見出し画像

目崎徳衛(1921.2.19-2000.6.13)『百人一首の作者たち 王朝文化論への試み 角川選書』角川書店 1983年11月刊 263ページ  角川ソフィア文庫 角川学芸出版 2005年11月刊 336ページ

目崎徳衛(1921.2.19-2000.6.13)
『百人一首の作者たち
 王朝文化論への試み
 角川選書』
角川書店 1983年11月刊
263ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4047031429

「古代末以降千年にわたって、勅撰歌集は文学・芸能・社会全般の典拠であり、小倉百人一首はそのエッセンスであった。本書は歌百首作者百人にひとの生きざまと人間模様の動態をさぐり、王朝文化の新たな鳥瞰を試みる。」


角川ソフィア文庫
角川学芸出版
2005年11月刊
336ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4044056013
「王朝文化を彩る華麗な貴族と歌の魅力を伝える評論エッセイ
王朝時代を彩る百人百様の作者たち。親子・恋人・ライバル・師弟などが交差する人間模様を、史実や説話をもとに丹念に解きほぐす。歌だけでは窺い知れない作者の心に触れ、王朝文化の魅力に迫るエッセイ。」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784044056018
「激情型の小野篁、女好きな在原業平、何ごとにも秀でた大納言公任、単純な陽成院…。王朝時代を彩る百人一首の作者たちは百人百様だ。王朝和歌の碩学が、『古今集』『後撰集』『大鏡』などに描かれる人間模様や史実、説話を読み解きながら、作者の新たな魅力を紹介。歌だけではうかがい知れない、百人一首の雅な世界へと誘う。作者の心に触れ、百人一首をより深く味わうエッセイ。


目次
序章 王朝文化の系譜 百人一首とはいかなるものか
1章 万葉歌人の変貌 人間化と神化と
2章 敗北の帝王 陽成院・三条院・崇徳院
3章 賜姓王氏の運命 良岑父子と在原兄弟
4章 古代氏族の没落 小野氏と紀氏と
5章 藤氏栄華のかげに 夭折の貴公子たち
6章 訴嘆の歌と機智の歌 文人と女房の明暗
7章 遁世者の数奇 能因より西行へ
終章 定家と後鳥羽院 百人一首の成立」

本棚にあった昔のノートの読書記録より
1984年2月9日読了
聖心女子大学図書館に勤めていた
横浜市民だった頃(1980-87)、
毎週、通勤途中駅で下車して利用していた
東京都目黒区中目黒駅前図書館蔵書

内容はまったく憶えていません。
https://viewer-trial.bookwalker.jp/03/18/viewer.html?cid=1a07d3ad-c8f1-42ea-8874-b8e6d2344187
で、最初の数ページを読んでみて、呆然。
こんなに記憶がないなんて、私は、あの頃、
何を考えて、読んでいたんだろうと、
呆れてしまいました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/目崎徳衛

目崎徳衛先生(1921.2.19-2000.6.13
 聖心女子大学歴史社会学科教授
 家永教科書裁判文部省教科書調査官副主査
 俳人)
には、聖心女子大学図書館に勤務していた頃(1978-87)、
酒席でご一緒すると、色々教えていただいた記憶がありますけど、
残念ながら、その内容はもう思い出せません。

私のような日本史についても古典文学についても
まったく無知な若年者相手でも、
親切に分かりやすく、色々教えてくださいました。
若い学生を相手に毎日教えている職業柄、
当たり前のことだったのでしょう。

「[『伊勢物語』の]主人公の男が東国に漂泊したり
報われぬ恋をしたり不遇や衰退を嘆いたりというように、
逆境や悲劇の人物として描き出されている。
しかし業平自身の経歴に即してみると、
そのような悲劇性は認められない。
こうした物語と史実との差異を明快に捌いた論著が、
目崎徳衛『平安文化史論』桜楓社 1968 である。」
鈴木日出男『伊勢物語評解』筑摩書房 2013.6 p.401
https://www.amazon.co.jp/dp/4480823662

昨日拾い読みした本。鈴木日出男 「伊勢物語評解」 http://bit.ly/1cyzFRs #bookmeter 筑摩書房...

Posted by 山本 鉄二郎 on Friday, August 9, 2013

目崎先生の、お顔や口調は今でも思い出すことが出来ます。
記憶って不思議だなぁ。

2021年7月再読
糸島市図書館蔵書

「97
 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
 権中納言定家
[藤原定家 新勅撰和歌集 巻第十三 恋歌三 851
 建保六年[1218]内裏歌合、恋歌
『和歌文学大系 新勅撰和歌集』明治書院 2005 p.162]
https://honda-n2.com/honkoku-ogura-hyakunin-isshu-97

「来ぬ人を」はいうまでもなく待つ恋の歌だが、自信作は無数にある中からなぜ定家はこの一首を自選したのか、その選択が百人一首の成立事情や選定目的に無関係のはずはないだろう。
この一首は建保四年(1216)閏六月九日の百番歌合に詠進された。左方は若き順徳院を筆頭に、権大納言公経(96「花さそふ」)、宮内卿家隆(98「風そよぐ」)ら十人、右方は右大臣藤原道家以下治部卿定家、二条院讃岐(92「我が袖は」)ら十人の春夏秋冬恋各二首であったが、主催者順徳院はみずからの十首をすべて定家と合わせた。判者は定家に命じられたものの実は衆議判で、活溌な論議が展開されたが、院と定家の勝負は六対二(持二)、院の圧倒的勝利に終わった。
「来ぬ人は」はその91番右歌である。
91番 左 御製
よる浪もをよばぬ浦の玉松のねにあらはれぬ色ぞつれなき
右勝 定家
来ぬ人をまつほの浦の夕凪にやくやも塩のみもこがれつつ
[判詞]「をよばぬ浦の玉松」、およびがたく有りがたく侍るよし、右方申し侍りしを、常に耳なれ侍らぬ「まつほの浦」に、勝の字を付けられ侍りにし、何故とも見え侍らず。
定家の判詞によるとこの右勝も、あまりの圧勝に気がさした順徳院が、歌壇の泰斗に対して謙譲の美徳を発揮したようにみえ、その純真さが定家にも快い感銘をのこしたように察せられる。
こういう制作事情をかえりみると、「来ぬ人」の陰には佐渡に流謫の日々を送る順徳院のおもかげが浮び、「身もこがれつつ」遷幸を待ちわびる定家の真情がよみとられはしないだろうか。
単に「まつほの浦」という耳なれぬ歌枕を用いたことを手柄として自選したと解するのでは、単純すぎると思われてならない。
同じく遠島にある後鳥羽院に対する定家の心情は、順徳院に対するとは比較にならぬほど複雑に屈折しているが、それだからといって「来ぬ人を」の陰には順徳院しかいないというわけではあるまい。
定家は後鳥羽院に引き立てられて世に出、院の恩顧と抑圧は彼の全生涯を支配した。百人一首の選定も、それが現在の形に落ち着いた経緯も、隠岐院の巨大な存在を抜きにして語ることはできない。」
p.237-239
「終章 定家と後鳥羽院 百人一首の成立」

「終章 定家と後鳥羽院 百人一首の成立
99 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は 後鳥羽院
100 百敷やふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 順徳院

「歌論『後鳥羽院御口伝』は一名『遠島御抄』などと呼ばれ、隠岐へ随行したある上人の所持本が院の崩後に流布したという奥書もあって、従来隠岐での著作と見られていたが、近年の研究によって、むしろ承久の乱より数年前の著作とするのが有力となった(田中裕「後鳥羽院御口伝の執筆時期」[『語文』35 大阪大学国語国文学会 1979.4 田中裕『後鳥羽院と定家研究』和泉書院 1995.1])。

院はこの書で定家に対して、ほとんど筆誅ともいえるほど強烈な批判をあえてした。
最勝四天王院名所障子歌に
「秋とだに吹きあへぬ風に色変る生田の森の露の下草」を見落とした「失錯」は一応認め、
「定家は左右(さう)なきものなり」「道に達したるさまなど殊勝なりき。歌見知りたる景気ゆゝしげなり」とその力量を評価したものの、
「惣じて彼(かの)卿が歌のすがた、殊勝のものなれども、人のまねぶべき風情にはあらず。心ある樣なるをば庶幾せず。たゞ言葉すがたの、えんにやさしきを本体とせる間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゞ、正体なき事になりぬべし。」と、真向からその歌風を否定した。

この歌風批判の底には、定家の人柄・行動に対する院の嫌悪があった。
「引級(いんきゅう ひいき)の心になりぬれば、鹿を馬とせしがごとし。傍若無人ことはりに過たりき」
と独善を指摘し、自賛歌でない作をなまじ褒められるとかえって立腹する男だと、狭量を非難する。
また「いさゝかも事により、折によるといふ事なし」――時と場所をわきまえぬという事、また「ものにすきたる所なき」――「数寄」を解せぬ人物だとも言っている。
このように「近き世の上手」十五人を論評した最後に、
他の人全部にほぼ匹敵する分量を定家ひとりに費やしたところをみると、
御口伝の執筆目的は一に定家への弾劾にあったと言わざるを得ない。」p.243-244

「[承久の]乱以前の後鳥羽院は臣下の生命を葬ることさえできる専制君主である。その王者がかくも躍起になって批判するのは、事、歌道に関するかぎり定家を対等に遇しているということではないのか。
そこにはむしろ文学者同士の裸のぶつかり合いがあり、ひいてそれは歌人定家の名誉であったともいえる。これほど力量を認め合った両者が、たまたま起こった勅勘・閉門のまま永久に袂を分かったのは、どちらにとっても不本意だったろう。それならば、歳月を経るうちに、過ぎし日のはげしい確執がむしろ懐かしい思い出に転科しなかったとはいえまい。

隠岐の院と京の定家の間には、音信を交わした形跡がない。それはしかし、今となっては解く術もない勅勘と、鎌倉幕府密着の九条家に仕えていた定家の公人的立場から来る制約で、如何ともしがたい。それならばなおの事、院と定家の心の底には余人に語りえない無念が潜んでいたとも察せられる。」p.244
https://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200604060000/
https://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200604070000/
口訳 後鳥羽院御口伝

「定家が「人もをし」と「百敷や」の作に特別の関心を持っていた証となるのは、これを書いた真蹟が伝わることである。「小倉色紙」と呼ばれ、歌一首を一面に四行書きにしたもので、いかつい筆太な、定家独特の書である。
江戸時代に世にあらわれ、松平定信の刊行した『集古十種』には、三十三枚が丹念な彫りで原寸大に複製された。中には偽筆としか思われぬものも混じるが、紀伊(徳川)家蔵の「来ぬ人を」と、尾張(同)家蔵の「百しきや」の二葉は、私などの眼にも定家の筆とうつる。また「人もをし」は『集古十種』には収められなかったが戦後出現し、これも真蹟とされている(吉田幸一『百人一首古註』[古典文庫 1971])。
小倉色紙の存するかぎり、[「来ぬ人を」を含む]三首が定家の愛唱歌だったことは疑いもない。「来ぬ人を」の歌に両院への思慕がひそむことは、すでに推定した。ならば、「人もをし」「百敷や」の[強烈な政治的性格をもつ]問題作をことさら色紙に書いたのも、同じ動機でなくて何であろう。
私は百人の中に両院を加えることは当初から定家の方針であったと思わざるを得ない。そもそも、百人一首がこの二首を欠く形であったら、王朝文化の系譜として画竜点睛を欠き、何の迫力もないのではあるまいか。平安王統の祖・天智天皇にはじまる百人一首は、王統の政治権力に終止符を打った両院を配さねば、首尾一貫しまい。この特異な選択は、遠島の両院におくるひそやかな慰問、挨拶でなくて何であろうか。
しかしこの事は、百人一首が両院の生前から世に流布したことを意味するものではない。定家の秘められた思いが世にはばかる必要もなくなるのは、両院がもはや危険な存在でなくなった時点、つまりその死後であろう。」p.251-252

「怨念を最も直接にうたい上げた「人もをし」と「百敷や」の二首は、これまでの忌避から一転し、怨霊慰撫のよすがとして愛唱すべき名歌に変った。二首を巻尾に置く百首が、公然とすがたをあらわす機会は熟した。
[崇徳院にならって定められた]顕徳院の諡号が後鳥羽院と改められるのは、定家の死んだ翌年の仁治三年(1242)、順徳院の諡号が定められるのは、さらに遅れて建長元年(1249)だから、百人一首が現在の作者表記に落ち着いたのは、当然それ以後となる。
その頃、若き日に順徳院に寵愛された為家は、「人もをし」と「百敷や」の二首を入れた『続後撰和歌集』勅撰を完成している。だから、百人一首の最終的成立に為家の手が加わったという推定は可能だが、それはかならずや父定家の当初からの意図を継承したものであろう。
百人一首はすべて定家のものである。しかもそれは、王朝国家崩壊の大乱に関係した人びとが相ついで世を去り、「もはや戦後ではなくなった」時点で成立をみた。これは特別に意味ふかいことだと思う。歴史の摂理は、一つの時代を決定的に転換するに当って、過ぎし王朝文化の全容を展望するアンソロジーを、形見として世にとどめようとしたのであろう。」p.254

読書メーター
目崎徳衛の本棚(登録冊数2冊)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091642

百人一首の本棚(登録冊数15冊)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091294

https://note.com/fe1955/n/n6dc3d5d1929a
秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
吉海直人(1953- )
『百人一首の新考察
 定家の撰歌意識を探る』
世界思想社 1993年9月刊
308ページ

https://note.com/fe1955/n/n586a12682eab
秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第一章 天智天皇
「秋の田の」歌(一番)を読み解く」p.15-24
『日本語学』2017年6月号(第36巻6号)

https://note.com/fe1955/n/n62266db52edf
春すぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふ天の香具山
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第二章 「白妙の」は枕詞か
 持統天皇歌(二番)と山辺赤人歌(四番)の違い」

https://note.com/fe1955/n/n0ba90ea3e6c6
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第三章 柿本人丸歌(三番)の
「ひとりかも寝ん」の解釈」

https://note.com/fe1955/n/n8a17ee829b0e
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第四章 柿本人丸歌(三番)の
「長々し」の特殊性」

https://note.com/fe1955/n/n4f431d990faa
かささぎのわたせる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第五章 大伴家持
「かささぎの」歌(六番)を待恋として読む」

https://note.com/fe1955/n/n33fa91b5395e
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第六章 阿倍仲麻呂
「天の原」歌(七番)の再検討 上野[誠]論を起点として」

https://note.com/fe1955/n/n1e1c79d9cfff
立別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かば今帰り来む
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第七章 在原行平「立ち別れ」歌(一六番)の新鮮さ」

https://note.com/fe1955/n/ncf668d55a127
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す 2
 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第八章 在原業平歌(一七番)の「ちはやぶる」幻想
 清濁をめぐって」p.97-113
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』17
 2017年3月

https://note.com/fe1955/n/nd7cbc56bb2ef
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第九章
 在原業平歌(一七番)の
「水くぐる」再考 森田論を受けて」

https://note.com/fe1955/n/n0cd814798890
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十章 素性法師歌(二一番)の「長月の有明の月」再考」

https://note.com/fe1955/n/nf5c13c161a9f
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十一章『百人一首』の「暁」考
 壬生忠岑歌(三〇番)を起点にして」
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』13
 2013年3月

https://note.com/fe1955/n/na4105dc83b68
久方の光のどけき春の日に静(しづ)心なく花の散るらむ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十二章 紀友則歌(三三番)の
「久方の」は「光」にかかる枕詞か?」
『解釈』683集(第61巻3・4号)
 2015年4月

https://note.com/fe1955/n/nb4ff7c92d48c
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十三章 清原元輔歌(四二番)の
「末の松山」再検討 東北の大津波を契機として」p.179-199
 『古代文学研究』第二次23 2014年10月

https://note.com/fe1955/n/n3b8dec0bafab
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなを聞こえけれ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十四章 藤原公任
「滝の音は」歌(五五番)をめぐって 西行歌からの再検討」

https://note.com/fe1955/n/n16dc1cc3dbeb
大江山いく野の道の遠ければふみもまだ見ず天橋立
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十五章 小式部内侍
「大江山」歌(六〇番)の掛詞再考
 浅見論を契機として」
p.213-236
『古代文学研究』第二次 28
 2019年10月

https://note.com/fe1955/n/nf6a845025e47
夜をこめて鳥の空音にはかるともよに逢坂の関はゆるさじ
吉海直人(1953- )『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊 
「第十六章 清少納言歌(六二番)の
「夜をこめて」再考 小林論の検証」
『日本文学論究』79 2020年3月

https://note.com/fe1955/n/nfda49d0f8bf2
よもすがら物思ふ頃は明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十七章 俊恵法師歌(八五番)の
「閨のひま」再考」
『解釈』第66巻3・4号 2020年4月

https://note.com/fe1955/n/nd0476d50dc9f
み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十八章 参議雅経歌(九四番)の
「さ夜更けて」の掛詞的用法」p.279-291
『解釈』第61巻9・10号 2015年10月

https://note.com/fe1955/n/n128163d33fd1
風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
 2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十九章 従二位家隆歌(九八番)の
「夏のしるし」に注目して」
『解釈』第63巻9・10号 2017年10月

https://note.com/fe1955/n/n2fbd6ef83427
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す 2
 言語遊戯に注目して
 新典社選書 97』
新典社 2020年9月刊
312ページ

https://note.com/fe1955/n/na3f30338eba0
鈴木彰(1969- )・樋口州男(1945- )編
『後鳥羽院のすべて』
新人物往来社 2009年3月刊
262ページ

https://note.com/fe1955/n/n68287f38f7bb
五味文彦(1946.1.30- )
『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか
 角川選書』
角川学芸出版 2012年5月刊
368ページ

https://note.com/fe1955/n/nce8e9a0c3675
後鳥羽院(1180.8.6-1239.3.28)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『後鳥羽院 第二版』
筑摩書房 2004.9
『後鳥羽院 第二版』
ちくま学芸文庫 2013.3

https://note.com/fe1955/n/n56fdad7f55bb
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『樹液そして果実』集英社 2011.7
『後鳥羽院 第二版』筑摩書房 2004.9
『恋と女の日本文学』講談社 1996.8

https://note.com/fe1955/n/n3c66be4eafe5
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『日本詩人選 10
 後鳥羽院』
筑摩書房 1973年6月刊

https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
式子内親王(1149-1201)
 田渕句美子(1957- )
『新古今集 後鳥羽院と定家の時代(角川選書)』
角川学芸出版 2010.12
『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』
KADOKAWA(角川学芸出版) 2014.2
平井啓子(1947- )
『式子内親王(コレクション日本歌人選 010)』
笠間書院 2011.4
馬場あき子(1928.1.28- )
『式子内親王(ちくま学芸文庫)』
筑摩書房 1992.8
 

https://note.com/fe1955/n/n47955a3b0698
後鳥羽院宮内卿
(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1

https://note.com/fe1955/n/n34d98221cddf
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか
永田和宏(1947.5.12- )
『あの胸が岬のように遠かった
 河野裕子との青春』
新潮社 2022年3月刊
318ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?