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雪の日に 草間彌生を見に

 信州の中でも松本は降らない、降っても積もらない、はずであるのに、わたしは二年連続、松本で大雪に見舞われた。前日は美しく青き晴れた冬日だったのに、南岸性低気圧とやらがやって来て、朝起きると銀世界になっていた。

 ツーリストホテルの狭い部屋で、ケーブルテレビ松本を付けると、各所に設置された防犯カメラの映像が映し出される。こちらは奈良井宿、まるで吹雪いているかのようで、観光客などひとりもいません。こちらは国道19号渚交差点付近、車が大渋滞しています。こちらは上高地の河童橋、東山魁夷の雪山の絵さながらです。

 はじめての一人旅。一日目はマツモト建築芸術祭に乗じて、22,000歩も松本を歩き回った。蟻ケ崎の坂を登って、深志高校の建物を見にいった。Google mapでは分からない土地の高低差、坂道の町の雰囲気に酔ったようになった。もっと探索したい。けれどさすがにこの大雪に、坂道を登ることは不可能だ。大人しく諦めろと言うのか。

 それでも未練たらしく、わたしは雪の薄川を見に行った。相澤病院の近くで、車が二台路肩に停まり、運転手たちがなにか話し合っている。何台かそういう車を見かけた。そのなかをわたしは、イブニング信州で教わった雪道の歩き方を実践しながら、ぺちぺちと歩いていく。

 細い路地で、おじいさんが雪掻きをしていた。まだ遠くから会釈をしあう。笑みを溢しながら、いかにも楽しそうに雪道を歩くわたしに、おじいさんも嬉しそうな顔をして言った。

 「まあ久しぶりの雪だ、仕方ねえなあ!」
 「ええ、とっても気持ち良いです!」

 そう言って傘を掲げて見せたわたしに、おじいさんはハハハと笑った。そう、旅人は雪掻きをしなくていいし、雪なんて滅多に見ないから嬉しくて仕方ないのだ。まあ、毎年松本に来て降られているんだけど。

 歩きまわっていても、こんな大雪では店一つ入るのも難しかった。なんて言ったって、自分が雪だるまになっているんですもの。そういう時こその美術館だ、と駅前通りを松本市立美術館へ向かった。

 なんとも毒々しいと思っていた、マリオの食虫植物のような、草間彌生の巨大オブジェが、白い雪を被って、なんとも静謐な雰囲気になっていた。あれは美しいと言えるかもしれない。雪ん子はいくら払ってもダメで、言われた通りコインロッカーに、外套からバッグからすべて預けてから、ガラスの吹き抜けを展示室へと上がっていく。

 「魂のおきどころ」というタイトルの常設展だ。草間彌生の詩のような文章をときどき挟みながら、部屋から部屋へ、大がかりなインスタレーションを巡る。

 始めは暗い鏡の部屋で、中央にシャンデリアが吊るされている。それが海のように、鏡から鏡へと映り込んで、虚像と実像の区別が付かない。あれは美しい? わたしは、海のようにどこまでも広がる、魂の虚しさを見せつけられたような気がした。

 草間彌生の言葉は、ほとんど自殺願望のような危ういものだった。芸術の女神さまと奉られて、けれど彼女は空虚なままだった。このままわたしは死んでゆくのだろうかー 白い壁に大書された彼女の悲痛な叫びを読みながら、わたしは心のなかで祈っていた。

 鏡のトリックを使った部屋や、ドット柄の絵の部屋が続くなか、ひときわ暗い部屋があった。暗闇の奥に、白く光る梯子が掛かっている。どうぞ柵まで近づいて見てください、と言われて、闇のなかを手探りで柵を見いだすと、梯子は丸い穴から伸びていて、上から下まで果てしなく伸びているのだった。

 ああ、蜘蛛の糸なのか、と思った。梯子は糸よりも確かだけれど、下の地獄も上の天国もどちらも闇で塞がれていて、一筋の希望もなかった。ああ、彼女はこんな地獄を生きているのかと。

 (いま思い出したけれど、あの作品はそれで終わりではなく、そこにまたかすかに映る背後の原色のネオンのハート模様に視線を誘導するらしかった。けれどもあのハートに救いを感じられた? 夜の街のようなネオンに?)

 展示室を出ると、なんだか眩暈がした。最後に読んだ詩は、遠い昔に信濃路の風を感じながら、ふらふらと川へ飛び込もうかとしていた、という故郷について触れたものだった。大学時代に課題で彼女の自伝を読んだという夫が、彼女は松本が嫌いなのだ、と言っていた。わたしも読んでみたいけど、あまりに壮絶で読みながら気持ち悪くなった、とも夫は言っていた。

 魂のおきどころ、というタイトルに、水玉乱舞号なんていうバスまで走らせている、故郷松本へのヨイショを想像していたわたしは大いに裏切られた。代わりにわたしは、嘘を付けないひとの魂の地獄を見せつけられたのだった。大概のひとは、その虚しさから目を反らして生きているのだろうに。

 彼女には、魂の置き所なんて無いのだ。だからのたうち回るくらいに、悶え苦しんでいるのだ。ああ、イエスさま、どうか彼女に手を差し伸べて、と思いながら、わたしは真っ白な街へ戻っていった。彼女が憎みつ愛しているらしい松本は、厚い雪に閉ざされていた。あの日の降雪量は、27cmを記録したそうだ。

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