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クロスオーバーするクラシック音楽と民衆の音楽~①ヨーロッパ編

18世紀からおよそ1世紀に渡って、ヨーロッパの民衆の間で広く共通したダンス文化がありました。(ダンス音楽の起源についてはこちらをご覧ください。)19世紀のロマン主義の時代には、上流階級の舞踏会で農民の踊りを取り入れたり、クラシックの作曲家が放浪のロマのエキゾチックな音楽にインスピレーションを得たりしました。クラシック音楽と民衆の音楽が交差した事例を見ていきましょう。

(19世紀から20世紀にかけて民族主義を背景にした、国民楽派の音楽については、別記事『言葉の起源からたどる民俗音楽』をご覧ください。)


ハンガリー

ロマ(ジプシー)の音楽家たち

18世紀半ば、東ヨーロッパの貴族は、放浪するロマの神秘的な異国情緒に魅了され、彼らの音楽を後援しました。19世紀にはハンガリーでは、ほとんどの地主階級がロマ楽団を抱えるほどになりました。

ロマが仲間のために演奏する音楽は、即興的な歌と打楽器です。しかしどこへ行こうと、常に彼らがレパートリーとしたのは地元住民の音楽です。彼らはプロの音楽家として、高度なテクニックとあらゆる表現方法を用いて、聴衆を喜ばせることを心得ていました。ロマが定期的に行う旅によって、西洋の和声とバルカン半島やトルコのエキゾチックな音楽が交配されました。

19世紀から20世紀初頭にかけて、そんなロマ音楽に魅了された多くの作曲家たちが、ロマ音楽のエッセンスを作品に取り入れます。イタリアの作曲家モンティの『チャルダッシュ』、ブラームスの『ハンガリー舞曲(全21曲)』、ディニクの『ホラ・スタッカート』、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』、リストの『ハンガリー狂詩曲』、フバイの『ヘイレ・カティ』、レハールの『メリー・ウィドウ』やカルマンの『ジプシー・プリンセス』といったオペレッタ、ルーマニアのヴァイオリニスト兼作曲家ディニクの『ホラ・スタッカート』と『ヒバリ』などです。

これらの芸術作品はロマ自身によっても演奏されることを期待され、彼らはただちにそれらを彼ら自身のレパートリーにしました。

モンティーの『チャルダーシュ』をロマバンドの演奏でお聴きください。彼らはどんな楽器であれ曲を聴き覚えでマスターします。華やかな即興的な変奏もロマの伝統です。ショーマンシップにあふれた演奏ですね。18世紀から19世紀にかけて、このようなロマ楽団を初めて見たパリやウィーン、ロンドンの聴衆は驚き、そして、大いに感動したそうです。


バルトークの音楽研究

1904年、クラシックの作曲家のバルトーク・ベラ(1881-1945年)は、スロバキアでハンガリーの農民の歌を偶然に聴き、都会の音楽やロマに「汚染」されていない純粋なハンガリー民族の音楽を収集することを思いつきます。彼は発明されたばかりのシリンダーレコードを携えて、ハンガリーとルーマニアの国境地帯であるトランシルバニア地方で1万曲以上を記録しました。

しかし、近年の研究者によると、彼が録音したのはほとんどがロマの演奏家だったようです。ハンガリーの伝統的な音楽は、ロマ楽団の手に委ねられることが多かったので、それらを区別することは不可能だったのです。彼は、音楽の文化や様式が混ざり合うと豊かなものが生まれることを知り、こうした民俗音楽の研究を通して、芸術音楽に大きな足跡を残しました。

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スロヴァキアで歌の録音を行うバルトーク(左から3番目)1909年


ポーランド

ポロネーズ

ポロネーズは、1600年代以前は、若いカップルが寝室に向かう際に演奏される厳粛な結婚式の行列から、貴族の間で踊られていた活発なダンスまでさまざまな形態がありました。18世紀に上流階級の間で人気が高まるにつれ、このリズムはもっぱら器楽演奏用になりました。

やがて、民族意識の高まりとともに、ポロネーズはポーランドを最も代表するものとなり、18世紀にはJ.S.バッハやテレマン、モーツアルトなどがポロネーズを作曲し、19世紀にはショパンやヴァイオリニストのヴィエニャフスキなどがポロネーズを手掛けました。

ヴィエニャフスキの華麗なるポロネーズNo. 1 in D Major, Op. 4.をハイフェッツの演奏でお聴きください。


マズルカ

マズルカは16世紀頃、ワルシャワ周辺のマゾヴィア地方を起源とし、17世紀にはポーランド全土に広まりました。

スウェーデンは17世紀にバルト海に進出し、一時期ポーランドを支配した際に、マズルカをポルスカとして取り込みます。今に伝わるスウェーデンの伝統的な音楽にはポルスカが豊富にあります。

18世紀にはアウグスト2世(ポーランド王兼ザクセン選帝侯)が社交界に紹介し、1797年には伝統的なマズルカがポーランド国歌(Dabrowsy Mazurka)に採用されました。

 
1830年頃には、マズルカは西ヨーロッパ全域で流行し、社交界でも取り入れられ、ポーランドの作曲家ショパンはマズルカを数多く作曲しました。マズルカはその後イギリス、アイルランドの民衆のダンス音楽にも取り入れられました。


ポルカ

ポルカは2/2拍子のダンス曲で、1834年頃にボヘミア地方のプラハ近郊で生まれたとされていますが、1830年代にチェコの社交界の舞踏会で作られたという説もあります。この新しいダンスは、1840年代のパリの舞踏会で大流行し、ウイーンの作曲家シュトラウス2世はポルカを多く作曲しました。

当時、ポルカに熱狂する人は「ポルカマニア」と呼ばれました。ポルカはイギリス、アイルランドまで広まり、ダンス音楽に取り入れられます。


オーストリア

ワルツ

ワルツは1拍目にアクセントがある3/4拍子の社交のダンスで、ウィーン郊外やオーストリアのアルプス地方で生まれました。17世紀にはオーストリア・ハンガリー帝国の舞踏会で流行し、イギリスには、1816年にロンドンで開催された舞踏会で、摂政皇太子ジョージ4世によって上流階級に初めて紹介されました。

ワルツはダンスマスターが教える複雑なステップを要するダンスが廃れた後になっても、広く楽しまれて生き残り、3拍子とえばワルツの代名詞になりました。

男女が向かい合って組む19世紀の社交界のダンス。
ホールドスタイルは当初はしたないと非難の的でしたが、この時代の人々に受け入れられました。


→『クロスオーバーするクラシック音楽と民衆の音楽~②ブリテン諸島編』へと続く


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お薦めの本や曲集:

弦楽器雑誌サラサーテ6月号は民俗音楽の特集号です!私もアイルランド音楽について寄稿しています。ぜひ、本記事と併せてお楽しみください。


19世紀になると急速に消えて行ったヨーロッパのダンス文化は、アイルランドで生き残りました。著者の訳書になります。アイリッシュの名曲を、どうぞ、お楽しみください。


ハンガリーのロマの本物のチャルダーシュを弾きたい方には、この本をお勧めします。『フィドルが弾きたい!』を学んだ方は、同じ著書のピート・クーパ―先生の楽譜が取り組みやすいでしょう。


参考文献:

藤本一子『ベートーベンの編曲作品』2004 国立音楽大学図書館

寺本圭佑 民謡のナショナリティについての一考察 ―― “Princess Royal”の起源をめぐる英国、アイルランド間の論争を例に

福岡正太『民族音楽学におけるポピュラー音楽研究の動向 』1997

秋山 龍英 『民族音楽学の諸問題』1978 

渡邉さらさ『バルトークの民謡編曲作品における演奏研究
─ 「ハンガリー農民の歌による即興曲」Op.20を中心に ─2001

岡本 佳子『太田 峰夫「バルトーク 音楽のプリミティヴィズム」2017 

太田峰夫『イデオロギーとしての「農民音楽」 バルトークの民謡研究と文化ナショナリズムについて』2008

太田 峰夫『民謡への博物学的な「まなざし」 : フォノグラフの導入がハンガリーの民族誌研究の中で果たした役割について』2009

小島美子『民俗音楽学と音楽史学』1990

James Hunter’s The Fiddle Music of Scotland, Edinburgh, 1979

Routledge and Kegan Paul, Donal O'Sullivan Carolan, The Life Times and Music of an Irish Harper, 1958

Allen Feldman & Eamonn O'Doherty, The Northern Fiddler, 1980






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