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『白くないからこその美しさ』 #シロクマ文芸部あとがき


 先日『白い靴』というお題で書いたこちら

最初は『冬の運動会』というドラマ(のタイトル)から広げて書いていたのですが、黒柳徹子さんが半生をテレビで語っていたものを見て窓ぎわのトットちゃんを思い出し、オマージュ作品として仕上げました。(名字は、やなせたかしさんからお借りしたのですが、がついていることに後から気づきました👀ほんまに偶然!)

初めて読んだのは中学生前後で、「パカパカ開く机ってどんなの?」「ちんどん屋って何?」「小学校でも退学になるの? 」「戦前にこんなものがもうあったの?」といった時代背景の方に興味を持っていました。

近所の墓地に廃車になったバスがあって「こういうところで勉強してたのかなあ?」と思ったことも。

その頃はまだ今ほど発達障害が世間に浸透していなかったのも大きいかもしれません。

私が高校に上がる前後くらいから特別支援学校と名称が変わっていき、発達障害が取り上げられるようになり、私も特別支援学校の教諭になることを目指し、大学に通い出した頃くらいに再読して、小林先生の素晴らしさに改めて感動しました。

今では私自身も当事者でもあるけれど、個人的に現在の世の中は障害や特性があまりにも細分化されすぎているような気がするんです。(んん? 前にも同じようなことを書いた記憶があるぞ……🤔)

なんというか、その人本来の性格より障害や特性が肩書きのように取り沙汰されているように感じられ、そこからさらに偏見が生まれているようで残念でなりません。(実際に繊細ヤクザ・ボダ・糖質などネット上では様々な心ない隠語が飛び交っています。)

それは、たまたま最近見たギフテッドの少年の動画からも見受けられました。

自分と周りの人との違いを察して、周り合わせようと努力したもののうまくいかず……

そういった経験から自分の発達の凸凹について客観的に調べ、自分と同じ思いをしている人を救いたい気持ちがあるからこそ、自ら本を書こうとしたり、インタビューを受けたりしたんだな、というのがひしひしと伝わってきました。

その一方で動画のコメント欄に書かれていた心ない(大人げない)言葉と、逆に過度に期待をかけすぎていないかな? という面がやや気になりました。(特性がいつもいい方向に働くとは限らないし、知能が高い子以外の子もみんな国の宝だよ!)

 私は全く別の理由で不登校になった身ですが特別支援教諭になることが夢だった頃から当事者になった今でも根っこの部分は変わりません

自分の経験を発信することで困りごとや、苦しみを抱えている人ができる限り望ましい支援にスムーズにつなげられるように尽力したい、ただそれだけです。(今は当事者だからこそ家族や支援者のこともよく考えます。どうしたら周囲の人達の負担が減らせるのだろう? などと……)

私は小林先生のように障害や病気の有無(障害の程度や病状にもよるけれど)関係なく、同じ場で学ぶことを全否定しなくてもいいと思っています。

ギフテッドの少年の話と少しズレているように感じられるかもしれませんが、小林先生は好きな授業を選択できるようにしていたそうなので、その子のよい面を伸ばすという意味では似ている側面もあるのかなあ、と。

また、特定の科目だけ特別支援学級に行く子もいたのですが、幼かったこともあり「そういう子もいるんだな~」くらいにしか私は思っていませんでした。給食の献立によってお弁当を持参している子を見かけても、むしろ「献立表をチェックして、忘れずにお弁当を作るのも大変だろうなあ」となぜかそっちを気にしていたほどです。

就学する前から仲が良かった友達のご兄弟も障害を抱えていたらしく恐る恐る打ち明けてくれたのですが幼い頃から顔を合わせていて私の名前を覚えていてくれたので特に違和感も感じていなかったんですよね。(今となっては自分がきょうだい児について考える立場になっていますが……)

そもそも自閉スペクトラム症ASDと呼ばれるようになった今、スペクトラムはグラデーションのように表され、明確に健常者・障がい者と分かれているわけではなくなってきているんです。だから、白黒つけること自体が徐々に時代錯誤になっているのでは? とも感じてしまうんですよね。

もちろん発達障害の診断がつくことで「こういう障害や病気のせいなのね」と育児のせいじゃないと親御さんが自己嫌悪に陥るのを和らげ、療育につなげられたり、成人して「だから自分は、こういうことが苦手だったのか……」と腑に落ち、何かしらの支援や対策を取れたりするならいいのですが、基本的に障害と診断されても社会生活を営めていたらそこまで深刻に捉える必要はないんですよね。黒柳徹子さんのようにむしろ活躍されている方もいるくらいです。

障害・病気によっては振り回される側の人もいるのも承知の上です。暴れる方を家族総出で抑えている動画も見たことがありますし、仕事としてそういう状態の家庭の話を聞いたり、研修を受け学んだりしてきました。(世間で言われるよりもっと大変であることも。)

でも発達障害の人は他人の気持ちがわからないとひとまとめに言ったり、サリーとアンの課題で判断されたりもするけれど、そうじゃないお子さんも見てきた私からすると、やっぱりそこには“発達障害”という概念に縛られすぎているような気もしてしまいます。

もしかしたら定型発達のお子さんより理解する年齢が遅いことはあるかもしれません。

だからって理解できない発達障害→人の気持ちがわからないはあまりにも安直すぎます。発達検査を実際に行う研修でも学んだんですが、その年齢でできることの半分くらいわかっていれば、そこまで心配する必要はないんですよ。

そして、そういった発達の差って障害の有無と関係ないことも多々あります。(オムツ外れが遅くなっている要因に、オムツの性能がよくなったというのもあります。)

歩き始めが遅い・なかなか喋らないといった成長過程にやきもきする親御さんも多いですが、その子の性格(家庭環境)によることの方が多いくらいです。

歩き始めが遅い子は、初めてのことに慎重なタイプ(最初の一歩を踏み出すのにドキドキしてるのが伝わってくるほど……)・完璧主義タイプ(「夜な夜な練習してたんか?」って思うくらいスムーズに歩けるまで隠している)・甘え上手タイプ(歩けない間は抱っこで移動できるので、大人が見てない隙に実は歩いて移動していて「あんた歩けるんやん!」って突っ込むと「ちっ! バレたか!」って顔をする知能犯)などがいます。0歳児でもそのくらい性格の差があるんですよ、実は。(何なら恋も生まれるくらいなので……)

なかなか喋らない子も周りが話していることを理解しているようならそこまで心配いりません。わかっていて喋らないのはただ単に喋るのがめんどくさいだけなタイプも含まれているので……あとはやはり、家族が多いと必然的にたくさんの言葉を浴びるので、語彙を増やす機会が多くはなりますよね。でもそれで喋るかどうかも子どもによります。

自己主張したいから喋る子もいれば、周りが甲斐甲斐しく話しかけてくれるから喋らなくても生活に困らないといったパターンまで。


だからサリーとアンの課題をわかっているけれど、伝える術がないらからわかっていないと判断されているケースも実はいるっていうのをここ数年のうちにどこかで見かけたんだけどなあ……(ソースがないと説得力がー! でもさ、学校の授業で答えがわかっていても自ら手を挙げようとしないこともあるやん?)

それに、たとえASDだとしても周りを気にかけられる人もちゃんといるんですよ! 年下の子に上着を着せてあげたり、私がお昼ご飯を食べる時間を逃したと話すと「それは大変だ!」とネットで取り寄せるほどお気に入りの飴ちゃんをくれたり……

だから十把一絡げに、人の気持ちがわからないと言われると、自分以上に悔しい気持ちになるんですよ……😢


 時々「私は少し変わった環境で育ってきたのかな。いや、私自身が変わり者なのかな?」と思うこともあります。

たとえば主人公の一人称を“ぼく”にしていたのですが、みなさんはどんな性別を思い浮かべましたか?

これに関しては以前も少し似た作品を書いたので、オチとしては(優先度的に低いこともあり)弱めですが、私は幼稚園児の頃にはもう一人称が“ぼく”だったんです。

本気で男の子になりたかったというよりも「男の子になれば喧嘩に勝てるのに!」という、いじめっ子に対する反逆に近いですね。

でも親の前では“ぼく”と名乗ったことはありません。直せと言われるのがなんとなくわかっていたから家と外で使い分けていました。

それは、友達のことを「○○っちが……」とあだ名で家族に話したら「誰のこと?」と聞かれ「なるほど、名前で呼ばないとわかりにくいのか」と思い、友達の呼び方も幼稚園児の時点で家と外で変えていました。(困るのは友達と親が同じ場に居合わせたときよ!)

だから10歳くらいまで友達の前では僕っ子でしたが、それに関して友達から突っ込まれたことって一度もないんですよね。

普通に受け入れられていたけれど、さすがに小学校高学年くらいになってくると、うち・あたしと話す子がが増え「これはそろそろ直した方がいいな」と思い、キャラ変した感じです。

なのに、「あたし」を発音するのが下手すぎて「あーし」と言う方に突っ込まれたことの方が多いくらいです😇突っ込むんそっち?!

一時期「おいら」ブームもありましたが、それも全く突っ込まれませんでした。本当に謎ですよね😂ちなみに今はちゃんと外部の人の前では「私」を使ってますよ🙋(相変わらず家での一人称は迷ってますが🌀)


 そして今、過渡期を迎えていると思われる同性愛に関しても、本気で悩んでいる方からしたら不快に感じる方もいるかもしれませんが、私としてはそう珍しいことではない、という感覚ですね。

たとえば小学生の時に「好きな子」の話題になって、急に男子の中でそういう子が思い浮かばなくて(当時は惚れっぽかったはずなのにな🤔)、女友達の名前を挙げても変に囃し立てられることもなく……(そもそもろくに学校通っていないのに放課後に毎日のように誰かが遊びに誘ってくれる時点で、みんな優しいよね!)

中学生になってからも女子の多い学校だったことも影響しているのかもしれないけれど、同性の子に好意を抱かれても嫌な気持ちになることもありませんでした。その子がくれたとっても可愛い私の似顔絵は今も大事に部屋に飾っていますよ~✌️

大人になっても「なんか可愛いからチョコあげる」と初対面の人にもらったこともあります😂<それも美味しく頂きました!)

だからうまく伝わるかわからないけれど、私はそんなに細かく障害、病気、性別、恋愛対象、見た目や着たい服装を線引きしなくてもいいのに……って思ってしまいます。

ずっと少数派で生きてきた人達からしたら、私の言葉は苦労を知らない人間の机上の空論に思われるかもしれません。

でもそうじゃないんです。

みんなみんな世界でたった一人の人間という意味では老若男女問わず、少数派マイノリティなんです。

そもそも少数派かどうかは場所によって簡単に変化するものです。(これも以前、書いた記憶があるけれど、簡単に言えば海外に行けば日本人が少数派になるってことです。)

だから、それぞれが自分らしく生きたいだけなのに事細かく分類することでかえって誤解を招いたり、反感を買ってしまったりして壁を作っているように思えて仕方ないんです。

たとえ同じ障害・病気・性別・年齢・国籍・趣味嗜好……でも全く同じ人はこの世にいないと思います。みんな、この世にたった一人しかいないかけがえのない存在なんですよ。

それは私の病気も同じです。多少、病気の特性(感覚トリックや夜にかけて悪化するなど)は似ていても同じ病名でも全く同じ病状の人はきっといないと思います。

発達の凸凹然り、できること・できないことの差が激しいというのは自分や支援者でも把握しきれない……となると、家族や昔からの友達であっても理解しにくくて当然だと思います。

私の場合は歩ける時もあれば、全く歩けない時もあるし、喋れる時もあれば片言もしくは全く喋れない時もあるし、咀嚼・嚥下・目の開閉・物を持つこと・字を書くこと等の日常生活のあらゆることの日内変動がとにかく激しく……自分でも分からないこの体質を理解しようとしてくれる、その心意気だけで十分ありがたいです。

分からないから近寄らないというのは、自分を守るために大事な場合もあるので一概には言えないけれど、その中でもほんのちょっとだけでもいいので理解したいという気持ちがあるならば自分の価値観、固定観念を見直していくのが今の時代の流れなのかな、と私は思うんです。

その一方で、分からない人・気持ち的に受け入れきれない人にまで無理に全てを分かってもらおうと思わないことも大事だなと考えていて。

当事者は自分のことだから時間がかかってもいつか受け入れられることも、近しい人ほど動揺・混乱・拒否といった感情が湧き出ることも致し方ないと思うからです。(それは、今その人が抱えていることとのキャパを含め。)

だから、ほんの数滴でも分かろうとしてくれている何かを感じられたら

それだけで「ありがとう!」と言うようにしています。

だから一番大事なのはお互いの想像力!



それは、病気・障害・特性・その他諸々関係なく、その人が今置かれている立場を互いに気にかけ合い、できる範囲の別の手段や方法を想像し、可能であれば実現することで完璧には無理でも、ノーマライゼーションやインクルーシブな国に近づく一歩になるんじゃないかな? と、私は信じています。

またその分、白い靴の子が車椅子に乗るようになった、という変化した部分をマイナスに捉えるのではなく、車椅子だからこそできるようになったことも加えられると、よりWin-Winになり、配慮する側ばかりが負担を背負わされていると感じることも減るんじゃないかな? とも思っています。


【追記】
 今更ですが「窓ぎわのトットちゃん」の

続編が刊行されているみたいですね! これもまた読んでみようっとっと♪

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