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若きウェルテルの悩み あらすじ解説【ゲーテ】

ブログでもツイッターでもいいですが、「こんな辛いことがあった」「もう死にたい」「自殺します」と書き込んだ人が居て、たまたまその人が文章の天才で、共感を大量に集めて自殺するひとが沢山出てきたら、現代では結構な事件です。昔でも結構な事件になりました。天才の名前はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。

江戸時代中期の作品

「若きウェルテルの悩み」は発表当時にヨーロッパ全土を席巻した、ゲーテの出世作です。西暦1774年、日本では江戸時代の中期です。1748年に仮名手本忠臣蔵が初演されていますから、それの26年後の出版というと、だいたい時代感覚つかめると思います。古い作品です。

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今日忠臣蔵の歌舞伎を見て、自然に理解できる若い人はあんまりいないと思いますし、年寄りも本当はよくわからないまま舞台鑑賞しています。それとほぼ同時代の作品ですから、感覚的に違いすぎてわかりにくいです。(実は両作品とも内容は同じような「人妻横恋慕作品」だったりします)

それでも歴史上重要な作品ですし、それほど長くありませんし、なによりゲーテの天才を味わうことが出来ますから、鑑賞しても損はありません。最速で攻略できるようにまとめてみました。

あらすじ Ver.1

ほどほど上流階級の青年ウェルテルは、用事があって小さな村に逗留します。そこでロッテという娘に合い、惚れます。しかしロッテにはアルベルトという許婚がいました。彼が旅行から帰ってきたので、ウェルテルもロッテを諦めて役所に仕官します。しかし上司とそりが合わず、赴任先の人々との階級意識に凝り固まった生活にもなじめず、すぐに退官します。

傷心のウェルテルはロッテが忘れられずに、引き寄せられるように彼女の村に再度向かいます。しばらくロッテと時間を過ごしたのち、彼女が自分のものにならないことに絶望して、ウェルテルはピストル自殺をします。(終)

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いかがでしょうか。かなりハイテンションな悲劇です。社会の因習に不満を隠さず、自分の本能というか衝動に殉じて、キリスト教で禁じられている自殺を決行したウェルテルは、当時のヨーロッパで熱狂的な共感を集めました。主人公を真似て自殺する若者が多くいたそうです。

構成分析


クリックしてご覧下さい。A-1, B-1, A-2, B-2, C の5部構成になっています。

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A、Bパートは書簡集の体裁をとっています。ウィルヘルムという友人(おそらく尊敬するウィリアム・シェイクスピアのことでしょう)への手紙が大半を占めています。
Aはロッテの居ない生活で、世間と触れ合う時間です。
Bはロッテとの愛と歓喜と苦悩の日々です。

Cパートは第三者による編集という形態をとっています。

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最も重要なのは当然Cパートでして、Cの悲劇の絶頂に向けてA-1、B-1、A-2、B-2と、ジグザグに盛り上げてゆきます。構成を参照しながら、より詳細にあらすじ見てみましょう。

あらすじ Ver.2

A-1:ほどほど上流階級の青年、ウェルテルは遺産相続手続きを母に頼まれて、とある地方に滞在しました。文学を楽しみ、気が向けば絵も書く感受性豊かなウェルテル、田舎の自然の素晴らしさを満喫、素朴な人々と触れ合いもあり、幸福な時間を過ごします。庶民の女性の井戸での水汲みを手伝ったりします。かわいい子供を育てている女性と知り合い、子供たちと友達になれます。

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交流の輪は少しずつ広がり、勉強家の秀才が訪ねてきたりしますが、直感派、本能派のウェルテルには合いません。逆に後家さんの女主人にいちずな恋をしている作男に知り合ったときは、彼の情熱に心打たれます。

B-1:そんななか、ある法官の娘に出会います。ロッテという名前です。

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死んだ母のために、弟妹の世話をしています。ウェルテルのような感受性豊かな人です。彼女にはアルベルトという許婚があると知りながら、ウェルテルは強く惹かれます。しかし幸福な時間は1ヶ月半で終わり、アルベルトが旅から戻ってきます。悪いことにアルベルトはいいやつです。苦しくなったウェルテル、もう自然を見ても前のようには楽しめません。夜の野山をさすらったりして悶絶します。結局仕官の道を選んで、ロッテの元から立ち去ります。

A-2:ふたたびロッテの居ない生活です。立身出世を夢見て士官はしたものの、上司の形式主義に耐えられません。よい人とは知り合いますが、田舎と違って、上流階級の世間というものが世知辛いです。結局退官します。

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旅をしてある公爵と知り合いますが、よい人なのですが秀才的な教養主義です。どうしても性格的に合わないので又旅に出ます。故郷への旅です。ふるさとで昔を懐かしみその後、足はどうしてもロッテの元へゆきます。

B-2:しかしロッテとアルベルトはもう結婚しています。

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二人はあたたかく迎え入れてくれますが、ウェルテルにはどうにも我慢がなりません。昔知り合った子供は死んでしまっています。後家さんの女主人に恋をしている作男は、レイプまがいの事件を起こしてクビになっています。好きだった胡桃の木も切られています。もう悪いことばっかりでどんどん落ち込みます。

ウェルテルが散歩してると、発狂した男に出会います。秋なのに「恋人のために花を探している」と言って野山をうろついています。「オランダさえ金を支払ってくれれば」とか、意味不明なことを言っています。かわいそうな狂人です。後で聞くとその男も、ロッテに恋して、恋に破れ、発狂したようです。まるで自分の運命です。

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鳴門の渦潮のようなどうにもならない悲劇の渦に巻き込まれるウェルテルさんです。

C:最後のパートです。
ウェルテルの断片的な手紙と、編集者による最後の二人の濃密な時間の描写によって成り立っています。編集者はどこでこの状況を観察していたんだ、と意地悪く質問してはいけません。とにかく悲劇的な数日間が描写されるのです。ゲーテが客観的な編集を気取ったために無理が生じただけです。

前出の作男は、嫉妬にかられて、とうとう女主人の結婚相手を殺してしまいます。ウェルテルは興奮し、彼を助けようとしますが、助けられません。殺人犯なのだから当たり前です。でも作男は、いわばウェルテル自身なのです。ウェルテルは自分自身を助けられないのです。無力感に打ちのめされたウェルテルは、自殺を考え出します。

ロッテの夫のアルベルトは、そろそろ我慢の限界に来て、「ウェルテルを遠ざけろ」とロッテに言います。でもロッテはロッテで、感覚的には亭主よりもウェルテルのほうが合うのです。

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嵐が来て、ウェルテルとロッテの思い出の場所は洪水に沈みます。そしてクリスマスが近づいた日、最後にウェルテルは、アルベルトの留守中にロッテに合いに行きます。ロッテは困りますがウェルテルを家に入れ、間を持たすためにオシアンという詩人の詩を朗読してくれるように頼みます。ウェルテルは朗読します。その箇所は、

1、恋人と親族が戦って死に、両方を失って嘆く女性
2、勇敢に戦った息子が死に、嘆く父親
3、娘が恋人の宿敵に騙されて沖合いの小島に取り残される。娘の兄が、犯人を捕獲するが、勘違いした娘の恋人に殺される。娘の恋人は救出の為に島に泳いでゆくが、溺れて死ぬ。娘は救出されずに、波風に打たれて寒さで衰弱死する

という内容でした。まんまウェルテルとロッテです。二人を感動が襲います。しかし感動しても局面は改善しません。むしろ死ぬテンションが上がってしまいます。ウェルテルは岩山をさすらって帰宅し、アルベルトに「旅行に行くからピストルを貸してくれ」と頼んで、遺書を書いて借りたピストルで自殺します。(終)

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津波のように、怒涛のように、何度も何度もこれでもかと畳み込んで悲劇を演出してゆきます。当時としては画期的な小説でした。時代が違うので今日のわれわれは客観的に読めますが、同時代だったら死にたくなるのも無理ありません。この小説を読んで若者が自殺した、という報告を聞いた作者ゲーテはいったいどう思ったのでしょうか・・・・私の勘では、してやったりとほくそ笑んでるはずです。天才と狂気は紙一重、というのは嘘で、両者ははっきり同じものですから。

Aパートの対句

ロッテの居ない生活を描写したA-1およびA-2見てみましょう。登場する人々が対になっていますね。

A-1:田舎の素朴な人々
A-2:上流階級の体面主義の人々

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A-1:教養主義の若者
A-2:教養主義の公爵

A-1社会はロッテの居る社会です。A-2は社会的に成功するために居なきゃけない社会です。A-2だって良い人はいます。A-1だって魅力のない人は居ます。でも結局ウェルテルはA-2社会になじめずにロッテ、およびロッテの居るA-1社会に回帰してゆきます。こういう対句は、普通に作品読んでいると気づきにくいですが、名作にはかならずふんだんに含まれています。

そのほかの対句

そして地味なAパートでさえそうなのですから、実は全編対句で固められています。

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A-1で幼馴染の女性の死を言及します。そしてCパートでは、自殺の直前に子供のころの女友達の埋葬を想起します。

B-1で「ロッテにはメロディーがある」とほめたたえます。B-2ではロッテの弾くピアノのメロディーに耐えられなくなります。

もともとウェルテルは青の燕尾服、黄色のチョッキとズボンを着ています。ロッテに失恋して発狂した男は緑の服、つまり青と黄色の混ざった色です。ロッテがキスするカナリアは、色は黄色でしょうから、ロッテはウェルテルの中身、内面が好きということです。

発狂した男は「恋人に花輪を」と言っていますが、B-1でウェルテルは花輪を編んで水に投げる、というアクションをしています。

同じB-1で主人に黙って店のお金を家計に繰り入れて生活していたM夫人の話が語られます。M夫人は死の直前にそれを告白するのですが、これは亭主のアルベルトだけでは満足できないロッテの気持ちを先取りした表現です。

このように対句をふんだんに埋め込むと、作品は小宇宙のような自己完結性と、生命体のような自律性を持つようになります。ゲーテはシェイクスピアを大変尊敬していました。ターゲットにしていたと言っても良いです。たとえば「夏の夜の夢」も対句にみちみちた作品です。

クライマックス

作品のクライマックスは、前述の詩の朗読のシーンです。ここも対句の伏線あらかじめ用意されていまして、初めてウェルテルがロッテに会ったB-1パートで、「世界は消えうせた」という表現が使われています。Cパートのクライマックスシーンの詩の朗読で二人のテンションは上がり、世界は再び消えうせます。このシーンのみ本文を掲載しましょう。テンションあがりすぎて不倫すれすれのシーンです。

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(詩の朗読の直後)ウェルテルはロッテの前に身を投げて、その両手をとり、これを眼に、額に押し当てた。ひょっとしたらという予感がロッテの心をかすめ過ぎた。 ロッテの五官は惑乱した。 ウェルテルの両手を握って、われとわが胸に押しつけ、悲しい様子でウェルテルの方へ身をかがめた。二人の熱い頬が触れ合った。世界は消えうせた。 彼はロッテに腕をまきつけ、 ロッテを胸に掻きいだいて、ロッテの震え口ごもる唇に物狂おしい接吻を浴びせた。

――「ウェルテル」、

ロッテは声を詰らせ、顔をそむけた。

――「ウェルテル」――

そして力なく手で相手の胸を押しのけた。

――「ウェルテル」、彼女の声には、この上なく気高い感情のこもった落ち着きがあった。――

ウェルテル は さからおうとせず、 腕を解き、正気を失ったもののようにロッテの前へ仆れ伏した。ロッテは身をふりもぎって 立ち上がった。 混乱と不安、怒りと愛情に身をふるわせていった。

「これが最後です、ウェルテル。 もうお目にかかりません」
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クライマックスでシンプルに「ウェルテル」と三回言う、こういうところが、ゲーテの天才です。読者の耳には、三回の「ウェルテル」を、三回ともそれぞれ別の口調で発声しているロッテの声が聞こえるはずです。ロッテの口調の変化を自分の中で想像するのです。
ゲーテがドラマを描くのではなく、読者に最高にドラマティックなシーンを想像させるのです。自分で作ったドラマに、自分が抵抗できるはずがありません。そして若者が次々と、自分の作ったドラマにはまって、抵抗できずに自殺してゆきました。

ゲーテの女性

ロッテは感受性豊かな女性でしたから、お堅いアルベルトだけでは満足できません。だからウェルテルが必要だったし、気のあるそぶりもふんだんにしました。先の描写でも、最終ラインは超えませんが、一歩手前までは十分行っちゃう人です。ではここでゲーテの描くほかの女性を見てみましょう。

オティーリエ:「親和力」に出てくる女性です。地味な若い娘ですが、同居する人の夫を奪います。その妻の子供を、事故にか故意にか、水に溺れさせて死なせます・・・あれ?
グレートヒェン:「ファウスト」に出てくる娘です。ファウストの子を身ごもり、困った挙句出産したわが子を水に漬けて殺します・・・あれ?

いずれも魅力的ですが、いずれもどうも悪い女性です。ゲーテはドイツ人ですが、ドイツは最も魔女裁判が多かったところで、魔女裁判が多いということはつまり、魔女崇拝の気持ちが強い、ということです。ロッテも男一人を発狂に追い込み、ウェルテルを自殺に追い込んでいます。つまり実は魔女です。「若きウェルテルの悩み」は魔女崇拝の本なのです。オティーリエやグレートヒェンと違って、水を直接的には使いませんが。

井戸から洪水へ

でも、間接的には水を使っています。「若きウェルテルの悩み」は全体の構成がそうなっているのです。ロッテも実は水の魔女です。

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最初、井戸での水汲みを手伝うことから始まった、ウェルテルと水の係わり合いです。

ロッテとの出会いも嵐の日です。

ウェルテルとロッテの最初の決定的な心の通い合いも、雨の中、有名な詩人の名前を口に出したときです。

花輪を作って水に投げる話は、水の魔女が花輪をほしがっているという意味です。そして後に判明するように、花輪を欲しがっているのはロッテです。発狂した男が花輪を作ろうとしていましたから。

A-2パートには子供のころの石で水切りする遊びの話が出てきます。平たい石を水面に出来るだけ水平に投げると、石は水の上を跳ねます。何度か跳ねて、最後に速度が落ちると、水に沈みます。まるでウェルテルの運命のようです。

最終的には嵐の洪水で、二人の思い出の場所は水没します。

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クライマックスは詩の朗読です。恋人は溺れ死に、娘は島に取り残されて凍え死にです。だからロッテは感動するのです。自分のことを描いているからです。なかなかヘヴィーな水の魔女様です。ロッテの死んだ母親は、多産でしたから恐らく大地母神、父親は法官ですから契約の神ですね。ロッテは多産な大地母神にこれからなろうという存在で、生命力を撒き散らしている水の魔女、と考えるとイメージしやすいです。感受性というか、霊感があるのも当たり前です。

ウェルテルの正体

ではウェルテルは何者でしょうか。ウェルテルとロッテがはじめて合うのは、6月15日です。9月10日に別れます。翌年1月20日に雪小屋からウェルテルはロッテに手紙を書きます。水の魔女あての手紙ですから、雪のなかから出します。二人の再会は6月下旬ごろ、そして死ぬのはクリスマス前。

二人は夏至のころに出会い、夏至のころに再会し、冬至のころにウェルテルが死にます。太陽と連動しています。つまりウェルテルは太陽です。二人の恋愛は、実は人間同士の恋愛ではありません。太陽と水の恋愛の物語なのです。

乌海黄河落日

ちなみに最初の嵐の日にロッテが提唱するのが「数え遊び」です。丸く輪になって座り、順繰りに数を数えてゆきます。数を言うのにつっかえると、すぐさまロッテのビンタが飛んできます。輪になって数を数える、これは「暦」を表しています。

ゲーテは因習的な社会への反発として、本能的なウェルテルという人物像を創出しました。そのウェルテルの行動の正当性を確保するために、ウェルテルとロッテを自然そのもの、太陽と水をベースに作り上げたのだろうと思われます。人間が衝動にかられて行動したとしても、そしてそれが社会に受け入れられなかったとしても、それは太陽の動きのように自然なことであるから、だれも非難できない、という主張になります。壮大な構成です。ちょっと壮大すぎるかもしれません。




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