マガジンのカバー画像

ぼくが聖書を好きな理由

116
キリスト教の礼拝でするお話の原稿はこちらにまとめています。そんなに「新しい」とは自負していませんが、「正統派」に疲れた方々に届けたい聖書のまた一味違った魅力を書いています。
大体月に4本です。 一本200円の記事をマガジン登録で500円でお読みいただける設定にしています。…
¥500
運営しているクリエイター

#イエス

抵抗の道を歩く人々へ〜コリントの信徒への手紙一12章31節後半―13章13節 

抵抗の道を歩く人々へ〜コリントの信徒への手紙一12章31節後半―13章13節 

ペンテコステはイエスの復活、そして昇天後に、かつての習慣に則ってイエスを信じる人々が「一つになって集まっていた」(使徒2:1)ところ、一人一人の上に霊がとどまり、「ほかの国々の言葉で話し出した」出来事が教会で祝われてきたものです。
 使ったことも聞いたこともない言葉に晒される不安、戸惑いは計り知れないでしょう。理解するのになんの苦労もない相手、いつも同意してくれる人の間にとどまり続けていれば安心安

もっとみる
自分で自分のパンを食べても意味がない

自分で自分のパンを食べても意味がない

 キリスト教会って何をするところ?という質問にはいろんな答えが返ってきそうです。神を礼拝するところ、神を賛美する、祈る、聖書を読む、人と会う、話を聞く、話をする、ささげものをするというのが考えられるでしょうか。教会では、聖書の勉強をする人もいますし、歌を練習する人もいます。あるいは誰かと話すことを楽しみにする人もいますし、逆に誰からも話しかけられないで一人でひっそりとしたいと願っている人もいます。

もっとみる
キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

さて、前半で述べたイザヤの時代のことばは数百年のちにどのように受け継がれていったのかを考えていきたいと思うのです。それはやっぱり絵に描いた餅だったのでしょうか。
 また最後の部分は教会ではお話ししていない加筆部分です。

平和の預言はイエスによっても受け継がれました。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39

もっとみる
緊張の所属(その2)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

緊張の所属(その2)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

前回の続きです。
「汚れないで過越の食事をするため」この言葉から読み取れる諸々を考えてきました。

つまりピラトの家になど入ったら自分たちは汚れてしまうということが暗に言われているのです。でもそれが

もっとみる
緊張の所属(その1)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

緊張の所属(その1)〜ヨハネによる福音書18章28〜38節から〜

 「汚れないで過越の食事をするため」という一言が飛び抜けて響きます。イエスを逮捕した人々は、イエスを大祭司のところからローマの総督官ピラトの元へと連行しました。

聖書の箇所はヨハネによる福音書18章28ー38節です。

人々が誰なのかはヨハネ18章の12節に詳しく書かれています。「兵士と千人隊長、ユダヤ人の下役たち」とあります。何とも複雑な人間関係が

もっとみる
はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

さて、前回はヨハネ9章を読むその前段階として、ファリサイ派のことについて述べました。今度は、このシーンでのイエスと弟子たちの様子から考えてみます。弟子たちは目が見えない人が見えないことを罪のせいだというのです。それは

もっとみる
同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

今回のお話は、さてはて、どう言っていいのやら、と頭を抱えます。

イエス様がエルサレムにいた時の話です。エルサレムには神殿で働く祭司たちや律法を厳格に守ろうとしているファリサイ派の人々がいました。この話では祭司たちやファリサイ派の人々が、一人の目が見えなかった人を巡ってイエスを訴えようとすることを伝えています。物語は一人の人を取り巻いて、いわば出汁にして、イエス様に何か罪があったことにしよう、いわ

もっとみる
教会が野原になる時

教会が野原になる時

ヨハネによる福音書6章1−15節を読んで、心に響いていることを書いています。(最後まで無料でお読みいただけます)

イエスの道行は目まぐるしいほどにあちらこちらを周回するものでした。当て所ない旅です。行き先に何があるのか、何をするべきか予定や目的を持たない旅へ、イエスはなぜかき立てられたのでしょうか。この問いに触れていくことこそが、私たちが自分の人生を「振り返る」時の肯定感を与えてくれると思います

もっとみる
浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(3)

浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(3)

このシリーズ最後は、イスラエルの卑劣なパレスチナ軍事攻撃、民族浄化について、キリスト教の信者として明確な立場を表明したいと思っています。私は、イスラエルは即時に攻撃をやめ、この惨状に対する賠償をし、撤退するべきということを聖書の読み直しから主張します。

イザヤ書61章では厳しい状況に追い込まれた人々が解放される日が来ることが告げられます。その日には他国の人や異教の人が畑で働き、あなたは神殿に仕え

もっとみる
クリスマスに読みたい聖書の話⑤〜イザヤ書7章10ー17節(3)

クリスマスに読みたい聖書の話⑤〜イザヤ書7章10ー17節(3)

イザヤ書7章10−17節からのお話の続きです。

沈黙がもったいない、1秒を惜しむ有り様を是とすると、誰かが自分を助けてくれるかもしれないという想像力はわきません。時間をかけて良くなっていくという希望はありません。このあり方は、自分が結果を見なければ気が済まないのです。それは世界が自分を中心に回っているという感覚と同じです。自分の命をこの人が抱えて生きてくれるという思いになれれば、沈黙に価値がある

もっとみる
西洋的キリスト教贖罪論の罠

西洋的キリスト教贖罪論の罠

「苦難の僕」の歌は研究上、バビロン地域で行われていた祭儀の一つである王の受難の儀式に由来すると言われてきました。王が新しい一年、その国を統治する権利を「神」から付与されることを表す祭儀です。契約を更新し、改めて王が正当な統治者であると民に知らせる方法として王への虐待が、

もっとみる
イザヤ書53章1−12節を読んでみた②

イザヤ書53章1−12節を読んでみた②

苦しみを引き受けた側はどうでしょうか。この苦しみは無駄ではなかった、つまりおかげで誰かの笑顔を見られたということで報われたと言って死ぬことになるのです。こうして、良いものを得るためにはある程度の犠牲は致し方なし!と。

もっとみる
イザヤ書50章4−9節を読んでみた②

イザヤ書50章4−9節を読んでみた②

打たれているのに暴力者のなすがままにさせることは、暴力を許し、さらなる被害を与えることになる、だから、徹底的に追求だ、とことん相手の不義を暴ききるその勇気こそ必要だと、拳を掲げ、石を手に取る多くの人々を一元的に批判することはできません。

もっとみる