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「ありがとう」と言うしかないだけ


2023年4月22日(土)朝の6:00になりました。

空回りしてしまうぼくらの旅路は、小学生の手と足が一緒に出ちゃう行進みたい。

どうも、高倉大希です。




「だれかを喜ばせること」を生きがいにしているのだろうなと思う人と出会うことがあります。

その人は、自分のことなんて差し置いて、相手のためだけに動きます。


おなじくらいの頻度で「相手が本当に喜んでいるのかどうかを考えていないのだろうな」と思う人とも出会います。

その人は、実行したことに満足して、効果検証を行いません。


何かについて人よりも五倍気がついてしまった人は、たぶんやるべきことも、背負う荷物も、人の五倍になるんじゃないかと思うんです。

糸井重里、邱永漢(2011)「お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ」PHP研究所


過去に、随分と手の込んだアルバムをいただいたことがありました。

それぞれのページに貼られた写真に、日付とできごとが添えられています。


だれが見ても、作成に時間がかかったのだろうなということがわかる。

そんなアルバムでした。


そんなものをいただいてしまったら「ありがとう」と言うしかありません。

うれしいと思うとか、思わないとか、そういう話ではありません。

自分の感情に関係なく、「ありがとう」と言うしかないのです。


言葉って本質的にものすごく目が粗いですよね。言葉によるコミュニケーションは、例えるなら150mLと1Lの目盛りしかない計量カップを使って繊細な料理を作るみたいな感覚があります。

山口周、糸井重里『「言葉にしない」ことの意味』より


「ありがとう」と言われるわけですから、当然つくった側はよい気分になります。

手間ひまをかけてつくってよかった。つくった甲斐があった。

そう思ってしまうのです。


前述のとおり、このやりとりには、受け取った側の感情がほとんど反映されていません。

感情うんぬん以前に、「ありがとう」と言わされているのです。


そこに良し悪しはありませんが、「日本のようなハイコンテクストな社会は少数派だ」と認識しておくことが必要です。

平田オリザ(2022)「ともに生きるための演劇」NHK出版


一時期、「千羽鶴を被災地に贈るのはどうなんだ」という意見が話題になったことがありました。

この話とまったくおなじです。


「ありがとうと言ってくれたこと」は、「喜んでくれたこと」の証拠にはなりえません。


本当に相手は喜んでくれているのか。

この問いを自分にぶつけつづけない限り、勘違いをしたまま相手に「ありがとう」を強要するような大人になってしまします。






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