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たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか  永田和宏(1947.5.12- )『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』新潮社 2022年3月刊 318ページ

永田和宏(1947.5.12- )
『あの胸が岬のように遠かった
 河野裕子との青春』
新潮社 2022年3月刊
318ページ

https://www.shinchosha.co.jp/book/332642/?mkz084_220331
永田和宏
「「あの胸」は、いま……」
『波』2022年4月号
「…彼女の日記と私たちが交わした手紙の束を基に、
それに私の記憶を絡めて書き綴った、
二人の出会いから、様々の曲折を経て、
結ばれるまでの物語…」

梯久美子
「二人でいるということの痛みと豊かさ」
『波』2022年5月号
「『歌に私は泣くだらう
 妻・河野裕子 闘病の十年』[2012.7]
https://www.amazon.co.jp/dp/4103326417
https://www.amazon.co.jp/dp/4101263817

は、
晩年の河野の闘病と死を描いた、
胸を引き絞られるような
壮絶な記録だった。では、
本書がさわやかな青春記か
というとそうではない。
当時、永田と河野がそれぞれに
自死を試みていたことが本書で明かされている。
互いにそれを告げることはなく、
河野は生前、永田の自殺未遂を知らないままだったという。」

https://www.amazon.co.jp/dp/4103326425
「熱く、性急で、誠実でありたくて傷つけあった――。
「二人の人を愛してしまへり」――没後十年、歌人の妻が遺した日記と手紙300通から夫が辿り直す、命がけの愛の物語。
「知らぬまま逝ってしまった きみを捨て死なうとしたこと死にそこねたこと」
「わたくしはあなたにふさはしかつたのか そのために書き、書き継ぎてなほ」――。
ロングセラー『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年』、
最期の日まで愛を詠み続けた二人の物語は、この青春の日々から始まった。
反響を呼び、「書籍化はいつ」と問い合わせが相次いだ長期連載、ついに発売!
連載名「あなたと出会って、それから……

目次
はじめに
湖に降る雪ふりながら消ゆ
風のうわさに母の来ること
消したき言葉は消せざる言葉
手を触るることあらざりし口惜しさの
わが十代は駆けて去りゆく
青春の証が欲しい
さびしきことは言わずわかれき
二人のひとを愛してしまへり
あの胸が岬のように遠かった
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて
わが頬を打ちたるのちに
わが愛の栖といえば
はろばろと美し古典力学
泣くものか いまあざみさえ脱走を
おほよその君の範囲を知りしこと
「夏がおわる。夏がおわる。」と
寡黙のひとりをひそかに憎む
今しばしわれを娶らずにゐよ
附記
おわりに」」

糸島市図書館予約4人
2022年4月24日読了

『波』
2020年1月号~2021年6月号連載
「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春」

河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12)
『森のやうに獣のやうに』
青磁社 1972.5 第一歌集

永田和宏さん(1947.5.12- )
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
『メビウスの地平』
茱萸叢書 1975.12 第一歌集

京都女子大学文学部国文科一年生と
京都大学理学部一年生の出会い~
の手紙と日記と短歌による回想を、
『波』連載で六回分読んでいました。
私は1955年1月生まれなので、
十歳ぐらい年下ですけど、
自分が二十歳だった頃のあれこれを
思い出してしまいながら、
未読分を一気に読了。
♪若かったあの頃… 何も怖く…

「第7回
 さびしきことは言わずわかれき」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4339122229495716
https://bookmeter.com/reviews/92297113

「第8回
 二人の人を愛してしまへり」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4410729212335017
https://bookmeter.com/reviews/92625816

「第9回
 あの胸が岬のように遠かった」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4614817785259491
https://bookmeter.com/reviews/93576749

「第10回
 きみに逢う以前のぼくに遭いたくて」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4654192624655340
https://bookmeter.com/reviews/93775446

「第11回
 わが頬を打ちたるのちに」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4876783185729615
https://bookmeter.com/reviews/94931657

「第12回
 わが愛の栖(すみか)といえば」
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/5483179468423314
https://bookmeter.com/reviews/98161289


『波』
2020年7月号
新潮社 2020年6月27日発売
128ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B089M1HWGD
https://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20200627/

『波』2020年6月号で、
1947年5月12日滋賀県高島市生まれの
歌人・細胞生物学者な
永田和宏さん(と
河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12))の
短歌を初めて読みました。

「2010年に河野裕子が亡くなったあと、実家の押し入れから
手紙のぎっしり詰まった箱が出てきた。驚いた。
私から河野に宛てたもの、
河野から私に来たもの、あわせて三百通は優に超えているだろう。
出会った最初のものから、結婚するまでの五年分である。
よく残っていたものだ。
河野がひそかに保管しておいたものなのだが、
驚いたのは、私が河野に書いたものだけではなく、
河野から私に来たものも、
(たぶん)すべて残っていたことだった。
すっかり忘れてしまっていたが、
私自身もそれらをすべて保管していたのだった。
結婚した後に、河野が一緒にして蔵っておいたのだろう。
生前にはついにそんな話をしたことがなかったのだが……。」
p.97

「その頃[1967年12月 京都大学理学部一年生]、
私はこんな歌を作っている。
甘く、ナルシスティックな歌であるが、
明らかに彼女[京都女子大学文学部国文科一年生]を
特定の少女として、恋人として意識しつつ作った
初めての歌であった。

雪割草咲く野に少女を攫(さら)いたく夕暮るるまで風を集めぬ
草に切れし指を吸いつつ帰り来れば叫びたきまでわが身は浄し
海蛇座南にながきゆうぐれをさびしきことは言わずわかれき」
p.103

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4410729212335017
『波』
2020年8月号
新潮社 2020年7月28日発売
128ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B08CGBTYTS
https://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20200728/
永田和宏
「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春 第8回
 二人の人を愛してしまへり」p.42-50

河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12) 
当時、京都女子大学文学部国文科一年生
永田和宏さん(1947.5.12- )
京都大学理学部一年生

「高安国世先生[1913-1984]の講演会のあと、
河野裕子が倒れ、はじめて抱きかかえるように
車に乗せ、送って行ったのが[1967年]12月11日であった。

[河野裕子の]日記 1967年12月16日
陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人の人を愛してしまへり
いつの日かはかなきことと思ひ出でむ肩に顔よせ風よけしことも
見あげつつ初めてふれし君が顎少しひげのびざらざらとせり
身体大事にしろよと振り向きざまに言ひすぐに雑踏に呑まれゆきたり

偶然のなりゆきとはいえ、
私も彼女も初めて異性に触れたのであった。
意識を失いかけている彼女を何とか送り届けなければと、
私のほうはまったく余裕がなかったのだが、
彼女のほうは、もうろうとしつつも、
それがこんな歌になっていたことに、改めて驚く。
一首目、二首目は、河野の第一家集
『森のやうに獣のやうに』
(青磁社[1972])
に納められている。」
p.42

「[日記 1968年1月7日]
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか
灼きつくす抱擁の時もナイフ持て君が心臓さぐりゐしわれ

一首目は『森のやうに獣のやうに』に収録され、
彼女の代表歌の一つともなった歌である。
河野の死後、彼女と私の相聞歌とエッセイを集めた
『たとへば君 四十年の恋歌』
(文藝春秋[2011.7]、後に文春文庫[2014.1])
https://www.amazon.co.jp/dp/4163742409
https://www.amazon.co.jp/dp/4167900173
のタイトルにもなっているが、
いつ、どのような状況で作られたのかは、
生前、語ることがなかったし、私を含め、
河野裕子論を書いた論者たちの誰も知らないことであった。
今回、この連載をするにあたって、彼女の日記を読み、
はじめて発見したことになり、私自身少なからず驚いている。」
p.50

私は1955年1月生まれなので、
十歳ぐらい年下ですけど、
自分が二十歳だった頃のあれこれを思い出してしまいました。

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4614817785259491
『波』
2020年9月号
新潮社 2020年8月28日発売
128ページ
永田和宏
「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春 第9回
 あの胸が岬のように遠かった」p.30-38

河野裕子さん
(1946.7.24-2010.8.12)
当時、京都女子大学文学部国文科一年生
永田和宏さん
(1947.5.12- )
京都大学理学部一年生

「[河野裕子の]日記 1967年12月16日
陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人の人を愛してしまへり」
[8月号 p.42]
「もう一人の青年と私との葛藤に耐えきれなくなって、
狂ったように私に体当たりしてきた[1968年]1月5日以降、
私たちは急速に接近することになっていった。
河野の日記によると、このころは
三日に一度くらい逢っていたようだ。」p.31

「「ゆたゆたと血のあふれてる冥い海ね」くちづけのあと母胎のこと語れり
河野裕子『森のやうに獣のやうに』
[青磁社 1972.5 第一歌集]」
p.34

永田和宏・永田淳・永田紅 編
『あなた 河野裕子歌集』
岩波書店 2016.8
336ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4000220942
https://www.iwanami.co.jp/files/tachiyomi/pdfs/0220940.pdf

「あなた・海・くちづけ・海ね うつくしきことばに逢えり夜の踊り場
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
永田和宏
『メビウスの地平』
[茱萸叢書 1975.12 第一歌集]
自らの少年性の口惜しさを嘆く歌である。
なんと初(うぶ)な二人であったかと、
こうして書きつつ、わが子を励まし、
応援するような気分にもなってくる。」
p.37

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4654192624655340
『波』
2020年10月号
新潮社 2020年9月28日発売
128ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B08HGZK4L8
https://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20200928/

永田和宏
「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春 第10回
 きみに逢う以前のぼくに遭いたくて」p.82-90

河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12)
当時、京都女子大学文学部国文科学生
永田和宏さん(1947.5.12- )
京都大学理学部学生

「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり
永田和宏
『メビウスの地平』
[茱萸叢書 1975.12 第一歌集]

いつ、この歌を作ったのか、はっきりした記憶はない。
「きみ」という存在に出会うことになり、
今はとても倖せである。しかし、
そんな喜びの時間のなかに、時おり「きみに逢う以前のぼく」、
その時間を懐かしく思うことがある。
暗く、デスパレットであった、あの頃の自分。
そんな自分にもう一度逢いたくて、
「海へのバス」に揺られている。
この海がどこだったのか、どうもはっきりとはしない。
二人の男性のあいだを揺れ動く河野に、
翻弄されていた時期の歌でもある。」p.86

「あなたが いつか話して呉れるであろうことを
 話してくれた時、
今まで不可解であったことの辻褄も合い、
判らなかった 歌の意味も やっと判りました
(手紙 河野から永田 1968年9月11日」

彼女の日記には、
「おれを産んだひとは 死んだ 淡々としていて 寂しかった
 信じられなかった 泣けて仕方がなかった」
と書かれ、
緑月(りょくづき)の昧爽(よあけ)にわれを産みしかば母の虹彩(イリス)に揺るる若葉ら 永田和宏
という、出たばかりの
『幻想派』2号の私の作品
(のちに歌集『メビウスの地平』所収)
を書き写した後、三十五首の歌を作り、書き残している。

膝の上に君は眠りぬその母に抱かれし記憶持たざるひとよ 河野裕子

その日を境にして、彼女はすべてを話してもいい存在、
私が感じ、思い、考えるすべてを話したい存在になったのだと
言ってもいいだろう。そしてそれは、
彼女が64歳で亡くなるまで、ずっと続いていたのだと、
亡くなって十年になるいましみじみと思うのである。」p.88

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/4876783185729615
『波』
2020年11月号
新潮社 2020年10月27日発売
128ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B08KHT9DBD
https://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20201027/

永田和宏「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春 第11回
 わが頬を打ちたるのちに」p.76-84

永田和宏さん(1947.5.12- )
当時、京都大学理学部学生
河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12)
京都女子大学文学部国文科学生

1969年4月、角川短歌賞受賞。
「角川短歌賞は、歌壇の芥川賞とも言われる賞であり、
新人の登竜門でもある。五十首をまとめて応募するが、
その年の応募数は398編。
近藤芳美、宮柊二、斎藤史、玉城徹、塚本邦雄、山本友一
の六人が選者であった。
初めての応募で賞を射止め、
しかも初めての戦後生まれ、
最年少受賞である。」p.83

「わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり
河野裕子
『森のやうに獣のやうに』
[青磁社 1972.5 第一歌集]

河野の初期の代表作のひとつである。
あの時[1968年6月25日]の歌であったとは
ほとんど意識していなかった。
なんという迂闊なことだったろう。」p.79

「「この歌はいい。君が今までに作った歌の中で一番いい」
と恋人がほめてくれた。
そんな形で自分の歌をほめられたことは一度もなかった。
うれしかった。
よし、歌を作ろうと思った。
作って作って作って、何十首も、何百首も作り続けるのだ、と思った。

夕闇の桜花の記憶と重なりて初めて聴きし日の君が血の音
という桜の歌だった。
(河野裕子「京都新聞」1990年3月18日)

「夕闇の桜花の記憶」、
それは前年[1968年]の四月、京都会館の裏庭で、
彼女が初めて火傷の傷跡のことを私に打ち明けた、
その夕闇の庭に咲いていた桜なのだと言う。
私が河野の一首を褒めたことが
角川賞へ応募する一歩を踏み出させたことになった。」p.84

「ねぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんに明るい街をゆくとき
われを呼ぶうら若きこゑよのどぼとけ桃の核ほどひかりてゐたり
[角川短歌賞応募作五十首]」p.82

https://bookmeter.com/reviews/98161289
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/5483179468423314
『波』
2020年12月号
新潮社 2020年11月27日発売
128ページ

永田和宏
「あなたと出会って、それから……
 河野裕子との青春 第12回
 わが愛の栖(すみか)といえば」p.36-44

永田和宏さん(1947.5.12- )
当時、京都大学理学部学生
河野裕子さん(1946.7.24-2010.8.12)
京都女子大学文学部国文科学生

「この連載を始めたのは、河野裕子の日記を発見し、
そのあまりの一途さをなんとか残したいと
思ったことによるとは、以前にも書いたはずである。
しかし、こうして書きながら、ごく最近発見したのは、
なんと私自身の日記だったのである。
河野の日記に隠れるようにして、仕舞い込まれていた。

これには驚愕した。
日記をつけていたなどということさえ、
完全に忘れてしまっていた。
私のものは薄い二冊の大学ノートで、
横書き。昭和43年と翌年の二年分である。
河野の日記と一緒に出てきたということは、
生前の河野が読んだ可能性もあるのだろうか。
冷や汗ものである。
河野の日記を書き写すのと同じような気分で、
自分の若い、幼い文章を公開するのには耐えられないが、
河野の日記だけを読んでいたのではわからなかった部分が、
私の日記を併せて読むことでわかったこともあり、
少しだけ紹介をしておきたい。」p.40

「わが愛の栖といえばかたき胸に耳あてており いま海進期
永田和宏
『メビウスの地平』
[茱萸叢書 1975.12 第一歌集]
『幻想派』4号 1969年4月

夕闇の桜花の記憶と重なりて初めて聴きし日の君が血の音
河野裕子
『森のやうに獣のやうに』
[青磁社 1972.5 第一歌集]
『短歌』角川書店 1969年6月

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
永田和宏『メビウスの地平』

ブラウスの中まで明かるき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり
河野裕子『森のやうに獣のやうに』」p.42-43

この連載を、
2020年6月号から読み続けていましたが、
感想(メモ)には書き写せない部分が
たくさん! ありました。
♪若かったあの頃… 何も怖く…

読書メーター
永田和宏の本棚(登録冊数7冊)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11610900
波の本棚(登録冊数10冊)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11607831

https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
式子内親王(1149-1201))
馬場あき子(1928.1.28- )
『式子内親王(ちくま学芸文庫)』
筑摩書房 1992.8
初版 紀伊國屋新書 1969
平井啓子(1947- )
『式子内親王
(コレクション日本歌人選 010)』
笠間書院 2011.4
田渕句美子(1957- )
『異端の皇女と女房歌人
 式子内親王たちの新古今集』
KADOKAWA(角川学芸出版) 2014.2

https://note.com/fe1955/n/nce8e9a0c3675
後鳥羽院(1180.8.6-1239.3.28)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1

https://note.com/fe1955/n/n3c66be4eafe5
丸谷才一
『日本詩人選 10
 後鳥羽院』
筑摩書房 1973.6

https://note.com/fe1955/n/n56fdad7f55bb  
https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『後鳥羽院 第二版』筑摩書房 2004.9
丸谷才一『後鳥羽院 第二版』筑摩書房 2004.9
丸谷才一『後鳥羽院 第二版』ちくま学芸文庫 2013.3

https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
田渕句美子(1957- )
『新古今集
 後鳥羽院と定家の時代(角川選書)』
角川学芸出版 2010.12

https://note.com/fe1955/n/n47955a3b0698
宮内卿(生没年不詳)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1

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