校に親切にしたもらった。ほかに戦争中の思い出はない。母は日に日に弱る。弟の直治が生きているらしい。

第三章(直治の手記)

弟は心配していた麻薬中毒もなく帰ってきた。彼のノート「夕顔日記」を盗み読みすると、麻薬中毒中の苦しさが描かれている。私も弟の借金返済に困って、弟の師匠上原を尋ねたことがあった。上原は麻薬から酒に転換する戦術を教えてくれて、不意に私にキスをした。そんなこんなで、私の結婚は破綻した。

第四章(かず子から上原へのラブレター)

1、相談がある。M.C.という人が恋しい。M.C.に打診して欲しい。M.C.(マイチエホフ)

2、ずるい手紙を見破られた。返事はもらえなかったが、私にも縁談がある。60過ぎたお爺ちゃん。子供が欲しいから断った。あなたの子供が欲しい

3、返事がもらえなかった。ならば直治が東京に出張している際に伊豆にきてください。はばむ道徳を押しのけられませんか?、M.C.(マイチャイルド)

第五章(母の死)

手紙に結局返事はなかった。失恋だ。それならばと上京支度を始めていると、母の具合が悪くなった。医者に見せると心配ないと言う。しかし夢で和服の男性から、「お母様はもう墓の下」と言われる。看病のつれづれに、直治の経済学の本を読む。社会主義のレーニンなどだ。昔友人から薦められていたが、その時は結局読まなかった。今はわかる。人間は革命と恋のために生まれてきたのだ。

10月、母の手が浮腫み、肺結核が診断された。やがて母は死んだ。

第六章(かず子と上原)

戦闘開始。こうなれば直接押しかける。東京に出てゆき、上原宅を探していると鼻緒が切れた。こまってい偶然たどり着いた家が上原宅だった。奥様が鼻緒を直して、上原の行く場所を教えてくれた。奥様に申し訳ないが、恋を貫徹したい。最終的に西荻のチドリという飲み屋で上原一行に出会えた。同席の知人たちは、ギロチンギロチンなどと歌いながら酒を飲み、大金を浪費している。狂っているが、それでしか生きられないのだろう。

上原に送られて知人宅に泊めてもらい、結局結ばれた。幸福だった。上原が「もう遅いなあ、黄昏だ」と言い、私は「朝ですわ」と答えた。その日、弟の直治は自殺していた。

第七章(直治の遺書)

先に行く。なぜ生きなければいけないかわからない。軍隊で入手した楽に死ねる薬がある。貴族だったからジェラシーを受けた。苦しかった。遊んでも楽しくなかった。ただ秘めた恋があった。ある画家の奥さんに恋をしていた。彼女の名前はスガちゃん。夜が明ける、さようなら。

第八章(かず子から上原への手紙)

私は捨てられたようです。でも妊娠できているようです。戦争や平和や貿易や組合がなんのために存在しているかご存知ですか?それは女が子供を生むためです。だから戦いには勝ちました。これから私生児と母、太陽のように生きます。

最後にお願いがあります。生まれた子を奥さんに一度抱かせて、「これは直治がある女の人に生ませた子です」といいたいのです。なぜだからわからないがそうしたいのです。捨てられた女の最後の嫌がらせです。M.C.(マイコメディアン) (あらすじ終)

第七章で直治は、「遠まわしに、ぼんやりと、フィクションみたいに教えて置きます」と宣言した上で「付き合ってきた画家は俗物だった、その奥さんが好きだった」と告白します。このつきあってきた画家というのは、もちろん画家ではなく、作家の上原のことです。

想定できうる事態は、「直治は上原から、姉のかず子から三度ラブレターをもらったことを聞かされていた。だから遠まわしの表現で、上原はろくでもないと諌めようとした」というものです。表面的にはこれで意味が通ります。

しかし同時に、「この作品は、遠まわしに、ぼんやりと、フィクションみたいに」書かれていることを暗示していると見るべきです。つまり「重層的な小説ですよ」と解説しているのです。重層的な小説は、たいていこういう表現が物語の中に入れ込まれています。定番の読者サーヴィスとも言えます。

驚異の小説構成

さきほど八章構成のうち、前半四章と後半四章が対応していると説明しました。ところで各章の内部は三分割できます。ですから前半12節、後半12節ある計算です。そして内容はそれぞれ前半と後半で対応しています。

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12セクションと12セクションの対応関係、これは驚くべき小説技法の充実です。「走れメロス」の技法がさらにブラッシュアップされています。

対句系物語の究極形態

物語でも名作といわれるほどのものは、対句を多用します。たとえば年代バラバラですが

若きウェルテルの悩み
https://note.com/fufufufujitani/n/n74bf0c553edc

夢十夜
https://note.com/fufufufujitani/n/nf5ee082c9db3

ゴッドファーザー
https://note.com/fufufufujitani/n/n7356aa987d0f

これら名作はいずれも対句がたいへん充実しています。では対句系の物語の究極形態はなにか。

それは物語の中に対句を入れ込んで充実させてゆくのではなく、対句のみが物語を構成している状態です。対句が物語の装飾ではなく、物語の骨組みになっている状態、言うなれば「対句一本主義」「対句純粋主義」あるいは「対句原理主義」。太宰は「走れメロス」でこの主義を導入し、「斜陽」で徹底開発して究極形態に行き着きました。後半四章(12節)全体が、まるごと前半四章(12節)の対句になっています。

と、口で言うのは簡単ですが、前半四章の要素を別の表現で言い換える能力があることが前提になります。すでに答えが出ている数学の問題の別の解法見つけ出すような、脳みそ訓練の連続になります。

たとえば2-2で華族のかず子も戦時徴用うけてヨイトマケ、つまり木材を地面に落とす土木作業をします。ヨイトマケは普通、「かーちゃんの為ならエーンヤコラ」という掛け声かけます。

6-2ではそれが、飲み屋「チドリ」の客の歌声「ギロチンギロチンシュルシュルシュ」になります。ガッチャンと地面に落とすという意味では同じです。ギロチンとはつまりフランス革命の暗示で、大幅な社会階層逆転を意味しますが、華族で戦時徴用でヨイトマケ、というのも戦時中からはじまっていた一種の階層逆転ですね。

あるいは
2-1でかず子はボヤ騒ぎを起こして、迷惑をかけたご近所さんに謝りに回ります。みなさん優しいのですが、西山さんのお嫁さんだけは厳しく文句を言います。
6-1でかず子は、中央線西荻あたりをうろうろ回ります。2-1とおなじような地獄めぐりですね。これから浮気をしようとする上原さんの奥さんにさえ優しくしてもらうのですが、娘の女の子はめったに人に懐かなそうな顔をして立っています。

同じような内容を、別の表現で自然に書かなければなりません。難易度たいへん高いのです。

2、キリスト教小説

読むとキリスト教の引用が目に付きます。

たとえば第六章でかず子は母の死に顔を見て、「生きているお母さまより、なまめかしかった。私は、ピエタのマリヤに似ていると思った」ピエタとは、キリストの磔刑後、十字架から下ろされたイエスを抱きかかえる母とイエスの像です。ミケランジェロのものが有名ですね。

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母がピエタのマリアに似ているのならば、
息子の直治はイエスに似ているはずですね。
ここで直治=イエス、犠牲になり死ぬことが暗示されています。

続けて
「帯のなかに金銀または銭を持つな。旅の裏も、二枚の下衣も、軽も、杖も持つな」と新約聖書マタイ伝から長く引用しています。

最後の第八章では
「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます」
と主張します。つまり自身がマリヤであるとの宣言です。

また
「いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
小さい犠牲者が、もうひとりいました」
と語ります。犠牲者とは自殺した弟の直治で、前述のごとく小さなキリスト扱いですね。

第七章、チドリの酒場のシーン、先客の三人の女性のうち一人、チエ子と話をします。
チエ子と言うくらいですから、これはエデンの園に居る蛇です。チエ子と一緒に酒を飲み、うどんをすすります。うどんは創世記における知恵の実の代用です。主人公かず子は知恵を身につけ、妻ある男性と同衾に向かいます。つまり罪を犯しにゆきます。

3という数字

キリスト教の引用と同じくらい頻発するのが、3という数字です。
(以下たとえば第一章第二節を、1-2と表記します)

1-2:石段の三段目に蛇
2-2:トロイカ(三頭立て馬車)
3-3:直治の三倍の借金
4-2:私はもう30
5-1:戸棚から梨を三つ
5-3:三時間後に息を引き取る
6-2:三人の女性
8-2:一回戦二回戦三回戦

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なぜか大量にあります。前述の「各章内部が三分割できる」というのも3ですね。はじめに書いた第六章の道行き、

「恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い」

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これも、実は3×3で構成されています。続いて、
「一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。」
やっぱり3ですね。

作者はなぜこんなに3という数字にこだわったか。おそらく三位一体教義です。

三位一体教義

キリスト教には聖書より大事な教義があります。三位一体教義です。
キリスト教徒は父(神)と子(キリスト)と聖霊(説明面倒ですが、「ことば」と覚えてください)を信じると宣言しなきゃいけません。

全文はこちら。

ところでこの作品は母と子と手紙と手紙が2回繰り返される物語です。

「父と子と聖霊」を変換して「母と子と手紙」を章立て構成しています。

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驚異的ですね。太宰はキリスト教の中心教義を下敷きに章構成を組み立て、かつ日本風に読み替えています。

銀河鉄道の夜

太宰以前にこのキリスト教の中心教義に切り込んだ日本人作家が居ます。宮沢賢治です。「銀河鉄道の夜」はまんまキリスト教教義説明のような物語になっています。三位一体教義を小説の中心に据える豪腕を発揮しています。

おそらく、太宰は「銀河鉄道の夜」の内容を、理解できています。理解できて応用しています。そう考えなければ「斜陽」のこの構成は、独創的、天才的すぎるのです。

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もっとも1947年当時、銀河鉄道を理解できただけでも大変なことです。私はエクセルで表を作って解析しているのだから、理解できて当たり前ですが、読んだだけで内部構成を把握できる太宰の読解力は超人的と言えます。

構成も共通しています。対句構成です。

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「銀河鉄道」は「斜陽」にくらべれば小規模で、対応順序の混乱もありますが、構成もほぼ全編対句で構成されています。現実世界の出来事と、銀河鉄道での出来事が1:1対応しているのです。太宰は宮沢賢治の小説技法を理解し、さらにブラッシュアップして明快な究極スタイルにもってゆこうとしたのだと思われます。

そして「銀河鉄道」と同じく、「斜陽」にも三位一体教義を暗示する部分があります。6-2、チドリ(飲み屋)でのシーン見てみましょう。俳優が上原に質問します。

「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな具合に言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
~中略~
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅だね」
と上原さん。
「お金の事ばっかり」
とお嬢さん。

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その後話題の中心はイエスの言葉になります。ここでの上原の言葉は、

チドリ=飲み屋全体
酒=飲み屋の商品、当然飲み屋より小さい
安くねえ=商品の説明(言葉)

つまり、「チドリの酒は、安くねえ」は「父と子と聖霊」を表しています。

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そこで「あ」という文言を本文から探すのですが、探すも何も「斜陽」は「あ」から始まる物語なのです。

「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」 と幽かな叫び声をお挙げになった」

そこから「あ」を三回探してみると、

最初の「あ」は冒頭(1-1)、お母さまばスウプを飲みながら、直治を思い出して声を挙げます。お母様は三位一体教義の「父」に該当します。

次の「あ」はつづいてかず子が(1-1)、離婚を思い出して言います。
かず子は三位一体教義の「子」に該当します。

三回目の「あ」はかず子が、直治の部屋をまさぐる前に言います(3-1)。その後かず子は、直治の部屋で「夕顔日記」を見つけ、彼の麻薬中毒時代、自身の離婚、流産にいたった過程を思い出します。「夕顔日記(およびその他の手紙」は、三位一体教義の「聖霊(つまり言葉)」に該当します。

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これはまさに狂気の小説技術です。よく言えば天才的と言えますが、悪く言えば変態的、病的と言えると思います。マニアックにもほどがあります。

(実はもう1セット「ああ」「あ」の箇所、5-1ホテルスイスランドのシーンがあるのですが、そこは私が意味の深層を十分には読み解けて居ません)

日本の近代文学の主題は、西洋文明の消化でした。

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宮沢賢治は宗教心があつい人でしたから、西洋文明の正体がキリスト教だと気づきます。太宰は賢治を受けて、キリスト教を消化、政治経済とまぜながら小説の一要素として利用できています。優秀です。

3、日本神話小説

内部が3という数字で構成されていても、全体の構成は8章です。

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8はおそらく出雲神話、八雲立つ出雲、ヤマタノオロチなどを意識しています。そもそも母とかず子の住むところは伊豆です。これも出雲と似通っています。
前述のように走れメロスと同じく、母は古い太陽、かず子は新しい太陽です。ようするに旧アマテラスと、新アマテラスです。家族構成見てみましょう。

アマテラスとスサノオ

主人公一家は母と姉と弟の三人構成です。父は無論いましたが、物語開始時点で死去しています。ほかに一族としては叔父が居ます。
叔父というのは、伯父ならば年長の兄弟ですが、叔父は年下の兄弟を表します。つまり母の代の兄弟構成と、娘の代の兄弟構成は、まったく同じ、姉+弟です。これは日本神話のアマテラスとスサノオを暗示します。

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直治はことあるごとに泣きます。姉が離婚しては泣き、母が重態になっては泣き。あんまり男らしくありません。実はよく泣くのはスサノオの属性なのです。母のイザナミが死ぬと大泣きします。

1-2で蛇の話が出てきます。お父様が亡くなったとき、枕元に蛇が居た。庭の木にも蛇が大量に居た。

弟のスサノオは蛇、ヤマタノオロチを倒す神ですから、蛇が出現したということは、弟の蛇防御力では制御できない事態になったことを示します。5-3で母が亡くなるときも、やはり蛇が出てきます。

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スサノオは日本における武力の象徴です。この作品の中では、弟の直治の運命を、同じような武力の象徴である、ヤマトタケル伝説とも重ね合わせています。

6-1で、かず子は上原を尋ねて、西荻あたりをうろうろします。地獄めぐりの経路は、白石というおでん屋→柳やという小料理屋→チドリという飲み屋です。ところで白石は、東北の地名で、ヤマトタケルが蝦夷征伐の際に滞在した場所です。

次の柳やについては類推できていません。最後のチドリという飲み屋の名前は、明快に出典あります。

ヤマトタケルが死んで、鳥になって飛んでゆきます。その鳥を追いかけて、人々が歌った歌に、

「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ」

というものがあります。これは今日でも天皇の葬儀に歌われる歌となっています。

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かず子がチドリに行き、新しい生命を得た同じ日に、直治は死にます。かず子と直治は、分かちがたい運命で結ばれた兄弟なのですね。

前述の
「チドリの酒は、安くねえ」を
「日本運命の転換のためには、高い代償を伴う」
と読み替えることもできますね。

日本は敗戦しました。日本の神掛かった軍事力というか、軍事力の神通力は、完全に消滅しました。それを直治の、スサノオの、ヤマトタケルの、つまり弟直治の死亡で表現しています。

4、経済小説

「斜陽」は華族がお金に困ってゆくのだから経済小説です。私の貧弱な読書体験からの類推ですが、経済に目が配れれば、作家として一流のようです。
ゲーテ、ドストエフスキー、コンラッド、フィッツジェラルド、三島由紀夫。

太宰も「貨幣」という小説を書いています。

「貨幣」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/276_45435.html

女性文体で書かれた紙幣の独白録です。
実は貨幣の原初形態は、たとえば貝ですので、女性自身を暗示する姿です。
最終的に彼女(主人公である紙幣)が発見したのは、赤ちゃんの背中をあたため、太らせてあげるために存在するのが、自分たちの本来の意義だ、ということです。カネと聞いただけで忌み嫌う作家が多い中、これは社会を総合的に把握しようとする、きわめて前向きの態度です。

「斜陽」に戻ります。本作は食事のシーンから始まります。

***
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
****

その後、母がいかに本物の貴族であり上品であるかの説明が続きます。
茂みの中で母が立ちションを可愛らしくするシーンまで描写されます。
つまり、冒頭では食事と排泄、もっとも原始的な人間の姿が描かれるのです。以下太宰の書いた発展段階は、

食事と排泄

卵を野焼き(火の使用)

かまどから火事(かまどの発明)

土木作業

農作業

マフラーをセーターに、織物

薬とアクセサりー、衣料と米、交換(商業活動)

経済学書、ローザルクセンブルク、レーニン、カウツキー

チドリでの大金支払い、インフレ(手形取引も言及される)

僕は生活能力がない、死ぬ(直治の遺書)、という順序です。

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当時のインテリは全員一度はマルクスにはまったようで、これもマルクス風の発展段階小説構成です。この内容を暗示するのも、前述のチドリのシーンです。

***
「チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅だね」
と上原さん。
「お金の事ばっかり」
とお嬢さん。
***

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「お金の事ばっかり」、つまりこれは経済発展小説である、という宣言の意味もあったのですね。

かず子自身はどんどん貧乏になってゆきます。古い太陽神、旧アマテラスの日光の照射によって社会は発展してゆきましたが、家自体は困窮してゆきました。母が病気になったからです。しかし、母と弟の死後、妊娠に気づいたかず子は言います。

「私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」すなわち、

「われこそは、新たなるアマテラスなり。光にて日本を照らそうぞ」

そして実際に日本経済は復興してゆきました。これほど複雑な小説が世に出るくらいに知的に充実した社会なら、それは経済復興するのも当然だと思います。

5、政治小説

「斜陽」を読み解いてゆけば、最後に政治的な意味にたどり着きます。太宰がどうしても書きたかった、書かなければならなかったのは、この層です。

海ゆかば

2-3でかず子は母からショッキングな話をされます。南方戦線で死んだと思われていた弟直治が、生きているという情報が入った。おっつけ帰郷してくるだろう。家は狭いしお金はない。三人で生活は難しい。かず子は宮様に家に奉公にでないか?

当然かず子は嫌がります。お母様は直治のほうが可愛いんだ、私を追い出そうとしているんだ、うんぬん。そこでなぜか、かず子の脳裏に昔の風景のイメージが浮かびます。原文引用します。

***

「私の胸にふうっと、お父上と那須野をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。萩、なでしこ、りんどう、女郎花などの秋の草花が咲いていた。野葡萄の実は、まだ青かった。

それから、お父上と琵琶湖でモーターボートに乗り、私が水に飛び込み、藻に棲む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと写っていて、そうしてうごいている、

そのさまが前後と何の聯関も無く、ふっと胸に浮んで、消えた」

***

かず子は素直に反省して、お母様に謝罪できます(結局奉公にはゆかなかったのですが)。
全編通して屈指の詩的な箇所なのですが、ここの山の風景、水の風景は、「海ゆかば」を暗示しています。

海行かば水漬く屍
山行かば草生す屍 
大君の辺にこそ死なめ 
かへり見はせじ

戦時中よく歌われた歌です。出典は万葉集です。出征した兵隊さんたちの辛酸に心が至り、弟直治にたいして感じたジェラシーが消えてゆきます。

永世中立

5-1で母の病が結核とわかった時、かず子は夢を見ます。
(「風立ちぬ」を見ればわかるとおり、当時結核は死病でした)

***
森の中のみずうみの辺に居る。
和服の青年と歩いている。
橋があるのだが水に沈んでいて渡れない。
どこへも行けないので今日はホテルに留まろうとする。
ホテルには「ホテル・スイスランド」と書かれている。
「お母さまはいらっしゃるのかしら」と言うと、和服の青年は、
「あの方は、お墓の下です」と言う。
***

大変印象的なシーンです。
ここのスイスホテルは、敗戦した日本が永世中立国になる可能性を示唆しています。(無論当時はサンフランシスコ講和条約前です)

ダグラス・マッカーサー

作中M.C.という名前が何度も出てきます。主人公かず子は愛人上原をM.C.と呼ぶのです。

4-1で「マイチエホフ」
4-3で「マイチャイルド」
8-3(最終文)で「マイコメディアン」
とルビをふっています。意味不明です。

このM.C.とは、MacArthur、マッカーサーのことです。ダグラス・マッカーサー、占領軍のボス、日本を打ち負かし、この時点で日本の支配者です。

この作品の中心的な役割を担ってきた箇所がありますね。

「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅だね」

「M.C.」の「.」に、この「あ」を代入すると、MacAになりますね。

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「チドリの酒は、安くねえ」というセリフは、キリスト教、日本神話、経済、政治、すべての内容を暗示する鍵のような言葉だったのですね。

時差

6-3でかず子が上原と同衾したとき、上原はなぜか、「でも、もう、おそい、黄昏だ」と言います。かず子は、「朝ですわ」と言います。

一見理解不能な上原の勘違いですが、マッカーサーと日本の同衾ですから、日本とアメリカの時差の暗示とみると、意味が取れます。

スガちゃん

6-1でかず子は、上原を訪ねたが不在、奥さんと娘さんに会います。奥さんに親切にしてもらいます。これから上原と不倫をしようとするのだから、大変申し訳ない気持ちにとらわれます。

その上原の妻は、実は弟の直治が心底好きだった女性です。直治が上原宅に通っていたのは、奥さんに会うためでした。遺書で、直治は名前を出します。「スガちゃん」。

スガちゃんとは、巣鴨プリズン、戦犯が収容されていた刑務所です。大日本帝国陸海軍の将兵を意味します。かず子一家の旧邸宅が文京区西片、巣鴨はそこから程近い距離です。スガちゃんは電球の切れた、劣悪な環境で日々を過ごしています。まさにプリズンです。

元来日本の明治維新、富国強兵はペリー提督の黒船、つまりアメリカの軍事力によって発生したイベントです。西洋列強の制度、技術を導入して発展していった組織です。大日本帝国陸海軍の夫は、アメリカなのです。そして、スサノオ、あるいはヤマトタケルである直治、つまり日本の軍事神が心底好きだったのは、アメリカ、西洋文明そのものではなく、その影響をうけながらけなげに頑張っていた、大日本帝国陸海軍なのです。

鎮魂

しかし、上原を軽蔑していた直治とはことなり、かず子は上原に恋をし、上原の子供を生みたいと考えます。日本のあたらしいアマテラスは、死んでいった兵隊さんたちへの裏切、つまり奥様スガちゃんへの裏切りを申し訳なく思いながらも、それでもマッカーサーと新しい時代を作りたいと考えるのです。そんなかず子の最後の望みは、妊娠した子が生まれたら、スガちゃんにその子を抱かせて、「これは、直治が、ある女のひとに内緒で産ませた子」だと言うことです。作中の設定では、どうしてそれを望むのか、かず子自身理解できていません。

ここで言うある女の人とは、赤ん坊を抱くスガちゃん自身です。つまり「この子はあなた(スガちゃん)と直治の子でもあるのです」という意味です。これから新しく生まれてくる時代は、日本とアメリカの結合の産物であるのと同時に、日本の軍神(スサノオ=直治)と将兵たち(スガちゃん)の犠牲のたまものである、と言いたいのです。

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死んでいった日本の将兵よ、あなたたちの犠牲は無駄ではなかった。あなたたちの尊い犠牲の上に、新しい日本が再生するのだと。新しい日本はあなたたちの子なのだと。

「これは、直治が、ある女のひとに内緒で産ませた子です」

GHQ占領下の日本において、検閲があり、自由な表現が無理だった状況で、太宰がどうしても書かなければならなかったことが、これです。

散華

太宰は戦時中に「散華」という文章を書いています。

以下あらすじです

***
三田君という文学好きの青年が遊びにきていた。しかし太宰はあまり文章の実力を認めていなかった。

やがて三田君は徴兵された。戦地から何度も手紙が来た。どの手紙もそれほど感心しなかったが、だんだんよい文章にはなっていった。やがて名文の手紙が届く。

「御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。」

太宰はいたく感激した。しかしその後太宰は新聞で三田君の名前を見る。三田君の任地はアッツ島だった。玉砕者の名簿だった。
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太宰が「古い日本から新しい日本へ」と言う時、ペラい「戦争ダメ」「天皇ダメ」というのとはまったく違う、古い日本に対する、真実の哀惜の感情があります。自分で自分の手足を切り離すような痛みがあります。三田君のような人々の生命を、ずっしり背負っていたからです。

「斜陽」発表の翌年、1948年に太宰は愛人と心中します。太宰は悪質な自殺フェチですから死ぬのは時間の問題に過ぎませんが、それ以前に相当体力が衰えていたようです。おそらく「斜陽」と「人間失格」に、全エネルギーを投入したせいです。
でも三田君との約束は果たせたのかもしれません。












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