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会話に間が空いてもよいじゃないか
2023年10月19日(木)朝の6:00になりました。
よいじゃないか、えいじゃないか、えいじゃあなかと。
どうも、高倉大希です。
会話に間が空くと気まずい。
間を埋めるために、なんとか話をつづけなければならない。
こんな言葉を、よく耳にします。
気持ちは、わからなくもありません。
つぎにどちらが話すのかという探り合いには、なんとも言えないものがあります。
思わず同時に喋り出し、あわあわとすることも多々あります。
私はよく先生方には「声の小さい子がいたら、無理に大きな声を出させる必要はないですよ」と言います。声の小さい子は「声の小さい子」という役をやらせれば一番うまいからです。
気まずいとう気持ちはわかる一方で、間が空いてもよいじゃないかとも思います。
話すことがなければ、話さなければよいだけです。
そもそも、間が空くことをどうして気まずいと思うのでしょうか。
理由を考えてみましたが、どうにも納得解がみつかりません。
会話に間が空くことは気まずい。
そんな思い込みによって、自ら気まずくなっているのではないかとすら思います。
そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。
いっしょにいるのに、ほとんど話さない。
親密になればなるほど、このような場面が増えていきます。
話していないにも関わらず、べつに気まずくはありません。
むしろなにも気にすることなく、お互いが好きなことをしています。
話したければ話せばよいし、話したくなければ話さなければよい。
ただ、それだけのことなのです。
コミュニケイションの得意な人は、常に「元気で明るい人」ではありません。常に「元気で明るい」状態は人間として不自然です。常に「元気で明るい」という呪縛が「コミュニケイションが苦手だ」という意識を持つ人を大量に作っていると、僕は思っています。
決して、人と話すことそのものを否定しているわけではありません。
間を埋めることを目的とした発言に、どこまでの価値があるのかという話です。
ジョン・ケージは、音のない「4分33秒」という曲をつくりました。
演奏者たちは楽器を持ったまま、4分33秒間、一切の音を鳴らしません。
会話に間が空いたって、べつによいではありませんか。
一生懸命気まずくなるほど、大した問題ではありません。
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— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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