「走馬灯のように全人生を回顧する」とは (その2)―ライフレビュー体験 『私』を超えて
「『走馬灯のように全人生を回顧する』とは(その1)」では、「ライフレビュー(人生回顧)」体験にまつわる周辺事項や、私自身の体験した光景について色々と書いてみました。
今回は、その体験がもたらした洞察をいくつか見ていきたいと思います。
「その1」では、拙著より、その体験の光景についての部分を引用してみました。その続きを見てみましょう。
さて、前回(その1)の光景シーンで見たように、そこには、時間軸にそって、無数の「私」が、「私」たちが、数珠つなぎにいたのでした。
ありえないことですが、「私」は、無数にいたのです。
そして、すべての「私」は、時制的に「現在」なのでした。
というのも、「私」とは、瞬間ごとにつくられる表象であり、どのような場面でも、体験の断面としては、「私」であるからです。
つまり、そこには、かつて経験された、無数の「現在の私」たちが、併存していたのです。
さまざまな無数の「私」たちがいて、ストップモーションのように、そのすべてが「現在」なのでした。
つまり、「過去」は、存在していなかったのです。
「過去」とは、日常意識から見たパースペクティブ(遠近性)で、そのように見えているものにすぎないということだったのです。
また、ここには、その光景で見られた「自分の主観」の姿、「私」の姿について書かれています。
私たちは、普段生きていて、「自分の主観/私」というものを、
外から見るということはありません。そのものとして見るということはありません。
私たちのこの「私」は、どこまで行っても「私」であり、私たちはその中から出ることはできません。
私たちは「私」であることしかできなくなっています。
「私」の膜のような牢獄です。
しかし、この光景の中では、その「私」自体が、外から見られていたのです。
「主観/私」の内容や構造が、外から透けて見えるような事態が生じていたのです。
外側から見つつも、同時に、内側の「私」の主観感覚や自意識も感じられていたのです。
「閉じた自意識」からの風景ではなく、「閉じた自意識」の感覚と構造そのものが、「透視図」のように、内も外も、ともに透けて感じられていたのでした。
そして、そのような「私」は、私たちが通常、自明としている、「堅固な実体」ではないものでした。
むしろ、その「私」は、外部の世界に、その都度、瞬間的に反応している、偶然的で、反射的な、「意識の流れの断片」であったのです。
時間を超えた、固有の「私」の連続体などではなく、出来事とともに生起している、現象でしかない「私」の破片/群れであったのです。
仏教の説く、縁起としての「私」でしかなかったのです。
そのため、この光景は、通常、私たちが自明としている「主体」の幻想を、粉々に打ち砕くものだったのです。
そしてまた、「意識 consciousness」と「私(感覚内容)」とは、別のものであるということも予感させるものであったのです。
「私(感覚内容)」は、情報ですが、「意識 consciousness」は、情報とは関係のないものであったからです。
それは、インド的な知見に近い様相であったのです。
さて、ここまでの部分は、堅固だと思っていた「私」について洞察された、ややネガティブな側面と言えます。
しかし一方、この光景の中では、そのネガティブな面を上回る、生の、別の肯定的な要素についても、告げられていたでした。
そこには、「私/主観」の小ささを、大きく突き破り、超え出ていく無尽蔵の〈生の本質/強度〉が啓示されていたのです。
そして、「閉じた自意識」を踏み破り、彼方に突き抜ける、生の巨大で過剰な遠心力が、また、そこにこそ真理があるという不思議な促しがあったのでした。
そして、ニーチェの永劫回帰の思想のように、瞬間瞬間を極限まで肯定し尽くす全肯定の必要が、痛感されたのでした。
そこには、人間の行なう「否定」などがほとんど意味を成さない、宇宙の、圧倒的で〈絶対的な肯定〉があるのでした。
その宇宙的本性があったのでした。
そして、そのことは、別の洞察につながっていくのです。
過去にあったことも含めて(本当は「過去」はなく、「現在」だけがあるのですが)、すべてを彼方まで「生き抜け」「生ききれ」というメッセージが、示されていたのでした。
そこには、人間的次元を超えている、不可思議な「まなざし」があったのです。
さて、ここまで、ライフレビュー(人生回顧)の光景から導かれた、いくつかの事柄をご紹介しました。この他にも、さまざまな洞察や視点がありましたので、そちらについては、拙著の方をご覧いただければと思います。
今回は、前回と2回にわたって、ライフレビュー(人生回顧)体験について、体験事例も含めて、見てみました。
このように、ライフレビュー(人生回顧)の体験は、私たちの実存の底をさらうような、不思議な強度を持って、私たちに生の啓示を与えるものでもあるのです。
よく言われる「自分の全人生を走馬灯のように回顧する」という表現ではまったく伝わらない、興味深いものがあることを感じていただけたのではないかと思います。
そして、その体験は、通常、私たちが信じ込んでいる、「意識」や「時間」、「生」や「実存」について、まったく違う視点を、「心に火傷を負わすかのようにして」人生に持ち込むものでもあるのです。
続編の「その3」では、「過去はなく、すべては現在だから、解放される(救われる)」という、私たちのこの人生の秘義について、書いてみたいと思います。
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
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