「気持ちよさ」は本能か。それとも、経験の積み重ねなのか。

#20240723-437

2024年7月23日(火)夏休み4日目
 「気持ちよさ」は本能か。
 それとも、経験の積み重ねなのか。

 ノコ(娘小5)は烏の行水だ。
 本格的な夏がはじまり、一歩外に出れば災害級の酷暑で汗まみれ。
屋内に入れば冷房でホッとするが、冷えもする。
 一日の終わりには、湯船につかって体の汚れと疲れをとってほしいところだが、ノコは湯に身を沈めることを拒む。
 心地よいと思うのだが、「嫌だ」と足の指先を湯につけただけで激しく首を振る。
 「入りたくないッ!」
 私もむーくん(夫)も湯船派だ。
 湯のなかで、体を伸ばし、目をつむり、深く息を吐く。
 眠くて眠くて正直入浴せずに寝たい日もあるが、湯につかって後悔したことはない。

 万人がお湯につかる気持ちよさを感じるわけではないのか。
 気候は大いに関係すると思う。
 日本とは異なる気候の国で育った人が日本で湯船を体験したら、どう感じるのか。
 多くの日本人同様、心地よく感じるのだろうか。もし可能なら、自国でも入りたいと思うのだろうか。それとも、やはり多湿な日本で入る湯だからこそ心地よく感じるだけで、自国に帰ったら魅力的ではなくなるのか。
 日本人は湯船好きだと自分中心の視点で思っているが、入らない人も増えているかもしれない。そういえば「風呂キャンセル界隈」という言葉をインターネット上で見かけた。

 もしわかるのなら。

  • 湯船を好む日本人の割合。

  • 日本に来た外国人で、湯船を心地よいと感じる人の割合。※ ただし来日した段階で、ある程度日本文化に好意的である可能性は高い気がする

 この2つを知りたいと思った。

 同時に、「気持ちよさ」は本能なのだろうかと疑問に思う。
 たとえば、乳幼児のときに湯につかり、親もしくは世話をしてくれる人に「気持ちいいね」「さっぱりしたね」「よかったね」と笑顔とともに声掛けされた経験の有無は関係するのだろうか。
 湯から出る度に、清潔なタオルに包まれ、やさしく体を拭いてもらう。やさしい目に包まれながら「気持ちいいね」と繰り返しいわれることで、今、感じている状態と「気持ちいい」を結びつけるのかもしれない。
 乳児院、児童養護施設で育った里子のノコは清潔な環境にあったと思う。
 もしかしたら、実親のもとにいた短い間よりも快適だったかもしれない。
 だが、施設は子どもの数が多く、丁寧に育ててくださったと思うが、一般家庭よりは入浴も流れ作業だったかもしれない。

 ノコの湯船嫌いは、どこに起因するのだろう。
 経験とは関係なく、ノコ個人の本能として心地よく感じないのか。
 それとも、経験不足により、湯船の心地よさを学んでいないのか。

 湯船ひとつ。
 あれこれ、考えなくてもいいのかもしれない。
 生い立ちなんて関係なく、「今の」ノコがただ湯船を心地よく思えないだけかもしれない。
 あと数年もすれば、ノコの長風呂に悩み、むーくんと烏の行水だった小学生の頃を懐かしむのかもしれない。
 里子であるノコが我が家に委託された当時(幼稚園年長児)、もっとじっくり楽しく湯船につかればよかったかもしれない。
 そう広くない一般的な家庭用の浴槽だ。それこそ肌を寄せ合うことになる。
 その時間を持てば、少しは変わったのだろうか。
 今からでも遅くないだろうか。
 だが、風呂に入ればノコは熱唱する。「夜だから静かにね」と声をかけても3秒ももたない。向こう3軒両隣どころか、5軒先までノコの歌声は響き渡る。その歌声を反響する浴室で、かつ至近距離で浴びる耳を私は持っていない。

 「ママママ、ママママ、一緒にお風呂入りたいなぁ」
 ねだられているうちが花と思いつつも、いざ誘われると夕飯の後片付けや洗濯物畳みを理由に逃げてしまう。
 あーあ。
 書いているときは「今夜こそ」と思うのだが!
 いざとなると、リラックスとはほど遠い入浴に私が怖気おじけづいてしまう。

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