吉海直人(1953- )『百人一首を読み直す 2 言語遊戯に注目して 新典社選書 97』新典社 2020年9月刊 312ページ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して
新典社選書 97』
新典社 2020年9月刊
312ページ
2020年11月19日読了
福岡市総合図書館蔵書
https://www.amazon.co.jp/dp/4787968475
「広く親しまれている百人一首も、その歌独自の表現に注目して読み直すと、従来説とは異なる解釈の可能性が見えてくる。和歌の読み解きから、藤原定家の選歌意識にも迫る、好評書籍待望の続編。
吉海 直人(よしかい なおと)
長崎県生まれ
國學院大學文学部卒業、同大学院修了(文学博士)
現在、同志社女子大学表象文化学部日本語日本文学科特任教授
源氏物語と百人一首の総合研究をライフワークとする。
主な著書に
『百人一首を読み直す』(新典社選書)、
『百人一首かるたの世界』(新典社新書)、
『百人一首の正体』(角川ソフィア文庫)、
『だれも知らなかった百人一首』(ちくま文庫)、
『百人一首の新研究』(和泉書院)、
『百人一首研究ハンドブック』(おうふう)、
『百人一首注釈書目略解題』(和泉書院)、
『百人一首年表』(青裳堂書店)などがある。」
「第一章
天智天皇「秋の田の」歌(一番)を読み解く」p.15-24
『日本語学』2017年6月号(第36巻6号)
「百人一首を味わう18」を大幅に増補改訂
秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
天智天皇
後撰集 秋中 302
「到底天智天皇[626-671]の自作とは考えられないもの」p.17
「秋田刈る刈廬(かりいほ)を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
万葉集 巻十 2174
作者不詳な伝承歌が改変され後撰集[951年撰和歌所開設]に至って俄かに天智天皇歌として取り入れられた。どのような根拠・必然性があってそうなったのか詳細は一切わからない。後撰集において、天智天皇歌が俄かに要請された。」p.19
「農民が農作業の辛さを歌ったものが、天智天皇歌とされると、農民の辛苦を思いやる <聖帝> の歌として再解釈される。
仁徳天皇の
たかき屋にのぼりて見れば煙(けぶり)たつ民の竈(かまど)はにぎはひにけり
新古今和歌集 巻第七 賀歌 707 巻頭歌
と相通じるものである。そういった徳のある天皇が要請されたのだ。」p.22
「百人一首の巻頭二首と巻末二首に親子天皇歌が配されている。巻頭・巻末に天皇歌が配されている秀歌撰などこれまでになかったし、以後にも見当たらない。
ほぼ時代順に並んでいて、平安時代の始祖天皇[[天智天皇は桓武天皇(737-806)曽祖父]から始まって、平安時代の終焉を象徴する天皇で終わっている、和歌で綴った平安朝歴史絵巻。
天智天皇は、遠い昔の英雄としてではなく、平安朝の歴史を語るに必要不可欠な人物として、一番に撰ばれている。」p.23
「丸谷才一氏など積極的に「秋」に「飽き」を掛けることによって、この歌を閨怨歌として解釈しておられる(『文藝読本百人一首』)。
確かに「衣・露・ぬれ」という用語からは、百人一首の主題の一つたる恋歌としての解釈も可能であろう。さらに「刈り」に「離る」が掛けられているとすれば、通ってこない恋人の姿も浮上してくる。」p.24
はじめに
第一章 天智天皇「秋の田の」歌(一番)を読み解く
第二章 「白妙の」は枕詞か 持統天皇歌(二番)と山辺赤人歌(四番)の違い
第三章 柿本人丸歌(三番)の「ひとりかも寝ん」の解釈
第四章 柿本人丸歌(三番)の「長々し」の特殊性
第五章 大伴家持「かささぎの」歌(六番)を待恋として読む
第六章 阿倍仲麻呂「天の原」歌(七番)の再検討 上野論を起点として
第七章 在原行平「立ち別れ」歌(一六番)の新鮮さ
第八章 在原業平歌(一七番)の「ちはやぶる」幻想 清濁をめぐって
第九章 在原業平歌(一七番)の「水くぐる」再考 森田論を受けて
第十章 素性法師歌(二一番)の「長月の有明の月」再考
第十一章 『百人一首』の「暁」考 壬生忠岑歌(三〇番)を起点にして
第十二章 紀友則歌(三三番)の「久方の」は「光」にかかる枕詞か?
第十三章 清原元輔歌(四二番)の「末の松山」再検討 東北の大津波を契機として
第十四章 藤原公任「滝の音は」歌(五五番)をめぐって 西行歌からの再検討
第十五章 小式部内侍「大江山」歌(六〇番)の掛詞再考 浅見論を契機として
第十六章 清少納言歌(六二番)の「夜をこめて」再考 小林論の検証
第十七章 俊恵法師歌(八五番)の「閨のひま」再考
第十八章 参議雅経歌(九四番)の「さ夜更けて」の掛詞的用法
第十九章 従二位家隆歌(九八番)の「夏のしるし」に注目して
初出一覧
後書き
「第二章
「白妙の」は枕詞か
持統天皇歌(二番)と山辺赤人歌(四番)の違い」p.25-34
春すぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふ天の香具山
新古今和歌集 巻第三 夏歌 175(巻頭歌)
持統天皇(じとうてんのう 645-703)
天智天皇の子。天武天皇の皇后。第41代天皇。
「読人しらず」として拾遺集に初出。
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ
新古今和歌集 巻第六 冬歌 675
山部赤人(やまべのあかひと 生没年未詳)
奈良時代の歌人。
拾遺集初出。新古今七首。勅撰入集五十首程。
「赤人集は赤人の作も若干含むが、多くは万葉集巻十にみえる歌で、赤人の家集とは言い難い。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1
「『万葉集』の「白栲」(衣服に掛かる枕詞)から
百人一首の「白妙」(色彩に掛かる枕詞)へと用法が変化している。」p.28
「赤人歌の場合、枕詞にこだわる必要はあるまい。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
万葉集 巻三 318
原歌の「真白にぞ」が『新古今集』で「白妙の」に改変されている。
この歌以外に「白妙の富士」と詠まれた古い歌が
『新古今集』以前に見つからないのだから、
枕詞としては定着していなかった。
「白栲の」は「藤と同音の富士にかかる枕詞」と説明するのが適切。」p.32
「「白妙の」を単純に枕詞として済ませることはできそうもない。
仮に枕詞の技法とするにしても、それを現代語訳に反映させるのであれば、[「有心の序詞」にならって]「有心の枕詞」とでもすべきであろう。
百人一首の「白妙の」は『万葉集』における
衣服[白栲 木の皮の繊維で織った布]の呪縛から解放され、
美的な色彩表現として、『万葉集』との解釈の相違を主張している。
赤人歌は「白妙の富士」という表現の初出であり、
「白妙の」の変容の記念碑的存在ともいえる。」p.33
「第三章
柿本人丸歌(三番)の
「ひとりかも寝ん」の解釈」p.35-46
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
拾遺和歌集 巻十三 恋三 778
「これはあくまで百人一首の人丸歌であって、
『万葉集』では作者不詳(非人麻呂歌)である。しかも
「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」
[万葉集 巻十一 2802]
の異伝として「或本の歌に曰く」として出ている歌である。」p.44
「「ひとりかも寝む」は、
『万葉集』に用例が少なからずあったにもかかわらず、
平安時代の用例は非常に少なく、
『古今集』『後撰集』には用例が見当たらなかった。
『拾遺集』一首、『新古今集』二首。
歌語としては閉塞している。」p.39
「定家[九十七番]の
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくや藻しほの身もこがれつつ」
[新勅撰 巻十三 恋三 849]との比較。
『万葉集』に詠まれた「松帆の浦」を定家は掛詞として用いることで、
待つ女のじりじりとした心情を表出している。
百人一首の配列を考えると、
巻頭・巻末に親子天皇を配置しているという特殊事情が浮上する。
それに続く人丸・赤人の対として
巻末の定家・家隆を考えると、
人丸と定家・赤人と家隆という
新旧歌人の番(対)になっていることがわかる。
それが定家の意図的な配列だとすると、
人丸と定家は独り寝を題にした番(時代不同歌合)という構図が浮上する。
平安朝において、「ひとりかも寝む」表現は衰退し、
わずかな用例も男の立場に限定されているようだが、
定家は古い人丸歌をあえて来ない男を待つ女の立場からの歌とすることで、
新たな境地を開拓しようとしている。
一夫多妻の通い婚という平安貴族の特殊事情を踏まえると、
来ない男を待つしかない女が想起される。」p.43
「3・4番に人丸・赤人が位置しているのは、
歌聖として尊重されていたから。
97・98番に定家・家隆を配しているのは、
自分を人丸とあわせることによって、
歌人としての地位を誇示している。」
吉海直人『百人一首への招待』
ちくま新書 1998.12 p.121
https://www.amazon.co.jp/dp/448005782X
「第四章
柿本人丸歌(三番)の
「長々し」の特殊性」p.47-56
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
拾遺和歌集 巻十三 恋三 778
「この歌は『万葉集』所収の、
思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を
[巻十一 2802]の異伝(或本歌云)として、
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長永夜をひとりかも寝ん
と出ているものであった。
両者を比較すると、「長きこの夜」が「長永夜」に言い換えられている。
単に「長」を重ねたのではなく、異なる「永」という漢字を用いている
(「長永夜」は「長き此の夜」の誤写(「永」と「此」の類似)との説もあり)。この重ね詞は語調を整えるだけでなく、秋の夜長を心的に強調している。」p.50
「「あしひきの」歌が『人麿集』に収録され、
『拾遺集』に人丸歌として撰入されたことで、
「長々し」という表現はようやく市民権を得たようである。」p.52
「「長々し」は『古今集』撰者時代に試作され、それが契機となって歌語になった。とはいえ用例は少ない[古今集なし、後撰集一首]。
新古今時代に至って多少流行した。」p.54
「あしびきの」の清濁については、
『万葉集』では「あしひき」(清音)であるが、
平安朝以降「あしびきの」と濁って読むようになっているとされているものの、いつから濁音になったのかはよくわかっていない。」p.55
桜さくとほ山鳥のしだりをのながながし日もあかぬ色かな
太上天皇[後鳥羽院]
釈阿、和歌所にて九十賀し侍りしをり、屏風に、山に桜さきたるところを
新古今和歌集 巻第二 春歌下 99[巻頭歌]
ひとりぬる山鳥のをのしだりをに霜おきまよふ床の月かげ
藤原定家朝臣 百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 487
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 秋四。
「第五章
大伴家持
「かささぎの」歌(六番)を待恋として読む」p.57-69
かささぎのわたせる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
新古今和歌集 巻第六 冬歌 620
家持集・冬歌
大伴家持 (おおとものやかもち 718?-785)
奈良時代の貴族・歌人。
拾遺集初出。勅撰入集六十三首。
「万葉集の歌人でその編纂に関わったと考えられている。
家集『家持集』の内実は万葉集抄であり、
新古今入集歌も多くは家持の真作ではない。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1
https://www.amazon.co.jp/dp/4002400115
「百人一首に、『万葉集』の大歌人である大伴家持の歌として、撰入されている。
家持は『万葉集』の撰者と考えられている重要人物、
長歌・短歌など合わせて480首撰入(歌数第一位)。
平安朝以降の勅撰集では62首(人丸は248首)、
平安時代に読人しらずの伝承歌を集めて編纂された
『家持集』出典の歌が多い。
そういった非家持歌の一首がこの「かささぎの」歌である。」p.59
「『万葉集』に用例のない「かささぎ」が詠まれている歌を、
家持の実作(代表歟)としていいのか。
仮にこれが家持の実作だとすれば、
日本(特に都)には棲息してはいなかった
「かささぎ」を詠んだ最初の歌ということになる。」p.60
「旧暦の七夕は秋の季語。
霜の降る冬の歌に鵲の橋が詠まれているのは明らかに季節はずれ。
「かささぎの橋は七夕の夜に架かるはずなのに、
なぜ冬の夜に詠んでいるのか」」。p.62
「天の川と鵲の結び付きは中国の七夕伝説に由来する。
七夕の夜が鵲の活躍する日であるから秋を代表する季語。
家持歌は冬の天の川を詠じている。」p.64
「七夕詠であれば牽牛と織女が年一度その日だけ遇えるので、
逢恋や後朝のイメージで詠まれる。冬の天の川となると、
既に二人が別れて久しいし、翌年の七夕まで逢えないのだから、
不逢恋・待恋(閨怨)に変容する。」p.65
「平安朝の歌人達は、鵲の白い羽を霜に見立てることを思いつき、
季節を秋から冬にずらすことによって、
七夕本来の逢恋を不逢恋に変容させ、
叙景歌を悲恋歌へと再解釈させた。」p.67
「第六章
阿倍仲麻呂
「天の原」歌(七番)の再検討
上野[誠]論を起点として」p.71-86
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
古今和歌集 巻第九 羈旅歌 406
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ 698-770)
奈良時代の遣唐留学生。717年遣唐使に同行し長安へ。
唐朝高官。唐で客死。
古今集初出(一首)。勅撰入集三首。
「仲麻呂は万葉歌人ではなく、『古今集』所収歌人である」p.73
「『古今集』収録仲麻呂歌には詞書と長い左注が付いている。
それがこの歌の伝承性を物語っている」p.74
「この歌に中国臭が認められないことから、もともと国内で詠じられた歌とすれば、非仲麻呂歌という結論が浮上する」p.78
「古今集撰者である紀貫之の関与ということをかって主張した。
拙著『百人一首の新研究』和泉書院 2001.3
の中で
「『土佐日記』承平五年(935)正月二十条では、初句を大空を意味する「天の原」から大海を意味する「青海原」に大きく改作されているが、平気でそんなことができる貫之こそ、「天の原」歌の真の作者ではないだろうか。」
と仮説を述べた。」p.79
「[古今集撰者が]
作者を阿倍仲麻呂としていること、
詞書に「唐土にて月を見てよみける」とあることが、
この歌の解釈を強く規定(方向付け)している。
『古今集』では国内の他郷ではありえず、
中国で詠まれた歌として解釈することが求められている。
『古今集』成立の時点で、
既に仲麻呂が中国で没したことは知らされていたであろうから、
それを踏まえて「羇旅」に配している。
多くの遣唐使達の望郷の思いが込められたものであり、
その代表者としての仲麻呂歌と見るべきだろう。」p.82
「『古今集』歌としては
紀貫之の創作という
私の幻想がますます確固たるものになってきた。」p.83
「第七章
在原行平
「立ち別れ」歌(一六番)の新鮮さ」p.87-95
立別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かば今帰り来む
古今和歌集 巻第八 離別歌 365(巻頭歟)
在原行平(ありわらのゆきひら 818-893)
平安時代前期の歌人・公卿。
平城天皇の第一皇子である
弾正尹(だんじょうのかみ 弾正台長官 皇族に与えられる名誉職)
阿保親王の次男(または三男)。
在原業平の兄。
古今集初出(四首)。新古今集一首。
勅撰入集十一首。
「万葉集に因幡国を詠んだ歌はない。
歌に詠み込むような地名ではなかった。
[「立ち別れ」歌は]勅撰集における初出。
行平歌の時点では歌枕とはなっていなかった。」
p.89「一 問題提起」
「掛詞が二つも用いられ、
「因幡の山の峰に生ふる松」という自然と、
「立ち別れ往ぬ」「待つとし聞かば今帰り来む」という人事が
見事に融合しており、いかにも『古今集』的な世界を構築している。」
p.92「二 枕詞的な「立ち別れ」
「「因幡の松」は定家の
忘れなん待つとな告げそなかなかに因幡の山の峰の秋風
新古今和歌集 巻第十 羇旅歌 968
を代表として、
『千五百番歌合』
『最勝四天王院和歌』
『建保名所和歌』
に行平歌を本歌取りした歌として多く詠まれている。
ここに至って「因幡」といえば「松」が付き物
といえるほど定着(流行)した。」
p.93「三 掛詞としての「因幡の松」
「行平の「立ち別れ」歌は、
『古今集』の中でも独創的な歌だった。
「因幡」と「松」の取り合わせは、
それ以前にはまったく詠まれておらず、
新古今時代に本歌取り歌として大流行したことで、
古くから歌枕だったと誤解されているが、
行平歌への注目が生み出した新しい歌枕のイメージだった。
その流行と相俟って、
行平の代表作として百人一首に撰入されたわけだが、
今ではその新鮮さがわかりにくくなっている。」
p.94「四 まとめ」
「第八章
在原業平歌(一七番)の
「ちはやぶる」幻想 清濁をめぐって」p.97-113
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』17
2017年3月
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
古今和歌集 巻第五 秋歌下 293
二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢ流れたる形をかけりけるを、題にてよめる
在原業平(ありわらのなりひら 825-880)
平安時代初期の貴族・歌人。
平城天皇の孫。
古今集初出(三十首)。新古今十二首。
勅撰入集八十六首。
「競技かるたの読み「ちはやぶる」(濁音)と
落語「ちはやふる」(清音)が対立している。
近年、末次由紀氏のマンガ「ちはやふる」が大ブレイクし、それがテレビアニメで放映され、実写版(広瀬すず主演)映画が上映され、必然的に音声を伴うこととなり、書名(タイトル)とかるたの読みの違い(清濁問題)が浮上した。」
p.99「一 二つの清濁問題(問題提起)」
「現在、全日本かるた協会は「ちはやぶる」と濁って読むことを主張しているが、最初に作られた「標準かるた」(明治37年以降)では「ちはやふる」と清音で読まれていた。
大正14年「公定かるた」として大幅改訂された際、「ちはやぶる」と濁音で表記。[江戸時代流布百人一首版本類は清音表記であり]このあたりが清濁の境目だろう。
濁音が正しいとされる理由は、『万葉集』重視の姿勢にあるようだ。
大正・昭和に至って「ちはやぶる」(濁音)本文が急激に広まった理由は勢いの強い・勇猛なという意味を有する「ちはやぶ・いちはやぶ」を語源とすることで、「破る」という表記が積極的に選び取られ、濁って読む方が戦時体制の日本社会の中で歓迎されたからであろう。
競技かるたの読みは、そういった日本の時代背景に迎合して、濁音に修正されたのではないだろうか。」
p.108-109「六 明治期の表記」
「上代の用例[万葉集]が濁音優勢であっても、その後で清音化していったことを重視すれば、『古今集』や百人一首は清音で読む可能性が存する(高い)はずである。
そのことに言及せず、上代に遡って語釈を施して済ませ、それにひきずられるように本文まで濁音にするというのは、時代的変遷を無視していることになろう。本稿の題名を「「ちはやぶる」幻想」とした所以である。
必ずしも「ちはやぶる」(濁音)が間違っているわけではないものの、だからといって絶対に正しいともいいがたい。
中世成立の百人一首は、濁音から清音への変遷を踏まえた上で、「ちはやふる」と清音で読むのが妥当ではないだろうか。」
p.110-111「七 まとめ(清音復活に向けて)
「第九章
在原業平歌(一七番)の
「水くぐる」再考 森田論を受けて」p.115-126
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
古今和歌集 巻第五 秋歌下 293
二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢ流れたる形をかけりけるを、題にてよめる
在原業平(ありわらのなりひら 825-880)
平安時代初期の貴族・歌人。
平城天皇の孫。
古今集初出(三十首)。新古今十二首。
勅撰入集八十六首。
「森田直美
「水は括られたのか 在原業平「唐紅に水くくるとは」の清濁」
『都留文科大学研究紀要』89
平成31年[2019]3月
「「紅葉を紅の水に見立てる表現」は、
六歌仙時代においては、
かなり新奇なものだったと推測される。
よって本稿が示した試訳も、
業平の時代においては、外連味に満ちた上句
「神代も聞かず」を受けるにふさわしい、
目新しい詠みぶりと見ることができる。」
p.119「二 森田説の紹介」
「百人一首の撰歌意識について、
私には秀歌ということ以外に、
その歌人の人生史を象徴する歌が撰ばれている
という持論がある。
それで考えると、
この歌は業平と高子[二条の后]との過去の関係を想起させる
要素が含まれていなければならない。
「神代」という誇張表現にしても、
その裏に業平と高子の過去の恋愛を想定してもいいはずである。
二人の過去について、業平はどのように思っていたのか。
紅葉の美しさを奇抜に詠じるだけでは、
業平の代表歟としては面白くあるまい。
「括る」でも「潜る」でもなく
「深紅に染まった水が流れる」と解釈すると、
「から紅」や「紅」を詠じた歌の多くには、
「涙」や「流れる」という共通要素が見出せることに気付く。
それは有名な中国の
「卞和の璧(べんかのへき)」から派生した
「紅涙」「血涙」を引用しているからである。
業平もかっての恋人高子との過去に対して、
血の涙を流して悲しんだという自らの思いを、
この歌に託していると見ることができる。」
p.123「四 「紅涙」浮上」
「漢文由来の「紅涙」が投影されていると考えると、
『古今集』の詞書にある「二条の后」の存在が生き、
恋愛を引き裂かれた高子に対し、
業平の悲しみの深さを
奇抜かつ誇張表現の中に秘かに隠していた
という解釈が可能になった。
これこそ業平の特徴が遺憾なく発揮された、
まさしく業平の代表歟といえる。」
p.124-125「五 まとめ」
https://yoji.jitenon.jp/yojif/2521.html
四字熟語 卞和泣璧
読み方 べんかきゅうへき
意味 素晴らしい才能や、すぐれた業績が正しく評価されずに嘆くこと。
「卞和」は中国の春秋時代の国の楚にいたとされる人の名前。
「璧」は宝石のこと。
卞和が宝石の原石をレイ王に献上したが、石と思われて罰として左足を切られ、その後、武王に献上したが同じく罰として右足を切られた。
卞和は宝石の原石を石と言われて、うそつきと扱われたことを嘆き、三日三晩泣いたという故事から。
「卞和璧に泣く」とも読む。
出典 『蒙求』「卞和泣璧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/和氏の璧
楚の国にいた卞和(べんか)という人が、山中で玉の原石を見つけて楚の厲王(蚡冒)に献上した。厲王は玉石に詳しい者に鑑定させたところとただの雑石だと述べたので、厲王は怒って卞和の左足を切断する刑をくだした。厲王没後、卞和は同じ石を武王に献上したが結果は同じで、今度は右足切断の刑に処せられた。文王即位後、卞和はその石を抱いて3日3晩泣き続けたので、文王がその理由を聞き、試しにと原石を磨かせたところ名玉を得たという。その際、文王は不明を詫び、卞和を称えるためその名玉に卞和の名を取り「和氏の璧」と名付けた。
そののち、宝玉は趙の恵文王の手にわたり、秦の昭襄王が自領にある15の城と交換に入手しようと持ちかけられた。しかし、秦が信用できるかどうか悩んだ恵文王は藺相如を秦に送った。命をかけた藺相如の働きにより、約束を守る気の無かった昭襄王から璧を無事に持ち帰ることができ、「璧(へき)を完(まっとう)する」ことができた。少しのきずもない、完全無欠なことを「完璧」と称するのは、そのためである。また、15城もの価値がある璧だと「連城の璧」と称されるようにもなった。
「第十章
素性法師歌(二一番)の
「長月の有明の月」再考」p.127-137
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
古今和歌集 巻十四 恋歌四 691
素性法師(そせいほうし 生年不詳-910?)
平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。
桓武天皇の曾孫。遍照(良岑宗貞)の子。
古今集初出(入集三十六首、歌数第四位)。新古今二首。
勅撰入集計六十三首。
「これまで百人一首は、出典たる勅撰集に遡って解釈されることが多かった。それが勅撰集の入門書たる百人一首の享受のあり方ともいえる。
それに対して
島津忠夫氏[1926.9.18-2016.4.16]は、
百人一首の歌を勅撰集に戻すのではなく、
定家がどのように解釈しているかを考えるべきだとの立場を主張された。」
p.130「一 問題提起」
「[「有明の月」は]古典の用例では明け方ではなく、
暗い夜空に月が出ていることを指す方が多い。
空が暗いからこそ「有明の月」が印象的に見えるからである。
男女の後朝の別れの時間帯である、暁の暗い時間。
古典の明け方は真っ暗な午前三時を指す例が少なくない。」
p.130-132「二 「有明の月」について」
「勅撰集で「長月の有明の月」を最初に詠じたのは素性で、
「長月の有明の月」を恋歌に用いているのも、
勅撰集では素性の歌が最初のようである。
通常の後朝の別れではなく、来ない男を待つ恋なので、
この場合の月は、待っている男は来ないで、
(待ちもしていない)「有明の月」が出てきたという意味だ。
月の出の遅い「有明の月」は、
もはや男の訪れる時間が過ぎた(男はもう来ない)
ことを察知させる。」
p.135-136「四 まとめ」
「「九月」ではなく「長月」という表記にこそ意味があり、
「長い」夜を待ち明かしたという掛詞としての技法が内包されている。
「長月」掛詞説はもっと一般化されるべきであろう。
おそらく定家は、『古今集』ならぬ百人一首において、
「長月」を掛詞と考えていたと思われるからである。」p.136-137
「百人一首研究の指針として、
島津忠夫[1926.9.18-2016.4.16]氏の影響を多大に受けた私は、
島津氏の尻馬に乗って
撰者藤原定家の解釈を重要視して研究を続けてきた。
百人一首は出典である勅撰集の解釈を受け入れるのではなく、
百人一首独自の解釈を模索すべきだと考える。」
p.117-118
「第九章 在原業平歌(一七番)の「水くぐる」再考 森田論を受けて」
「島津氏は定家の解釈を知る手段として
『顕註密勘』を最大限に活用されていた。
そこには確かに定家の説が書かれているのだが、
それはあくまで『古今集』の注釈でしかなかった。
一方で『古今集』と百人一首の違いをあげていながら、
『古今集』の注釈である『顕註密勘』によって、
それを定家の説として百人一首に応用するのは詭弁ではないのか
と思っていた。
もちろんそれ以外に定家の説は見当たらないので、
島津氏もそれを承知の上で便宜的に活用されていたはずである。」
p.119-120
「水くぐる」論では初めて島津先生の論に異を唱えてみた。
先生がまだご健在の時にお見せできていれば、
と悔やまれてならない。」
p.310「後書き」
「第十一章
『百人一首』の「暁」考
壬生忠岑歌(三〇番)を起点にして」p.139-164
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』13 2013年3月
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
古今和歌集 巻第十三 恋歌三 625
壬生忠岑(みぶのただみね 生没年未詳 860頃-920頃)
平安時代前期の歌人。
壬生忠見の父。
古今集撰者。
新古今三首。勅撰入集八十四首。
「百人一首中に、「暁」という言葉はわずか一例しか用いられていない。
その一例とは壬生忠岑の、この歌である。
「有明」も詠み込まれているが、
「有明」と「暁」が一緒に詠まれている歌は勅撰集などには見当たらない。
「有明」はかっては夜明けに出ている月とされていたが、
小林賢章氏によって暁に出ている月と修正された。」
p.141「一 問題提起」
「「暁の別れ」は、原則一夜を共にした男女の別れである。
具体的には、訪れていた男が女の元から帰る際(帰った後)に
「後朝の歌」として詠まれる場合が多い。」
p.146「二 「暁の別れ」と「有明の別れ」」
「「暁」は午前三時から五時までの時間帯であるが、
その始まりは
①日付変更時点[寅の刻]であること、また
②暁は男女が別れる時間帯(暁の別れ・後朝の別れ)でもあること、
③「暁」は「しののめ・あさぼらけ・あけぼの」などと微妙に重なっていること、
④「明く」を安易に夜が明けるとだけ解するのは危険であること、
⑤「暁」の到来は視覚ではなく聴覚情報[鶏鳴、ほととぎす、後夜の鐘、時の奏(ときのそう)]で察知していること、また
⑥視覚的な「有明の月」が象徴的に描かれていること、
⑦だからこそ薄明るいという解釈がまかり通っていたことなど、
さまざまな問題点を指摘してみた。
平安時代の時間の概念をきちんと整理・把握することは、
古典を正確に理解する上で重要である。」
p.160「六 まとめ」
「第十二章
紀友則歌(三三番)の
「久方の」は「光」にかかる枕詞か?」
『解釈』683集(第61巻3・4号) 2015年4月
久方の光のどけき春の日に静(しづ)心なく花の散るらむ
古今和歌集 巻第二 春歌下 84
紀友則(845?-970)
平安時代前期の歌人。
古今集撰者。紀貫之は従兄弟。
古今入集四十七首(貫之・躬恒に次ぐ第三位)。
勅撰入集七十首。
「枕詞というのは約束事であり、
「久方の」が「光」を導いている歌が古歌に何首か詠まれていて初めて成立する。
ところが「久方の光」という表現は、この友則歌が初出であり、
『万葉集』にも勅撰三代集にもこれ以外の例は見当たらない。
たった一首の例をもって、
これを「枕詞」と認定すること自体に問題がある。
少なくとも友則歌が詠まれた時点では、
枕詞とは認識されなかったはずである。むしろ斬新な表現だった。
どうやら従来の多くの百人一首本は、
そういった用語検索をきちんと行わず、
他の本の説明をそのまま踏襲(孫引き)して、
安直に「光にかかる枕詞」として済ませていた
ように思えてならない。
もちろん、そういったことをきちんと踏まえているものもある。
たとえば
安東次男氏『百人一首』(新潮文庫)では、わざわざ、
「光」の枕詞としたものはこの歌が初見。
と非常に良心的なコメントが施されていた。
「初見」なのに枕詞」とするのは納得できかねるが、
察するに友則歌が詠まれて以降、次第に用例が増加して、
後世において枕詞」として確立したという流れを想定しているのであろう。
その通りかもしれないが、だからといって、
友則歌が詠まれた時点まで遡って枕詞とするのはいかがであろうか。」
p.169-170「三 用例の希少さ」
「従来の「光」にかかる枕詞という説明は、
枕詞としないで修飾語とするか、
さもなければ「ひ」音を有する「光・昼・日」などに掛かる枕詞
という説明に修正・改訂すべきではないだろうか。
少なくともその方が説明として合理的であろう。」
p.175「五 まとめ」
「百人一首の表現は必ずしも伝統的なものではなく、
むしろ初出・非伝統的表現であることが多い。
そこに定家の主張があると考えたい。
「久方の光」は友則が発明したものであり、
それ以前に用例がない新表現(非歌語)である。
友則歌の表現に従兄弟の紀貫之が同調して、
「久方の昼夜」と歌ったことも看過できない。
少なくともこの問題は、紀友則・紀貫之という二人の歌から
生じていると見て間違いなさそうだからである。」p.174
古今和歌集 巻第十九 雑躰 1002
古歌奉りし時の目録のその長歌(ながうた)
つらゆき
ちはやぶる 神の御代より くれ竹の 世々にもたえず
天彦の おとはの山の 春霞 思ひみだれて 五月雨の
空もとどろに さ夜ふけて 山ほととぎす 鳴くごとに
誰もねざめて 唐錦 たつたの山の もみぢ葉を
見てのみしのぶ 神無月 しぐれしぐれて 冬の夜の
庭もはだれに 降る雪の なほ消えかへり 年ごとに
時につけつつ あはれてふ ことを言ひつつ 君をのみ
千代にといはふ 世の人の 思ひするがの 富士の嶺の
もゆる思ひも あかずして 別るる涙 藤衣 織れる心も
八千種の 言の葉ごとに すべらきの おほせかしこみ
巻々の 中につくすと 伊勢の海の 浦のしほがひ
拾ひあつめ とれりとすれど 玉の緒の みじかき心
思ひあへず なほあらたまの 年をへて 大宮にのみ
ひさかたの 昼夜わかず 仕ふとて かへりみもせぬ
わが宿の 忍ぶ草おふる 板間あらみ 降る春雨の
もりやしぬらむ
https://ameblo.jp/wakanococoro/entry-12496730261.html
「第十三章
清原元輔歌(四二番)の
「末の松山」再検討 東北の大津波を契機として」p.179-199
『古代文学研究』第二次23 2014年10月
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
心かはりて侍りける女に人にかはりて
後拾遺和歌集 巻第十四 恋歌四 770(巻頭歟)
『惟規集』にあり、藤原惟規(のぶのり ?-1011 紫式部の同母兄または弟)のために代作か。
清原元輔(きよはらのもとすけ 908-990)
平安時代の歌人・官人。
清原深養父の孫。清少納言の父。
和歌所(梨壺)寄人。後撰集撰者。
拾遺集初出(49首)。新古今六首。勅撰入集百八首。
「「末の松山」は、平安貴族が都で生み出した歌枕(幻想)であり、
具体的な所在地を確定することは困難であるばかりか、
都人の視点としては無意味な作業。
場所の特定は、江戸時代以降の時代考証趣味に基づく観光視点の産物、
名所記作成の商業的研究。」
p.182「二 海底考古学とは」
「「末の松山」の初出は、
『古今集』(905年)の東歌(陸奥歌)1093番、
君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ
で、この地名は『万葉集』には詠まれていない。
「東歌」とは、文字通り東国の風俗歌などを、
平安朝貴族の和歌として取り入れる際に名付けた用語で、
採用することにあたって、貴族好みのフィルターにかけられ、
アレンジ(加工)されている可能性が高い。」p.183-184
「『古今集』では「末の松山」を波が越すことはなかったが、
『後撰集』になると、歌の様相が一変する。
恋部に撰入され、相手の心変わりによって、
悲しみの涙で袖が濡れることを比喩的に詠じている。
「末の松山」は不変の愛のイメージとしては定着せず、
心変わりを前提とする誓いとして歌枕化された。」
p.193「五 歌枕「末の松山」のイメージ
「『後撰集』的な詠み振りは、
『後拾遺集』にも本歌取り風に継承され、
越えにける波をば知らで末の松千代までとのみ頼みけるかな
705番 能通
770番 元輔
歌枕「末の松山」は心変わりの喩としてイメージされていた。」p.195
「藤原定家の本歌取り歌
松山と契りし人はつれなくて袖越す波に残る月影
拾遺愚草 3825」
p.196「六 まとめ」
「第十四章
藤原公任
「滝の音は」歌(五五番)をめぐって
西行歌からの再検討」p.201-212
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなを聞こえけれ
嵯峨の大覚寺にまかりてこれかれ歌よみ侍りけるによみ侍りける
千載和歌集 巻第十六 雑歌上 1035
藤原公任(ふじわらのきんとう 966-1041)
平安時代中期の公卿・歌人。
『和漢朗詠集』撰者。
拾遺集初出(十五首)。新古今六首。
勅撰入集八十九首。
「公任の代表歌として「滝の音は」歌はふさわしいか
公任撰の『拾遺抄』に入っていない
藤原俊成の秀歌撰に撰ばれていない
定家の『八代抄』にも入っていない
百人一首撰入歌は、
定家の『八代抄』に撰ばれていることが原則というか最低条件だった。
例外はこの公任歌と
道因歌
八二番[思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり]
のわずか二首だけである。」
p.204「一 問題提起」
「春来てぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ
[北白川の山庄に花のおもしろく咲きて侍りけるを見に人々まうで来たりければ 右衛門督公任]
拾遺和歌集 巻第十六 雑春歌 1015・後十五番歌合[1008年頃]]
は『拾遺抄』にあるだけでなく
俊成の『古来風体抄』にも撰ばれており、
定家の『八代抄』にも掲載されているのだから、
本来ならばこの歌が公任の代表歟とされるにふさわしい。」p.204
「もともと「なこその滝」という名称の滝は存在していなかった。
公任にしても滝の名称を意識して歌を詠じているわけではない。
当時荒廃していたかどうかも未詳だが、
公任が題詠で「名こそ流れて」と詠じたことから、
後世に「なこその滝跡」という名称が付けられた。
公任が「なこそ流れて」と詠んだ滝跡であって、
決して「なこその滝」跡ではなかった。
その後も歌に詠まれておらず、
歌枕となっていたわけではない。
江戸時代になって観光客の増加に合わせて
名所記(観光ガイドブック)が作られた際、
名所にふさわしく
「なこその滝跡」というネーミングが登場した。
百人一首の流行が生み出した
幻想の名所ということになりそうだ。」
p.210-211「四 まとめ」
「第十五章
小式部内侍
「大江山」歌(六〇番)の掛詞再考
浅見論を契機として」p.213-236
『古代文学研究』第二次28 2019年10月
大江山いく野の道の遠ければふみもまだ見ず天橋立
和泉式部保昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしけむや、つかひはまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立ちけるをひきとどめてよめる
小式部内侍
金葉和歌集 巻第九 雑歌上 550
小式部内侍(999 頃 -1025)
和泉式部の子。
万寿二年(1025)十一月没。
「小式部内侍は二十代で亡くなったこともあり、
詠んだ歌も少ないことから、家集らしきものは残っていない。
勅撰集には四首程度しか入集しておらず、
その数値からは到底一流歌人としては認めがたい。
百人一首に撰入されている理由も明白ではない。
「大江山説話」は
[『十訓抄』『古今著聞集』の他に]
『俊頼髄脳』にも収録されている。
これ程有名な和歌であるにもかかわらず、
何故『金葉集』以前の
『後拾遺集』に採られていないのか。
『金葉集』の撰者は源俊頼であり、
『俊頼髄脳』の作者も同じく俊頼。
今のところ小式部内侍の和歌も説話も、俊頼以前には遡れない。
この和歌や説話は、俊頼に見出され評価されたものということになる。
どうして俊頼以前に評価されなかったのか、
俊頼はこの和歌をどのように発掘したのかなどはわからないものの、
有名な伊勢大輔の
「61 いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」歌にしても、
同様に『後拾遺集』には収録されておらず、
後の『詞花集』(三奏本『金葉集』)に掲載されている。
こういった当意即妙の返歌は、
『後拾遺集』では評価されなかったのかもしれない。
また「八重桜」が当時必ずしも美的なものではなかったのと、同様、
「天の橋立」にしても、
当時は美的な歌枕として認識(評価)されていなかった。
以上は、小式部が「大江山」歌を詠んだことを前提としての話である。
後世の作り話(虚構)と見ることもできなくない。
その折りに開催されたはずの歌合の記録が一切残っておらず、
必然的にその歌合で小式部が詠んだであろう歌も
伝わっていないからである。
公的行事としての歌合の記録がなく、
その前哨戦でしかない小式部と定頼のやり取りだけが
後世に伝わっているというのは本末転倒で、
歌合が行われたということ自体も疑わしくなってくる。
和泉式部が都に残していく小式部を気遣っていたという記事が
『和泉式部集』にあり、その和泉式部を定頼がからかった話が
『定頼集』にあることから、そういった記事を複合して
小式部内侍説話が醸成された可能性も否定しがたい。
仮に歌合が虚構であるとすれば、
必然的に定頼と小式部のやりとりも虚構ということになる。
もしそうなら、小式部は「大江山」歌も詠んでいないことになる。
ではこの歌の作者としてもっともふさわしい(可能性が高い)のは
誰であろうか。これはあくまで仮説であるが、
真っ先に想定されるのはもちろん俊頼その人である。」
p.221-223「四 源俊頼の浮上
「定家が意図的に「ふみもまだ見ず」を「まだふみも見ず」に改訂した。
この掛詞[「ふみ」「文」「踏み」]は
定家によって仕掛けられたのではないだろうか。」
p.233「九 まとめ」
「第十六章
清少納言歌(六二番)の
「夜をこめて」再考 小林論の検証」p.237-263
『日本文学論究』79 2020年3月
夜をこめて鳥の空音にはかるともよに逢坂の関はゆるさじ
枕草子 百三十段
後拾遺和歌集 巻十六 雑歌二 939
大納言行成ものかたりなどし侍りけるに、うちの御物忌みにこもればとていそぎかへりて、つとめて鳥の声にもよほされてといひをこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにやといひにつかはしたりけるを、たちかへりこれは逢坂の関に侍りとあればよみ侍りける
「この章段は後朝風な構成(虚構)になっていた。
午前三時を告げる鶏鳴は、男女の別れの合図として機能している。
それに対して「逢坂の関」は、その対極にある男女の逢瀬に機能するものである。たとえ同じ「関」であっても、時間前に通る函谷関と、男女の逢瀬を意味する逢坂の関では、その実態(ベクトル)が正反対になっている。」
p.253「六 継続動詞か瞬間動詞か」
「百人一首では「鳥のそら音は」となっており、「に」が「は」に改変されている。この場合は並列あるいは強意となり、函谷関における鳥の鳴き真似と、逢坂の関を通すことを別々というか対比して考えることになる。
要するに「は」だと「夜をこめて」は上の句だけにかかる。だから「鳥のそら音」は逢坂の関とは無縁になる。というのも、逢坂の関は「鳥のそら音」で開くものではないからである。
この改変が定家の作意(苦心)だとすると、定家は前述のようなベクトルのずれに気付き、それを解消するためにあえて並列の「は」に変更・改訂したのかもしれない(そうでも考えないと合理的な説明がつけにくい)。その定家の真意がこれまで伝わらなかったことで、こういった解釈のずれが生じているのではないだろうか。」p.255-256
「第十七章
俊恵法師歌(八五番)の
「閨のひま」再考」p.265-277
『解釈』第66巻3・4号 2020年4月
よもすがら物思ふ頃は明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
千載和歌集 巻第十二 恋歌二 766 恋歌とてよめる
「来ない男を待ちわびる女になりかわって詠んだ女歌である
(決して法師の恋などではない)。」
p.267「一 問題提起」
「夜通しつれない(来ない)あなたのために物思いしているこのごろは、早く明けてほしいと思うが、なかなか暁(翌日)にならないので、(来ないあなたばかりか)寝室の隙間から漏れてくる月の光さえつれなく思われることです。」
p.277「注(5)」
「夜もすがら→明く、という構文に注目すると、
「夜もすがら」が過ぎると「暁」になることがわかる。
「暁」の到来は、男が女の元から帰る「後朝の別れ」の象徴
であるだけでなく、もはや待っている男が来ないことをも暗示する。
こういった詠み方は決して珍しいものではなく、百人一首のなかにも、
「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」21 素性
「やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」59 赤染衛門
などと類歌が見いだせ、二首とも月が重要な要素として詠み込まれている。」
p.273-274「三 「閨のひま」と月光
「この歌の「明けやる」には、
夜が明けるとするか暁になる(日付が変わる)とするかの
二通りの解釈が存する。これを暁になると解釈して、
「月の光」が射し込むと解すると、次の西行歌
「嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな」86
も「月」を詠んだ歌であることから、
対照的な配列になっていることが見えてくる。」p.274
「第十八章
参議雅経歌(九四番)の
「さ夜更けて」の掛詞的用法」p.279-291
『解釈』第61巻9・10号 2015年10月
み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 483
擣衣の心を
建仁二年(1202)八月二十五日、明日香井集 詠百首和歌 秋
「砧を打つ情景は
李白の「長安一片月、万戸打衣声、秋風吹不尽」(子夜呉歌」)
等が踏まえられている。
夫を兵役にとられた妻が、夫の帰りをじっと待つ
という漢詩の伝統的なイメージが哀愁感を付与している。
漢詩を踏まえつつも、
吉野の秋風に重点をおいているところに新鮮味がある。」
p.282「一 問題提起」
「勅撰集の「砧」の用例は、
三代集[古今・後撰・拾遺]には全く見られず(非歌語)、
永承四年(1049)11月9日内裏歌合で初めて
「擣衣」が歌題として登場し、四首詠まれている
(そのうちの三首が『後拾遺集』に撰入)。
その後『千載集』に五首撰入し、そして
『新古今集』に至って十二首も採られている。
「砧」は新古今時代に、哀愁を帯びた歌語として流行したようである。」p.282
「み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり」
坂上是則 古今和歌集 巻第六 冬歌 325
「古来、吉野山の歌と言えば、必ずといっていい程、「雪」が詠まれてきた。『後拾遺集』あたりから「桜」の歌が増大し、特に西行以降に爆発的に流行しているが、それ以前は雪(遅い春を待つ心)が本命であり、雅経歌の本歌である是則歌がその好例であった。
雅経歌は、これまで無縁だった吉野と「砧」を結びつけている。
秋の夜の静寂の中、吉野山から冷たい風が吹いてくる。
その風に乗って、どこからともなく聞えてくる砧の音
(冬支度?)によって故郷の寒さが一層身に染みる。
吉野の冬はもうそこまでやってきている。」
p.283「二 「さ夜更けて」に注目」
「「秋風」と「さ夜更けて」の結びつきはしっくりしていない。
「秋風」は「吹く」ものであるから、
時間的経過を意味する「さ夜更けて」には直接つながらない。
その後の歌詞をたどってみても、
「秋風」を受ける語はこの歌にはどこにも見当たらない。」p.284
「「更く」は下二段活用の動詞であるから、連用形は「更け」となる。
それに対して「吹く」は四段活用の動詞なので、連用形は「吹き」となる。
たとえ終止形は同じであっても、連用形はことなっている。
そういった文法的な問題があるにもかかわらず、
定家は秋風が吹くことを「風吹きて」ではなく、
「風吹けて」と詠じている。
さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 420
定家朝臣 家に月五十首歌よませ侍りける時
建久元年(1190)『花月百首』
「風ふけて」を詠み込んだ歌としては最も早いものと思われ、
定家が発明した造語(新歌語)という可能性も高い。
御子左家歌人達の中で容認・定着していったことがうかがわれる。
「ふけて」は、
「更く」に「吹く」が掛けられた新種の掛詞ということになる。」
p.285-286「三 新歌語「風ふけて」」
「『六百番歌合』建久四年(1193)
『老若五十首歌合』建仁元年(1201)二月
にも、
「秋風小夜更けて」は詠まれていて、
既に歌語表現として市民権を得ていた。
そのためか
[下河辺長流 1627-1686]
『百人一首三奥抄』の「み吉野」歌注において、
秋風小夜更けてといふ詞、秋ふけかぜ吹夜のふけたるみつのものを兼たり。(『百人一首注釈書叢刊 10 百人一首三奥抄・百人一首改観抄』和泉書院 1995 61頁)
と三重の掛詞説が唱えられている。
これが「小夜更けて」掛詞説を提唱した嚆矢かと思われる。
そうなると「小夜更けて」を掛詞とする説は、
江戸時代に既に存していたことになる。
それにもかかわらず、市販されている百人一首本で、
「更けて」を掛詞と説明しているものは見当たらない。」
p.289「五 まとめ」
「「風ふけて」を考案した定家は、
雅経歌の「小夜更けて」を新しい掛詞表現としてプラスに評価していた。
だからこそ定家はこの歌を百人一首に撰入させたのである。」p.290
「第十九章
従二位家隆歌(九八番)の「夏のしるし」に注目して」p.293-305
『解釈』第63巻9・10号 2017年10月
風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける
新勅撰和歌集 巻第三 夏歌 192(巻軸歌)
寛喜元年[1229]女御入内屏風
「最初に家隆歌の本歌とされている『拾遺集』神楽歌の、
みそぎする今日唐崎におろす網は神のうけひくしるしなりけり
拾遺和歌集 巻第十 神楽歌 595
平祐挙
粟田右大臣家の障子に、からさきに祓したる所にあみひくかたかける所
をあげておきたい。」
p.296「二 勅撰集の「季節+しるし」の用例」
「従来は『古今六帖』所収の、
みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと
古今和歌六帖 第一冊 歳時 118 八代女王[やしろのおおきみ 生没年未詳 聖武天皇嬪]
[新古今和歌集 巻第十五 恋歌五 1376]
及び『後拾遺集』所収の、
夏山の楢のはそよぐ夕暮はことしも秋の心地こそすれ
後拾遺和歌集 巻第三 夏歌 231
源頼綱
俊綱朝臣のもとにて、晩涼如秋といふこゝろをよみ侍りける
の二首が本歌としてあげられていたが、この歌から「夏のしるし」という表現は出てこない。」
p.304「注(2)」
「ここでは必ずしも夏の訪れが歌われているのではなく、むしろ秋の訪れが主題になっている。まだ暦の上では夏(晩夏)なのに、夕暮れに吹く涼しい風に秋(初秋)の訪れを察知していることが眼目であった。この発想は『古今集』の、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
古今和歌集 巻第四 秋歌上 169
藤原敏行朝臣 秋立つ日よめる
を踏まえていると見て間違いあるまい。その上で視覚と聴覚・触覚のずれを問題にし、あえて「夏のしるし」を表出することで、かえって秋の到来を看守させている。
率直に「秋のしるし」とせず、ひねって「夏のしるし」と表現した点こそ、家隆歌の巧みさ・斬新さといえそうだ。
従来は定家が『明月記』に「今度歌頗非秀歌」とか「今度宜歌唯六月祓計尋常也」と記していることに引きずられて、この歌の斬新さに思いが及ばなかったことを反省したい。」
p.302「四 「秋のしるし」について」
「あまり待ち望まれない季節である「冬のしるし」など勅撰集に一首も詠まれておらず、「夏」にしても勅撰集は当該歌一例だけであった。
そういった季節の推移表現の中で家隆歌は秋の到来を主題とせず、あえて夏の残像に目を向け、それを「夏のしるし」と表現した。これには定家も驚いたことだろう。
だからこそ望まれない「夏のしるし」表現が可能なわけで、まさしく本歌取りの技巧の成功例といえる。」
p.303-304「五 まとめ」
「第一章
天智天皇「秋の田の」歌(一番)を読み解く」
『日本語学』2017年6月号(第36巻6号)
https://note.com/fe1955/n/n586a12682eab
「第二章 「白妙の」は枕詞か
持統天皇歌(二番)と山辺赤人歌(四番)の違い」
https://note.com/fe1955/n/n62266db52edf
「第三章
柿本人丸歌(三番)の「ひとりかも寝ん」の解釈」
https://note.com/fe1955/n/n0ba90ea3e6c6
「第四章
柿本人丸歌(三番)の「長々し」の特殊性」
https://note.com/fe1955/n/n8a17ee829b0e
「第五章
大伴家持「かささぎの」歌(六番)を待恋として読む」
https://note.com/fe1955/n/n4f431d990faa
「第六章
阿倍仲麻呂「天の原」歌(七番)の再検討
https://note.com/fe1955/n/n33fa91b5395e
「第七章
在原行平「立ち別れ」歌(一六番)の新鮮さ」
https://note.com/fe1955/n/n1e1c79d9cfff
「第八章 在原業平歌(一七番)の
「ちはやぶる」幻想 清濁をめぐって」
https://note.com/fe1955/n/ncf668d55a127
「第九章 在原業平歌(一七番)の
「水くぐる」再考」
https://note.com/fe1955/n/nd7cbc56bb2ef
「第十章
素性法師歌(二一番)の「長月の有明の月」再考」
https://note.com/fe1955/n/n0cd814798890
「第十一章『百人一首』の「暁」考
壬生忠岑歌(三〇番)を起点にして」
https://note.com/fe1955/n/nf5c13c161a9f
「第十二章
紀友則歌(三三番)の「久方の」は「光」にかかる枕詞か?」
https://note.com/fe1955/n/na4105dc83b68
「第十三章
清原元輔歌(四二番)の「末の松山」再検討
東北の大津波を契機として」
『古代文学研究』第二次23 2014年10月
https://note.com/fe1955/n/nb4ff7c92d48c
「第十四章
藤原公任
「滝の音は」歌(五五番)をめぐって
西行歌からの再検討」
https://note.com/fe1955/n/n3b8dec0bafab
「第十五章
小式部内侍
「大江山」歌(六〇番)の掛詞再考」
https://note.com/fe1955/n/n16dc1cc3dbeb
「第十六章
清少納言歌(六二番)の
「夜をこめて」再考証」
『日本文学論究』79 2020年3月
https://note.com/fe1955/n/nf6a845025e47
「第十七章
俊恵法師歌(八五番)の
「閨のひま」再考」
『解釈』第66巻3・4号 2020年4月
https://note.com/fe1955/n/nfda49d0f8bf2
「第十八章
参議雅経歌(九四番)の「さ夜更けて」の掛詞的用法」
https://note.com/fe1955/n/nd0476d50dc9f
「第十九章
従二位家隆歌(九八番)の「夏のしるし」に注目して」
https://note.com/fe1955/n/n128163d33fd1
初出一覧
後書き
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す』
新典社 2011年5月刊
262ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4787967916
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/796282843779690
吉海 直人(よしかい なおと)
1953年長崎県生まれ
同志社女子大学表象文化学部日本語日本文学科特別任用教授
https://www.dwc.doshisha.ac.jp/talk/japanese/detail01/
吉海直人さんの本を読むのは7冊目です。
読書メーター
吉海直人の本棚(登録冊数7冊 刊行年月順)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091377
百人一首の本棚(登録冊数13冊)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091294
和歌の本棚(登録冊数57冊) https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091215
https://note.com/fe1955/n/n586a12682eab
秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第一章 天智天皇
「秋の田の」歌(一番)を読み解く」p.15-24
『日本語学』2017年6月号(第36巻6号)
https://note.com/fe1955/n/n62266db52edf
春すぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふ天の香具山
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第二章 「白妙の」は枕詞か
持統天皇歌(二番)と山辺赤人歌(四番)の違い」
https://note.com/fe1955/n/n0ba90ea3e6c6
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第三章 柿本人丸歌(三番)の
「ひとりかも寝ん」の解釈」
https://note.com/fe1955/n/n8a17ee829b0e
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第四章 柿本人丸歌(三番)の
「長々し」の特殊性」
https://note.com/fe1955/n/n4f431d990faa
かささぎのわたせる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第五章 大伴家持
「かささぎの」歌(六番)を待恋として読む」
https://note.com/fe1955/n/n33fa91b5395e
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第六章 阿倍仲麻呂
「天の原」歌(七番)の再検討 上野[誠]論を起点として」
https://note.com/fe1955/n/n1e1c79d9cfff
立別れいなばの山の峯におふるまつとし聞かば今帰り来む
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第七章 在原行平「立ち別れ」歌(一六番)の新鮮さ」
https://note.com/fe1955/n/ncf668d55a127
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す 2
言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第八章 在原業平歌(一七番)の「ちはやぶる」幻想
清濁をめぐって」p.97-113
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』17
2017年3月
https://note.com/fe1955/n/nd7cbc56bb2ef
ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くぐるとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第九章
在原業平歌(一七番)の
「水くぐる」再考 森田論を受けて」
https://note.com/fe1955/n/n0cd814798890
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十章 素性法師歌(二一番)の「長月の有明の月」再考」
https://note.com/fe1955/n/nf5c13c161a9f
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十一章『百人一首』の「暁」考
壬生忠岑歌(三〇番)を起点にして」
『同志社女子大学大学院文学研究科紀要』13
2013年3月
https://note.com/fe1955/n/na4105dc83b68
久方の光のどけき春の日に静(しづ)心なく花の散るらむ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十二章 紀友則歌(三三番)の
「久方の」は「光」にかかる枕詞か?」
『解釈』683集(第61巻3・4号)
2015年4月
https://note.com/fe1955/n/nb4ff7c92d48c
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十三章 清原元輔歌(四二番)の
「末の松山」再検討 東北の大津波を契機として」p.179-199
『古代文学研究』第二次23 2014年10月
https://note.com/fe1955/n/n3b8dec0bafab
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなを聞こえけれ
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十四章 藤原公任
「滝の音は」歌(五五番)をめぐって 西行歌からの再検討」
https://note.com/fe1955/n/n16dc1cc3dbeb
大江山いく野の道の遠ければふみもまだ見ず天橋立
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十五章 小式部内侍
「大江山」歌(六〇番)の掛詞再考
浅見論を契機として」
p.213-236
『古代文学研究』第二次 28
2019年10月
https://note.com/fe1955/n/nf6a845025e47
夜をこめて鳥の空音にはかるともよに逢坂の関はゆるさじ
吉海直人(1953- )『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十六章 清少納言歌(六二番)の
「夜をこめて」再考 小林論の検証」
『日本文学論究』79 2020年3月
https://note.com/fe1955/n/nfda49d0f8bf2
よもすがら物思ふ頃は明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十七章 俊恵法師歌(八五番)の
「閨のひま」再考」
『解釈』第66巻3・4号 2020年4月
https://note.com/fe1955/n/nd0476d50dc9f
み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十八章 参議雅経歌(九四番)の
「さ夜更けて」の掛詞的用法」p.279-291
『解釈』第61巻9・10号 2015年10月
https://note.com/fe1955/n/n128163d33fd1
風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける
吉海直人(1953- )
『百人一首を読み直す
2 言語遊戯に注目して』
新典社 2020年9月刊
「第十九章 従二位家隆歌(九八番)の
「夏のしるし」に注目して」
『解釈』第63巻9・10号 2017年10月
https://note.com/fe1955/n/nce8e9a0c3675
後鳥羽院(1180.8.6-1239.3.28)
『新日本古典文学大系 11
新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『後鳥羽院 第二版』
筑摩書房 2004.9
『後鳥羽院 第二版』
ちくま学芸文庫 2013.3
https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
式子内親王(1149-1201)
田渕句美子(1957- )
『新古今集 後鳥羽院と定家の時代(角川選書)』
角川学芸出版 2010.12
『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』
KADOKAWA(角川学芸出版) 2014.2
平井啓子(1947- )
『式子内親王(コレクション日本歌人選 010)』
笠間書院 2011.4
馬場あき子(1928.1.28- )
『式子内親王(ちくま学芸文庫)』
筑摩書房 1992.8
https://note.com/fe1955/n/n47955a3b0698
後鳥羽院宮内卿
(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)
『新日本古典文学大系 11
新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1
https://note.com/fe1955/n/n34d98221cddf
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか
永田和宏(1947.5.12- )
『あの胸が岬のように遠かった
河野裕子との青春』
新潮社 2022年3月刊
318ページ