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スキの病に冒されて


2024年6月19日(水)朝の6:00になりました。

自由であるためには、尊厳が必要なんだ。

どうも、高倉大希です。




読んでもいないのに、スキを押してきやがって。

スキの病に冒された人から、こんな声が聞こえてきます。


フォロワー欲しさに、フォローしてきやがって。

フォローの病に冒された人から、こんな声が聞こえてきます。


なぜだか、相手も自分と同じ基準でスキを押すものだと思っています。

なぜだか、相手も自分と同じ基準でフォローをするものだと思っています。


わたしたちが<自由>になるための最大の条件。それは、<自由の相互承認>の感度を身につけているということなのです。学校は、この感度をはぐくむためにこそ存在しているのです。

苫野一徳(2013)「勉強するのは何のため?」日本評論社


冷静に考えると、全員が自分と同じ基準で動くわけがありません。

営業目的で、スキを押す人やフォローをする人がいて当然です。


そんな行動をとる人がいてはいけない。

そんな行動をとる人がいてもよいけど、自分は嫌だ。


否定しているという点では同じですが、このふたつには雲泥の差があります。

否定には「そんな人がいてもよい」という、前提がなくてはなりません。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


「いてもよい」の上に否定を乗せて、はじめて議論が成立します。

存在そのものを否定しては、誰も幸せにはなれません。


相手のことを、信じられないと思うこともあるでしょう。

相手のことを、ありえないと思うこともあるでしょう。


ただし、それはあくまでも自分と違うというだけです。

自分と違う人がいることは、極めて当たり前なことです。


「強い/弱い」「善い/悪い」「有る/無い」、すべて、縁しだいで、どんどんかわっていく。自分の「かわらない本質」は成立しない。つまり、不変の「個性」、不変の「性格」、不変の「アイデンティティ」は、ありえないのだ。

しんめいP(2024)「自分とか、ないから。」サンクチュアリ出版


いじわるなあの人の、いじわるなところもおもしろい。

ひねくれたあの人の、ひねくれたところもおもしろい。


調子に乗っちゃうあの人の、調子に乗っちゃうところもおもしろい。

頭が堅いあの人の、頭が堅いところもおもしろい。


スキもフォローも、ご自由に。

営業目的、どんとこい。






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