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丸谷才一『梨のつぶて 文芸評論集』晶文社 1966年10月刊


丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『梨のつぶて 文芸評論集』晶文社 1966年10月刊
https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAAGG4

池澤夏樹「解説 ジョイス読み」
「処女作にすべてがある、ということが丸谷才一の最初の評論集『梨のつぶて』[1966.10]についても言える。この一冊には彼の将来の批評活動が何らかの形でみな入っている。…… 今ぼくの手元にある初版から六年後の二刷の帯には「現代文学に関する少数意見」と書いてある(初版の帯は「前衛的であることは古典主義であることだ」)。」p.450
『丸谷才一全集 第十一巻 ジョイスと海外文学』
文藝春秋  2014年7月刊 第十回配本


『笹まくら』1966.7(長篇第二作)
『梨のつぶて』1966.10(最初の評論集)
「出発点の二冊…
この二冊の本から丸谷才一が始まる」p.7
湯川豊『丸谷才一を読む(朝日選書)』朝日新聞出版 2016年6月刊

丸谷才一さん(1925.8.27-2012.10.13)の最初の評論集です。

1978年2月28日5刷の奥付ページ余白に、1978.2.25 明大生田生協で購入、とメモしてあり、明治大学文学部5年生だった頃、明大生田校舎の図書館でバイトしていて、卒業する直前にこの本を買ったことを憶えています。
初めて買って読んだ丸谷才一の本でした。

丸谷才一の最初の評論集は、弘文堂の編集者だった
小野二郎(1929.8.18-1982.4.26)
https://ja.wikipedia.org/wiki/小野二郎
の企画で、 現代芸術論叢書からの刊行が予告されていましたが、弘文堂の事情?で、出版されませんでした。

中村勝哉と小野二郎が晶文社を創業してから数年たって、ようやくこの企画は実現。

小野二郎は私の恩師(明大文学部クラス担任・卒論指導担当)だったので、彼の葬儀(1982年)で丸谷氏の姿を初めて見た時、私は、何度も読み返した本書の装丁(黒いカバー)を思い出していたことを、今でも記憶しています。

「彼[正徹 1381-1459]の方法をこの上なく鮮やかに宣言しているのは、『正徹物語』のなかの従来あまり注目されていないらしい一節である。

彼は、古歌の解釈や歌会の作法、歌人の逸話や幼少のころの思い出の合間に、じつに平然と、恐しい言葉を書きつける。
 
「よしの山はいづくぞと、人たづね侍らば、ただ花にはよし野、もみじにはたつたをよむことと思ひ侍りてよむばかりにて、伊勢やらん、日向やらんしらずと答ふべきなり。いづれの国と才覚はおぼえて用なし、おぼえんとせねども、おのづからおぼえらるれば、よしのは山としるなり。」

吉野を詠んだ古歌を正確に読みさえすれば、吉野が山であることは自然に判るし、またそれだけで十分だと彼は述べている。
……
ほとんど激越とさえ言って差し支えないほどの、伝統尊重の態度である。

彼にとっては吉野山は、大和の国にも伊勢にも日向にもなく、『古今集』から『源氏物語』と [藤原] 定家を経て自分じしんへと到る伝統のなかだけにあった。

西行が詠み定家が選んだ吉野の歌の数々がある以上、吉野山はどこにもなくても一向かまわないと彼は考えていたのである。」
p.115「吉野山はいづくぞ」
『展望』1965年3月号

1978年3月頃、何度も読んで、
「吉野山はいづくぞ、人たづね侍らば…」
と、暗誦してたなぁ。

「深夜、仕事が一区切りつくと、ぼくはゆっくりとパイプを掃除する。台所からウィスキーとチーズを持って来て、ちびりちびりとなめながらパイプをくゆらす。そんなとき読む本は何だろう。

あるいは英訳のスペイン詩集である。あるいはケルト族の歴史である。あるいはシドニー・スミスの見事なパンフレットである、つまり、できるだけ当座の用に立たない本を引張り出して拾い読みするのだが、近頃はそんな時刻、鬼貫(おにつら 1661-1738)の『独言(ひとりごと)』を前に置いて、みょうにぼんやりしていることが多くなったような気がする。

芭蕉でも[横井]也有(やゆう 1702-1783)でもなく、なぜ鬼貫なのか。ここには『奥の細道』の高さもなく、『うづら衣』の幅の広い才能も見られないのに。あの切迫した精神のリズムも、あの、自由な連想がもたらす知的な笑いも存在しないのに。

たぶん、鬼貫がもっとも純粋な日本語をあやつっているからだろうと思う。芭蕉は杜甫の弟子だったし、也有は和歌の窮屈さを熱心に嘲った。そして鬼貫はひたすら和歌に憧れながら、やまとことばと俗語とを巧みにあわせ用いて、微妙で優雅な俳句を作った。

さらに、『独言』の後半、『枕草子』を模した部分においては、漢語や漢文脈を徹底的にしりぞけることによって、他に類を見ない、異様なほど透明な美しさを手に入れた。

日本語による、このような鮮やかな勝利はぼくを喜ばす。と言うよりむしろ、たった今まで、漢語とヨーロッパ語を多く用いた耳ざわりな文章を書きつづけて来たぼくにとって、鬼貫がさしだしてくれる匂やかな文体は、煙草よりも酒よりも、大きな慰めとなる。それは自分の書いた文章によって痛めつけられたぼくの神経を、優しくいたわってくれる。

花について、氷について、彼は述べる。ぼくは何度も読んだことのあるそれらの文章を、まるで持薬のようにして服用する。

「柳は花よりもなを風情に花あり。水にひかれ風にしたがひて、しかも音もなく、夏は笠なふして休らふ人を覆ひ、秋は一葉の水にうかみて風にあゆみ、冬はしぐれにおもしろく、雪にながめ深し。 桃の花は桜よりよく肥てにこやかなり。梨の花は、ひそかに面白し。」」
p.119「鬼貫」
『ユリイカ』1959年1月号

著者は1925年生まれですから、この文章は33歳ぐらいの(たぶん国学院大学助教授だった)頃に書かれたことになります。
私が初めてこの本を読んだ時は23歳でした。

最初に出てきた「シドニー・スミスの見事なパンフレット」とは如何なるものか、残念ながら私は知りません。ググッてみても軍人とかテニス選手とか建築家が出てきて不明でした。

上島鬼貫の名前は44年前にこの文章で知りましたけど、俳人・上島鬼貫の作品を読んだことは一度もありません。『奥の細道』も『うづら衣』も同様です。

鮎川哲也のミステリ『黒いトランク』などに登場する鬼貫警部の名前は、上島鬼貫からとったそうです。

「T.S.エリオットの最も有名なエセイは、言うまでもなく、『伝統と個人的な才能』だろう。しかしこの美しい作品は、今日、人々の誤解を光輪(ヘイロー)としてぼくたちの前に立っているような感じがする。

人々はこれを高級な文学原論として、あるいは、文学史方法論として読む。しかしエリオットが書いたのは、実はアヴァンギャルド文学の擁護と顕揚の文章であったのだ。もちろん、ここにはピランデルロもジョイスも、ブルトンもカフカも、姿を見せない。すくなくとも登場人物表には、彼らの名は記されていない。出てくるのはシェイクスピアであり、ワーズワースであり、ダンテであり、アイスキュロスである。

しかしエリオットは、そのような複雑な仕掛けで新しい文学を語っただけなのである。論争家という面はおさえられている。しかしそのことが、実は最もよく、この文章のアクチュアルな性格を語っているとぼくは思う。

それは、トリスタン・ツァラがダダイスト運動を起し、カフカが『変身』を書いた年の翌年に書かれた。ピランデルロの『考えろ、ジャコミーノ』やマックス・ジャコブの『骸子筒』の年に書かれた。

それにもかかわらずこのように慎重なのは、極度に保守的な、1917年のイギリス文学を説得するために書かれたエセイだから、という理由にもとづくだろう。作戦は成功した。エリオットは実に見事に、「新奇さ(ノヴェルティ)は繰り返しよりも優れている」ということをイギリス文学に信じさせたのである。」
p.232「西の国の伊達男たち」
『三田文学』1959年4・5月合併号

このエッセイの標題は、アイルランドの劇作家 ジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge,1871-1909)の作品 The Playboy of the Western World (1907) から取ったようですが、私はシングを読んだことがないので、その戯曲の内容との関連は分かりません。

T.S.エリオットの『伝統と個人的な才能』は、学生の頃、岩波文庫と中央公論社から刊行されていた翻訳で読みましたけど、ダンテもアイスキュロスもブルトンもカフカもトリスタン・ツァラもピランデルロもマックス・ジャコブも、読んでいません。

本書を初めて読んだ四十年以上前から今に至るまで、読みたい本・読んでみたい作家はたくさんあるのに、実際に読めるのは僅かです。

丸谷才一の著書を初めて読んだのはいつだったのだろう?

今、思い出せるのは
『深夜の散歩 ミステリの愉しみ』早川書房 1963.8
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/1467364163338218
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/3243124262428857
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/3090276151047003
です。高校生~大学生の頃(1970-1978)、東京都立立川図書館で借りて読みました。

初めて買って読んだのが、この『梨のつぶて』でした。
そして翌年(1979)、
『後鳥羽院 日本詩人選 10』筑摩書房 1973.6
 https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid0bYHEw8KtVbfBRN7PtesWDhLeU4zBLMdGQ7BpYDGKpgMMRm1evPCZ9NYvEixDZEiNl
を読みました。

以下、初出一覧です。

未来の日本語のために 『中央公論』1964年3月号掲載
津田左右吉に逆らって 1965年1月執筆 未発表
日本文学のなかの世界文学 『展望』1966年1月号
舟のかよひ路 『文芸読本 源氏物語』河出書房新社 1962年9月
家隆伝説 『風景』1965年10月号
吉野山はいづくぞ 『展望』1965年3月号
鬼貫『ユリイカ』1959年1月号
空想化と小説[正宗白鳥論]『文芸』1963年1月号
菊池寛の亡霊が『秩序』第9号 1961年7月
梶井基次郎についての覚え書『近代文学鑑賞講座』角川書店 1959年12月
小説とユーモア 『東京新聞』1960年9月12・13・15日号
「嵐が丘」とその付近『世界名作全集』第8巻 筑摩書房 1960年10月
サロメの三つの顔『フィルハーモニー』1965年1月号
ブラウン神父の周辺『世界推理名作選』中央公論社 1962年10月
若いダイダロスの悩み『ジョイス研究』英宝社 1955年7月
西の国の伊達男たち『三田文学』1959年4-5月合併号
エンターテインメントとは何か『近代文学』1953年3月号
グレアム・グリーンの文体『英文『英文法研究』1959年11月号
父のいない家族『英語青年』1958年2月号

「丸谷才一氏とは、1966年、氏の第一評論集『梨のつぶて』の編集者として、御茶ノ水の山の上ホテルで一度か二度、ちょっと面倒な打ち合わせをしたことがある。編集者といっても、じっさいの企画と編集は小野二郎がやり、私は最後の本づくりを手伝っただけ。したがって小野さんをあいだにはさんでのつながり。」
p.120「私の時代が遠ざかる」
津野海太郎『百歳までの読書術』本の雑誌社 2015.7
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/883438915064082 

読書メーター 丸谷才一の本棚(登録冊数173冊 刊行年月順)
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091201

エクセルファイル "発表年月日順・丸谷才一作品目録.xls" 現在2990行
目次・初出・書評対象書を、単行本80数冊分他、発表年月日順に並べ変えて編成中。



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