「明暗」あらすじ解説【夏目漱石】
最後の作品です。未完です。つまり構成が明確ではありません。そして悪いことに、私は構成読み解き家なのです。
あらすじ
上流階級の津田良雄はお延と結婚していますが、別れた昔の女、清子が忘れられません。清子は突然津田の元を離れて関と結婚しました。そのせいか妻のお延との仲もしっくりきません。お延も自分勝手に贅沢ばかりしています。
たまたま痔の手術で入院している時、清子を知る女性、吉川夫人から温泉行をすすめられます。その温泉には今たまたま清子が一人で居る。彼女と話してきっちりけりをつけてこい。そうしなければお延との仲もしっくりこない。
すすめに従って温泉にゆきます。清子が居ます。そこで作者死去により中断です。絶妙のタイミングで死去したものです。続きが気になって仕方がない切れ方です。
ドスト小林
上記あらすじには登場しませんが、小林という重要人物が居ます。津田の同級生です。文学系です。頭は良いです。ドストエフスキーの信奉者です。貧乏な生まれです。上流階級の津田を妬んでいます。津田にまとわりついてうざったいです。津田の叔父の藤井が、小林の文学の師匠です。
小林は日本で食いあぶれて朝鮮に行くそうです。津田の外套欲しがります。あげると言うと留守中に勝手に来てもらってゆきます。奥さん驚きます。あつかましいです。当時流行しはじめた左翼です。
小林は赤い靴履いています。藤井の息子の真事(まこと)も赤い靴履いています。みっともなくて父に黒く塗ってもらいましたが。要は左翼の師弟コンビです。
ちなみに津田が痔の手術を受ける病院の名前も小林です。痔とはすなわち下層階級の突き上げによる苦しみのようです。本作はそれらの苦しみの解決を思索した作品になったはずです。
構成
書かれた所までですが、構成検討してみるとこんな感じになります。
3パートに別れます。中心にあるのが津田入院シーンです。両側を小林との会食に挟まれています。大衆居酒屋、および高級レストランでの食事です。
内部では妻のお延べが、岡本宅に立ち寄ったり、お秀宅に立ち寄ったりします。となるとお延べ訪問に挟まれた部分が本作の中心です。お秀(堀秀子)との議論のシーンです。
漱石はBパートのような前後対称の鏡像構造を、
作家生活前半では多用していました。例えば三四郎。
ところが「行人」で反復構造を採用します。
「行人」の次回作「こころ」では、反復構造の中間部分に一幕入れます。
そして「道草」では反復構造と
鏡像構造をドッキングします。
どちらの構造と見てもよい作品になっています。
「明暗」での中心が鏡像構造になっていることは明らかになりました。
では前後はどうなっているでしょう。おそらく反復構造を採用しているはずです。つまりAパートの内容を反復する。
Aパートの前半では、吉川夫人から昔の恋人「静子」問題を暗示されます。
Cパートの前半(の途中で作者死去)では、実際に温泉にゆきます。
そしてAパート後半では、津田は藤井の叔父から藤井夫婦の結婚の思想らしきもの(たいしたものではないですが)を開陳されます。
となると、Cパートの後半では、津田夫婦の関係についての叙述になるはずです。はずですがCパート前半途中で終わっているので、これ以上確定的なことは言えません。
カラマーゾフ
「明暗」は経済小説です。と言って「道草」のような哲学的雰囲気はなく、「三四郎」に近い感触です。「三四郎」でもお金が行ったり来たりします。
「明暗」の場合はこうです。
お延の浪費癖が、じんわり問題として浮かび上がってきます。そして階級問題も発生しています。ドスト小林が、ねちこくつきまとってきます。そう思って読むと、本作がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしていると思えてきます。
津田と小林の食事シーンは、イワンとアリュシャの食事シーン、つまり「大審問官物語」で有名な場面を下敷きにしていると思われます。「明暗」にはそれほど思想的探求はありませんが、貧乏居酒屋と高級レストラン、対称的な場所2つに分割して強調しています。
食事シーンが津田入院を挟んでいます。入院時最大のピークは、津田、お延、お秀(津田妹)の議論シーンです。テンションが上ります。「僧院での会合」を下敷きにしていると思われます。
ドストエフスキーの、特にカラマーゾフ最大の工夫は、キャラ配置戦略です。同一キャラ配置が、現在、過去、未来に展開します。一家族の物語なのに、展開によって人類普遍の物語として広がってゆきます。犬も巻き込んでいるから生命普遍の物語かも知れません。例えば長男ミーチャは、未来世界では犬のジューチカになります。
ところで「明暗」には犬が二匹居ます。一人は岡本一(はじめ)。岡本家の子供です。犬のようにエサに食いつきます。今一人は主人公津田良雄。「天鼻通」を持っていると自慢します。犬のように匂いで清子の場所を探り当てます。そして、岡本一、津田良雄、両方切り替えキャラです。岡本一は友人の藤井真事と賭けをして、負けそうになったら気持ちを切り替えて逃げます。津田はお延と結婚しているのに清子に再会にゆきます。
以上まとめると、漱石はカラマーゾフのキャラ配置戦略を、部分的には理解できていることになります。長男ミーチャ=犬のジューチカが読めています。これは凄い事です。私のようにキャラ配置を調べようとしてエクセルでこねくり回せば発見できて当然ですが、読んだだけでドストエフスキーの小説組み立て戦略の一部を洞察できる。漱石は英訳本で読むこともできましたが、大正3年には今日でも読める米川訳が出版されていますから、大正5年の「明暗」には間に合います。
実は弟子の志賀直哉も、「罪と罰」のキャラ配置戦略を読めていた可能性があります。
もっとも漱石も志賀も、キャラ配置戦略全体は俯瞰できていないようです。作者の意図は理解しても、全体は把握できていない。それでも日本でロシア文学が流行するやいなや、素早く最大のポイントをつかめるのですから、恐るべき眼力を持った連中ですね。
他「カラマーゾフ」との対応が明らかなのは、岡本一の友人の藤井真事です。真事は大道芸人が袋から鳥が出すと信じていますが、主人公津田に否定されます。それは出ないと。ゾシマの奇跡を信じて失望するアリョーシャに似ています。しかしなにしろ未完です。その後藤井真事と岡本一にはドラマがあるはずですが、書かれていないのでそれ以上は不明です。
勤勉爺さん
書かれていない部分を構成から想像してみます。
Aパートでは、津田は父から援助を拒否されます。困ります。入院費用が必要ですから。津田の父は有閑おじさんとして呑気に暮らしています。
Cパート道行きでは、津田は老人といっしょになります。活動的な爺さんです(当時は、60歳は十分老人でした、今の80歳くらい相当だと思います)。軽便鉄道という簡単な機関車が脱線すると、爺さん率先して列車を押して、元の軌道に戻します。軽便鉄道だけあって馬車程度の大きさだから、人が押せば動かせるのです。なかなかの勤勉爺さんです。無論遊んで暮らしている津田の父と対になっています。
Cパート前半での清子との再会シーンの続きでは、勤勉爺さんの影響受けて津田の人格は向上しています。自分の体のことをさておいて清子の体調を本格的に心配できるはずです。おかげで清子は津田を信頼して、彼と結婚しなかった理由を言うはずです。本作が経済小説ならば、清子が逃げた理由はおそらく経済にまつわることです。
さらに、Cパート後半まで類推してみます。藤井家での会話にある、「藤井夫人が嫁に来る時覚悟をしていた」、という内容に対応するはずです。つまりお延に覚悟が発生する。勤勉爺さんの影響で立派になった津田の影響を受けて、お延も少々立派になるのです。だいたいお延は亭主が結構な病気で金欠になったのに、自分の贅沢品を買うような身勝手さです。そのくせ普段から考えていることは、「いかに亭主の愛を勝ち得るか」です。地味に無茶苦茶なのです。
つまり書かれていないC後半では、お延は少し成長するはずです。それならハッピーエンドです。より可能性の高い分岐として、自分の勝手さを反省する間もなく悲劇に命を落とします。どんな悲劇かわかりませんが、悲劇の原因はドスト小林が作ります。文学世界の文脈では、ドストキャラ出現して人間死なないとルール違反に近いのです。いずれにせよC後半の主役は、津田よりもお延です。
以上書いてない部分の類推です。あんまり確信ありません。構成から推察するだいたいとこうなる、というだけです。
ポアンカレの因縁
冒頭近く、第2節に数学者ポアンカレの説が紹介されます。
「世に偶然というものはない。複雑すぎて見当がつかないだけだ」
ポアンカレがいつどうしてこんなことを言ったのか、それこそ私には見当がつきません。しかし作者の言いたいことは理解できまして、仏教的因縁の話を展開するよ、という宣言です。
父が金持ちですので、息子の津田は贅沢な勝手人間に育ちました。他者への類推がありませんから、清子の立場が理解できずに、結婚を逃します。そのことを引きずっているから実際に妻にしたお延を消費では甘やかし、そんなお延は一層勝手な人間になるから津田もいまいち惚れない。因縁で現在の環境が作られています。
仏教では、単独で存在している物事はありません。全ては縁、相互依存で成り立っています。白があるから黒がある。明があるから暗がある。金持ちがと貧乏人、上流と下流、悪い行いと不安定な精神。津田もお延も悪因悪果にまみれています。
Cパート、勤勉爺さんがその因縁をほぐしてゆきます。最後どうなるかは書かれていないのでわかりませんが。
8年前の作品「坑夫」で作者は「小説家は性格を書いて得意がるが、性格なんてまとまったものはない」と書いています。実際本作では、因縁によって性格が変容してゆくさまを描こうとしているかのように、思えます。これは、ドストエフスキーのキャラ配置戦略と正面からぶつかります。
キャラ配置が戦略として成立するのは、キャラが作品通して不変だからです。「罪と罰」では主人公ラスコのみ、ほんの少々人格向上するのですが、他はキャラの成長ありません。「人格は固定的」としているからこそ、キャラ配置が戦略的になり、主人公のほんの少しの成長が大ドラマになるのです。
縁の思想に基づくと、まったく異なったドラマになります。本作のドスト小林はひねくれた人間ですが、ドストエフスキーの人物と異なって、そのひねくれに正当性らしきものが全く感じられません。頼りないひねくれ者です。
だから未完部分も油断がなりません。全ては因縁=相互依存で成り立っている以上、ドスト小林でさえ、あっさり改心する可能性あります。他の人物もキャラ変容可能性みな持ち合わせています。「ロシア文学はたいしたことない」と豪語していた漱石ですから、ドストエフスキーを批判して乗り越えてやる、くらいの気持ちで書いていてもおかしくありませんね。
しかし「自分は時空を超えて存在している」と考えるドストエフスキーと、「全ては相互依存で変化してゆく」と考える漱石は、対極に見えてどこか近い関係にあるような気もまたします。
上流の人々・上流の国々
Bパート、津田の入院中にお延はお見合いに同席します。留学経験の話が出ます。叔父の岡本はイギリス、吉川はフランス、見合いする男性三好はドイツです。超・上流階級です。といって貧乏な小林もロシア文学信奉者です。
お気づきでしょうか。彼らは国際情勢を暗示するキャラなのです。津田の妹が嫁に行った先は「堀」という苗字の商売人です。金持ちです。おそらくアメリカに該当します。お金は出してくれます。お秀は議論が好きです。正義を振りかざします。お延評して曰く、彼女はクリスチャンか。
岡本はイギリスです。岡本は血の繋がっていないお延にお金をあげたりします。優しいです。そのかわりお延は岡本家のお見合いの相談に乗ります。当時は日英同盟継続中です。つまり、お延は「日本」そのものなのです。
「結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女(お延)の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違の痕迹で、すでにそこここ汚れていた。畢竟夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。」(Bパート、64節)
お延は太陽なのです。アマテラスです。天皇と理解いただいてよいです。実際岡本宅から嫁入りで連れて行ったお手伝いは、「お時」という名前です。暦管理コンビです。お延は亭主津田、すなわち国民から支持されようと心を配ります。しかし本人の浪費癖がすぎるようです。夫の支持はいまいち盛り上がりません。
国民津田は、入院中に看護婦さんとの会話を楽しみます。プチな浮気です。看護婦の名前は「月」です。最後までベタネーミング病が治りませんでしたね、この人は。
国民津田が天皇お延以前に付き合っていたのは、清子です。「清」という名前が出てくるのは、「坊っちゃん」以来です。坊っちゃんが大好きな婆さんが清でした。彼女は幕府時代を表します。天皇家はこれでいいのか、日本政府の中枢はこれでいいのか。明治以前の政権を引き合いに出して、お延を批判しているのです。
「坊っちゃん」に出てくるアマテラスキャラは、女形のマネするムカつく兄と、赤シャツです。本作のアマテラスのお延はあまり良い人に描かれていないのですが、作者としては随分表現がまるくなっているのです、これでも。
革命の予感
「明暗」の掲載は1916年12月14日まで、翌1917年3月にはロシア革命が勃発します。内容の詳細はすぐには伝わりませんでしたが、やがて皇帝ニコライ二世一家が惨殺されたと知れ渡ります。
天皇家も反応しました。昭和天皇は(元来乃木希典の弟子ですから)質素倹約に励みました。帝王なのにちびた鉛筆を使い続けていたようです。言うなればドスト小林が、お延を動かすのです。贅沢病を治すのです。
作者の見識は的確でした。世界史上の大事件を数ヶ月前に見事に予言できています。予言は言い過ぎかもしれませんが、当時の社会の最大の問題点を確実に押さえています。漱石は元来社会派なのですが、作を重ねるごとに洞察力を高めていった感があります。洞察力が高まるにつれて、小説としては楽しみにくいものになってゆくのですが。
社会主義者については「それから」の時点で言及しています。本人は実生活を送るにはあまりにも過敏すぎる神経でしたが、その時代の空気は読めていたようです。満鉄総裁中村是好が友人でしたから、満蒙でのスパイ活動の知識があったのかもしれません。ロシア革命は日本からの金で成立した部分が相当ある、という説もあります。津田の小林への資金援助はそれを暗示しているのかもしれません。
文学の本質は、事実列挙の向こう側にある根源的な何かを探り当て、表現することにあります。漱石は正しく文学者でした。当時の世界と日本の情勢を確実に探り当てています。
ラスト
漱石の長編(猫以外)だいたい解析終わりです。この一年、漱石ばかりをやってきました。流石に感慨が有ります。名シーンの数々、草枕の天狗岩、野分の演説、虞美人草のイルミネーション、坑夫の地獄めぐり、三四郎の雲、それからの世界炎上、門の禅寺、彼岸過迄の停車場、行人の兄嫁との時間、こころのツツジ、道草の出産、ただ一言、本物でした。
幕末の江戸に生まれた漱石の、回帰したい過去の象徴が「坊っちゃんの清」=「明暗の清子」です。そんな漱石の書いた最後のシーンが、清子の微笑です。回帰の人。
ラストの本文掲載します。清子が漱石と重なってきます。来るかもしれない電報は、あの世からのお迎えでしょうか。清子は微笑します。漱石も微笑します。津田の如く微笑の意味を考えながら、漱石解析シリーズ終わります。
「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。(未完)