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いまだに折り合いをつけられないこと


2024年2月15日(木)朝の6:00になりました。

いろいろどうにか受け止めて、落書きのような夢を見る。

どうも、高倉大希です。




主観と客観を、切り分けて考えよう。

ここで言う客観は、その人の主観から生まれます。


事実と解釈を、切り分けて考えよう。

ここで言う事実は、その人の解釈から生まれます。


事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

哲学者、フリードリヒ・ニーチェの言葉です。


事実 — ファクトという言葉はもともと「つくられたもの」という意味ですからね。つくるのは誰かと言えばそれにふれた人間でしょう。

吉本隆明 、江藤淳(2017)「吉本隆明 江藤淳 全対話」中央公論新社


自分がされて嫌なことを、他者にしてはならない。

子どものころに、先生からこう教えられました。


自分は、些細な変化を指摘されることが嫌いです。

だから仮に気づいたとしても、他者の変化について言及することはありません。


自分は、誕生日を盛大に祝われることが嫌いです。

だから仮に誰かが誕生日だったとしても、盛大にお祝いすることはありません。


自由意志というのは、まさに、脳が後付けで行う「ブックキーピング」のようなものであると考えられています。つまり、自由意志があってある選択や行動が生じるというよりは、脳が無意識を含めた一連のプロセスで選択したものを、後から追認し、理由付けし、物語化するのが自由意志だと考えられるのです。

養老孟司、茂木健一郎、東浩紀(2023)「日本の歪み」講談社


どうやらこれらのアクションが、この世の風潮とは合致しません。

自分にとっては嫌なことが、誰かにとっては嬉しいことかもしれないわけです。


巷では、細かな変化に気がついて、声をかける行為がよいことだと言われいます。

巷では、誕生日は盛大に祝われたほうが、嬉しいものだと言われています。


自分にとっては、ほんとうに勘弁してほしいようなことです。

それにも関わらず、どうやらこれらを嬉しいと思う人がいるようなのです。


多様性の肯定は軋轢の肯定でもあります。多様なひとたちが声を上げれば、当然軋轢も生まれる。そこからこそ訂正する力も生まれてきます。みなが声を上げるのはいいですが、それがだれにでも拍手され歓迎されるようになってしまっては、むしろ訂正する力が機能しなくなります。本当に大事なのは、自分と異なった意見をもつ人間を、すぐに理解し包摂しようとするのではなく、理解できないまま「放置」するある種の距離感なのです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


ここの折り合いが、いまだにうまくつけられません。

自分にとって嫌なことに加担するのが、どうしてもできないわけです。


髪を切ったことを、ここぞとばかりに指摘したくはありません。

誕生日を迎えたことを、ここぞとばかりに祝いたくはありません。


自分がされて嫌なことを、他者にしてはならない。

この言葉にどこまでの汎用性があるのかは、いまだによくわかりません。






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