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心が離れゆく時、心が離れられてしまった時、予感と寂しさと葛藤の末に納得が残る

人の心は移ろいやすい。
どんなに愛を誓い合おうとも、どんなに忠誠を誓ったとしても、どんなに友情を育んだとしても、どんなに楽しい趣味だと思ったとしても、どんなに好きなアイドルだったとしても、心が離れてしまったら、(人の場合は)離れられてしまったら、もう終わりなんだ。

だから、ずっと愛を持ち続け、忠誠を尽くし続け、友情を続け、趣味を続け、アイドルの追っかけを続け、そんな生活ができるって、すごく貴重なことなんだなと思う。

私は人生半分以上の年月の中で、数々の心の移ろいを経験してきた。
その移ろいは、自分からであろうと、相手からであろうと、移ろい始めは寂しさが伴う。
寂しさが来る前に、まずは予感があるだろう。
あれ?なんだか前と感覚が違う?そんなことが自分の心の中に沸き起こる。

いや、そんなことはない、気のせいだろうと、一旦は自分の感覚をなかったことにしてしまう。
しかし、やっぱり、違和感は度々、訪れる。
予感、いや、疑念と言った方が良いだろうか?
疑念が進むと予感となり、寂しさが訪れ、葛藤の末に、納得が残る。
そんな気がするのだ。

なぜ、こんなことを書いたかというと、人生半分以上も生きてくると、(私だけかもしれないが)あれこれと過去を回想することがある。
そんな時、(自分からであろうと、相手からであろうと)寂しかった別れを思い出す。

出会った時は、心変わり(心の移ろい)を想像もしてなかったというのに。
別れがあった時、よく人は、「縁がなかったんだよ」と言う。
しかし、本当に縁がなかったのだろうか?
束の間であったとしても、そこに縁があったのは確かだと思うのだ。
縁とは必ずしも良縁ばかりではない、悪縁だって、縁は縁であろう。

きっと、良縁であれ悪縁であれ、出会う人であれ対象であれ、それが自分の人生において、必要な存在だったのではないかと感じる。
数々の心変わり(心の移ろい)を、いまだに切なく思い出されることがある。
人との別れ、夢との別れ、趣味との別れ、ご贔屓の応援活動との別れ、などなど、別れとは、自分の歩いてきた道のりの足跡のようなものなのかなぁと、思った。

私は、その足跡を、否定しようとしていたのかもしれない。
これからも、数々の心変わり(心の移ろい)を経験するだろう。
疑念、予感、寂しさ、葛藤、納得、この過程を、何回も何回も経験するのだろう。
しかし、心変わり(心の移ろい)の起こらない人や対象もあるだろう。

今までの私は、心変わり(心の移ろい)の起こらなかった人や対象のことだけを、自分の歩いてきた道のりの足跡のように感じていたのかもしれない。
でも、全ての足跡を肯定してあげることが、私が私であると信じられる、一番の近道であると思うのだ。






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