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鈴木彰(1969- )・樋口州男(1945- )編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社 2009年3月刊 262ページ

鈴木彰(1969- )・樋口州男(1945- )編
『後鳥羽院のすべて』
新人物往来社 2009年3月刊
262ページ
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784404035752
https://www.amazon.co.jp/dp/4404035756

「「新古今和歌集」を編纂した後鳥羽院は承久の乱で敗れ、
配流地・隠岐で生涯を閉じた。享年60。

目次
後鳥羽院とその時代
院政開始
承久の乱
京方武士群像
隠岐の後鳥羽院
後鳥羽院と公家衆
後鳥羽院をとりまく女性たち
後鳥羽院と兄弟・子女―皇統対立のなかの後鳥羽院
後鳥羽院の歌壇
後鳥羽院と熊野御幸
後鳥羽院の怨霊―利用される怨霊
後鳥羽院像の展開―刀剣文化との関わりから
後鳥羽院関係史蹟事典
後鳥羽院関係人物事典
後鳥羽院関係年譜
後鳥羽院参考文献目録」

2009年8月18日読了
福岡市総合図書館蔵書

全16章からなる「後鳥羽院早わかり」。
各章が短いので読みやすいです。

一番面白かったのは、
巻末の「後鳥羽院参考文献目録」で、
テキスト・注釈書と研究書と雑誌論文を
リストにしただけのものですが、
13ページもあって、あれも読みたい、
これも読んでみたいと思う文献が
多数紹介されています。
この文献目録を眺めているだけで、
しばらく楽しめました。

「これ[『新古今和歌集』]以前の勅撰集では、
選ばせる側はただ命を下すのみで、
編纂そのものは撰者の側が担当し、
下命者(天皇・上皇など)に奏覧(お目にかける)し、
それで問題なければ下命者の手許に嘉納
(収納され、手許に留め置かれる)
されて一連の撰集過程は終了した。

撰者は勅撰集編纂に際して、
自らが撰者の器たりうることを
その撰歌・配列により対外的に示し、
それによって自らの存在を
同時代および後代に残してゆくこととなる。
ゆえに歌人たちの多くが撰者となることを願い、
それを無上の喜びとし、
撰者となったあかつきには、
その行為に全力を尽くしたのだ。

ところがこの『新古今和歌集』に関しては、
いささか状況が異なっていた。
後鳥羽院は、積極的に編纂そのものに関与した。
この勅撰集に深い愛情をそそぎ、
撰集の命を下すのみならず、
自らの意のままに納得がいくまで
それに手を入れ続けた。

撰者たちは実務を担当するのが主で、
撰歌や配列に関する最終的な決定は、
ほぼ後鳥羽院の判断によるものであるからには、
実質的な撰者は、勅撰集撰進の命を下した
後鳥羽院そのものであると言うことが出来る。
『新古今和歌集』が
後鳥羽院の「親撰」と呼ばれるゆえんである。

後鳥羽院が、この国における並ぶ者のない帝王である以上、
何人たりともそれに異を唱えることは出来なかっただろう。
またそれを許すような帝王ではなかった。
その強さが、日本文学史上、稀に見る特徴と魅力を示し、
後代にも多大な影響を及ぼした『新古今和歌集』
というものを現出せしめる原動力となった
ことは疑いようもない事実である。

しかしながら、こういった編纂過程は、
撰者たちにとっては徒労の思いを味わさせた。
とりわけその思いを強くしたのが藤原定家で、
撰者となったことへの喜びと期待が大きかった分だけ、
その失望感も強かった。
その思いは定家の日記『明月記』に
しばしば吐露されている。
度重なる、尽きることのない切継改訂の命令は、
定家の自尊心を傷つけていった。

後鳥羽院によって歌人としての才を認められ、
活躍の場を与えられた定家ではあったが、
次第に後鳥羽院に対して不満を抱き、
批判的になり、最終的には
互いに離反するようになっていった。」
p.141
石澤一志(1968- )
「後鳥羽院の歌壇 『新古今和歌集』への道」

「後鳥羽院の歌壇が成立するまでには、
摂関家・九条家の当主である、[藤原] 兼実(かねざね)や
[藤原] 良経(よしつね)が領導した九条家歌壇、
仁和寺の御室(おむろ)・守覚法親王(しゅかくほっしんのう)を
中心とした文化圏の中に存した仁和寺歌壇、
そして源通親(みちちか)を中心とした歌壇などの活動が知られる。
そこにさまざまな歌人たちが集い、和歌を詠み合い、
互いにその優劣を競うなどの和歌活動を繰り広げていた。

当時の和歌の世界には二つの歌道師範家が存在し、
両者は互いに拮抗していた。
一方は「六条藤家(とうけ)」と呼ばれ、
白河院の乳母子(めのとご)として権勢を振った
六条修理大夫(すりのだいぶ)[藤原] 顕季(あきすえ)を始祖とし、
『詞花和歌集』の撰者である藤原顕輔(あきすけ)の子息、
顕昭(けんしょう)や季経(すえつね)などを
中心としたグループであった。

もう一方は、「御子左家(みこひだりけ)」と呼ばれ、
藤原道長の男・長家を始祖として、
『千載和歌集』の撰者である藤原俊成とその子息である定家や、
縁者・門弟たちを中心としていた。

両者は互いに交流しあってはいたものの、
和歌に対する姿勢には明らかな違いがあり、
それが時にぶつかりあうこともあった。
特にそれがはっきりと現れたのが、
建久四年(1193)、左大将であった九条良経の家で催された
『左大将家百首歌合』、いわゆる『六百番歌合』である。

新しい歌題を設定し、それを互いの和歌観に基づいて詠んだ作品の
優劣をめぐって、六条藤家と御子左家の歌人が入り交じり、
左方と右方とに分かれて、互いの詠歌に対し、
毀誉褒貶(きよほうへん)を含む、侃々諤々(かんかんがくがく)の
激しいやりとりが繰り広げられた。

最終的にその勝負を判定した判者は、
御子左家の藤原俊成が務めたが、その判定を不服とした
六条藤家の顕昭が、陳状(反論)を奉るなど、
熱の入ったやりとりが繰り広げられた。

後鳥羽院がこの催しを知っていたかどうか、
またそれに興味を持ったかどうかなどは定かではないが、
そこに参加していた歌人たちの内、特に
九条家と御子左家につらなる人々が、その後に
『新古今和歌集』の成立と、その歌風形成に
大きな役割を果たすことになる。」
p.135
石澤一志「後鳥羽院の歌壇の成立」

後鳥羽院について、すでに知っていたことと
知らなかったことが、次々に出てきて、
楽しく過ごせる本です。

読書メーター
後鳥羽院の本棚
登録冊数17冊
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091275

和歌の本棚
登録冊数58冊
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091215

https://note.com/fe1955/n/nce8e9a0c3675
後鳥羽院(1180.8.6-1239.3.28)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1
丸谷才一
『後鳥羽院 第二版』
筑摩書房 2004.9
『後鳥羽院 第二版』
ちくま学芸文庫 2013.3


https://note.com/fe1955/n/n3c66be4eafe5
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『日本詩人選 10 後鳥羽院』筑摩書房 1973.6


https://note.com/fe1955/n/n56fdad7f55bb
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『樹液そして果実』集英社 2011.7
『後鳥羽院 第二版』筑摩書房 2004.9 
『恋と女の日本文学』講談社 1996.8


https://note.com/fe1955/n/na3ae02ec7a01
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
「昭和が発見したもの」
『一千年目の源氏物語(シリーズ古典再生)』伊井春樹編  思文閣出版 2008.6 
「むらさきの色こき時」
『樹液そして果実』集英社  2011.7


https://note.com/fe1955/n/n49dc2860af81
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『梨のつぶて 文芸評論集』晶文社 1966.10

https://note.com/fe1955/n/n68287f38f7bb
五味文彦(1946.1.30- )
『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか
 角川選書』
角川学芸出版 2012年5月刊
368ページ

https://note.com/fe1955/n/n8dfcbf3d6859
 田渕句美子(1957- )
『新古今集
 後鳥羽院と定家の時代
 角川選書』
角川学芸出版 2010.12
『異端の皇女と女房歌人
 式子内親王たちの新古今集』
KADOKAWA(角川学芸出版) 2014.2
平井啓子(1947- )
『式子内親王
コレクション日本歌人選 010』
笠間書院 2011.4
場あき子(1928.1.28- )
『式子内親王
ちくま学芸文庫』筑摩書房 1992.8

https://note.com/fe1955/n/n47955a3b0698  
後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう  生没年不詳)
『新日本古典文学大系 11
 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1

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