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共感されると困る


2024年1月30日(火)朝の6:00になりました。

私たちはもともと違うんです。うちの猫だってそんなことは知っています。

どうも、高倉大希です。




「その気持ちわかるよ」

こう言われることが、昔から苦手です。


なぜなら、わかるわけがないでしょと思ってしまうからです。

その先に、続く言葉もありません。


共感すれば、人は喜ぶ。

何よりも、この前提に共感することができないのです。


社会のなかで生きるということは、コミュニケーションのなかで生きることと同義であり、「すべてのコミュニケーションは(したがって、本当の社会生活はすべて)教育的なものである」という考えが導かれる。デューイによれば、教育とは、「連続的な成長のプロセス」であり、「成長することは生きること」である。

上野正道(2022)「ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学」岩波書店


勉強になりました。気づきを得ました。

note を書いていると、ときどきこんなコメントをいただくことがあります。


読んでくださったという事実は、本当にありがたいことです。

ただ、このコメントに関してはどうにも困ってしまいます。


なぜなら、返す言葉がないからです。

「それは何よりです」の先に、続く言葉がありません。


バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていくをそれが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


基本的に対話というものは、お互いの差異から生まれます。

他者である限り、差異がないなどということは絶対にありません。


そんな差異を、無視した言葉を向けられる。

共感だけだと、対話が成り立たないわけです。


そもそも、対話を求めていないというところもあるのかもしれません。

ただ、対話をなくして何をすればよいのかがよくわからないのです。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


共感すれば人は喜ぶ。

これはあまりにも安直です。


「その気持ちわかるよ」は、自分の気持ちの押し付けでしかありません。

それを言われた相手は、一体どうすればよいのでしょうか。


お互いの差異を見出すことを、怠ってはなりません。

差異があるからこそ、おもしろいはずなのです。






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