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第六十八話 ベニクラゲ/ゑしま観音

もくじ

第七章「龍宮 その二 ラムネ色の夏」は、夏を構成するあらゆる要素(花火、かき氷、田舎の民宿、天の川、熱帯魚など)が詰まっています。ニッポンの夏を思う存分味わってみたい人に、ぜひお勧めです。

◇◇◇

 と、そのとき、

「もうそろそろだな」

 久寿彦の声がした。トンネルを抜けて、陽射しと山の緑が復活した所。

 この先に長いトンネルが四本続く箇所がある。三本目のトンネルを抜けた所に、ゑしまが磯の入り口があるという。

 五、六分走って、その入り口が見えてきた。

「あそこだ」

 道端の藪に埋もれるように、けばけばしい看板が立っていた。紫色のアクリル板が一部欠けているものの、「ベニクラゲ」 というピンクの文字は読み取れる。その真上、黄色い 「モータリ」 と 「ホテル」 の間に入る文字は、「スト」 だろう。

「……単なる連れ込み宿じゃない」

 美緒が鼻白んで言った。なかなか味わい深いワードだ。

 矢印に従ってその道に入ると、いきなり急な下り坂が待ち受けていた。両側は雑草が伸び放題。道幅が狭く、洗車機に突っ込まれたみたいに草を掻き分け車は進む。路面を這うクズの蔓を踏みつけるたびに、タイヤがボコボコ音を立てる。CDの音が飛んで、久寿彦はやっと音楽を止めた。

「ちょっとぉー、こんな道入って大丈夫なの」

 心配げに外を見つめる美汐が言うのもわかる。草むらの裏には緑濃い山斜面が迫り、この先に海があるとはとても思えない。イノシシやサルが出てきそうな雰囲気だ。

 けれど、真一の胸はむしろ高鳴った。人の気配がまったく感じられない場所だからこそ、手つかずの自然が残されているはず。久寿彦はゑしまが磯を 「秘密の入り江」、と言っていたが、その言葉がリアリティーを帯びてくる。

 坂が終わり、曲がりくねった道を進んで行くと、美緒の言う 「連れ込み宿」 が見えてきた。目隠しの塀の上に急勾配の赤い屋根が何棟分か覗く。塀の内側には大きな建物があるのではなく、ロッジ風のプレハブ小屋が散らばっているだけ。

「こりゃまた、いわくありげな……」

 真一はしげしげと外の景色を見渡した。ホテルはとっくに廃業している。白い塀はカビで黒ずみ、いたる所に落書きがある。昭和的ないかつい四字熟語 (?) から平成のスプレーアートまで、歴史が感じられる塀だ。

「だろ? 絶対何かあったんだぜ」
「痴情のもつれ、みたいな」
「そうそう。昼ドラみたいなやつな」

 車が出入り口のアーチの前に差し掛かった。イカゲソみたいな黄色い強化ビニールの暖簾は、すり切れてもはや目隠しの役目を果たしていない。奥に見える駐車場のコンクリートも穴だらけで、背の高い草があちこち顔を出す。ロッジ風のプレハブ小屋も同様に劣化が目立ち、木下闇が濃い木々に呑まれかけて、白昼でもおどろおどろしさ満点だ。

「今晩、肝試しに来てみるか?」
「やめてくれ、俺はそういうの苦手なの」

 久寿彦はミラー越しに顔をしかめて手を払う。

「そっちの二人は?」

 美緒は横目で真一を一瞥すると、

「一人で行って」
「絶対イヤ。こんな場所、ムカデとかゲジゲジがわんさかいそうじゃん」

 美汐の声には力がこもっている。冷めた美緒の声とは対照的だ。

「何だよ、みんなノリ悪いな」

 真一は苦々しく顔を歪めて、過ぎ去った廃ホテルを振り返った。

「まあ、新倉イワオでも付き添ってくれるなら、行ってやってもいいけどな」

 フォローのつもりか久寿彦が言ったが、

「新倉イワオに霊視は出来ないぞ。お供にするなら宜保愛子だな」
「あ、そっか。ミステイク」
「おっちょこちょいも大概にしないと憑依されるぜ」

 ほどなくアスファルトが途切れて、車が未舗装の道に入った。けっこうな悪路だ。ぐわんぐわん、と車体が大きく揺れ、真一はとっさに窓の上のアシストグリップをつかむ。美緒は助手席と運転席のシートに両手でしがみついた。

「ちょ、ちょっと……あたっ」

 運動神経に難ありで、対応が遅れた美汐は、窓ガラスに頭をぶつけてしまう。ゴン、と大きな音がした。

「もう! ゆっくり運転してよ」

 頭をさすりながら、赤い顔で言う。

「わははっ、いい音したなあ。悪い悪い、前回来た時は、こんなに悪い道じゃなかったんだよ。たぶん、雨で道の形が変わっちまったんだな」

 久寿彦が車の速度を落とすと、やがて、道は草むらに開けた小さな空き地に行き当たって終わった。海の気配は相変わらずこれっぽっちも感じられないが、ここがゑしまが磯の玄関口だという。

◇◇◇

 空き地には真一たちの車を除いて、白い軽トラが二台、モスグリーンのRVが一台停まっていた。軽トラは、恐らく地元の漁師のもの。RVは真名井さんの車だ。真名井さんはマスターの年の離れた弟で、厨房のスタッフ。まだ三十代前半と若く、真一たちと行動をともにすることも多い。以前は海辺のリゾートホテルで働いていたが、レストランHORAIの拡張に際して、マスターが呼び寄せた。知らない人を雇うより、肉親をスタッフにしたほうが気が楽、というのがその理由だ。真一たちは、マスターを 「マスター」、真名井さんを 「真名井さん」、マスターの奥さんは 「サヤカさん」 と呼んで区別している。真名井さんは松浦、波田とともに昨夜からここで釣りをしている。イサキを釣りたいと言っていたが、果たして釣果はどうだったのだろう。もう日が高いから、納竿しているはずだ。

 車を降りると、重怠い夏の熱気が全身を押し包んだ。濃密な緑の匂いに、頭がくらくらする。周りは山だらけで、豪雨のような蝉時雨が降り注ぐ。圧倒的に多いのはミンミンゼミの声。次いで、ツクツクボウシとニイニイゼミ。アパート周辺でよく聞くアブラゼミの声は、ほとんどしない。山の中にはあまりいないセミなのかもしれない。

 森へ続く小道の入り口に、丸太の標柱を見つけた。樹皮の一部が削り取られて、文字が刻まれている。

「ゑしま観音……?」

 なにげなく読み上げたら、久寿彦がこっちを向いた。

「この先に観音像があるんだよ。行ってみるか?」

 ほかの仲間たちは、まだ到着しそうにない。美緒がさっき携帯で連絡を取ったら、西脇が運転する店のバンは、真一たちの五、六キロ後ろを走っていることがわかった。益田の車はさらに遅れて、十キロくらい離れているとのこと。去年までならポケベルで連絡を取っていたところだが、今は携帯の時代だ。いちいち公衆電話に並ぶ必要はない。

「あ、筒川さん、ちょっと待って下さい。カメラ出しますから」

 車の鍵をかけようとした久寿彦に、四谷が声をかけた。バックドアを跳ね上げて取り出したのは、こちらも話題のデジタルカメラ。先週、ついに手に入れましたよ、と嬉しそうに話していたやつだ。現時点での購入は勇み足な気もするが、まあ、そこは他人がとやかく言うことではないだろう。枚数を多く撮れたり、液晶モニタで画像を確認できたりと、デジカメならではの利点もある。

 小道を抜けると、常緑広葉樹の森の中に、ぽっかり広場が開けていた。もこもこした葉むらが四方から迫る広場には、中途半端ながら芝が生え、大雑把に草も刈られてある。訪れる人がほとんどいなそうでも、定期的に手入れはされているのだろう。向かいの山斜面に、石垣が張り出しているのが見える。ゑしま観音は、真ん中の石段を上った先にあるはず。石垣の袂にはカミヤツデが生い茂り、どことなく南国っぽい雰囲気だ。

「大きな葉っぱ……」

 石段を上り始めると、美汐が左右に迫る葉っぱの一枚を興味深そうにさわった。カミヤツデの葉っぱの大きさは、普通のヤツデの三倍くらいある。明るい色合いで、ヤツデのような光沢はない。大きいという点を除けば、見た目はむしろ、オクラの葉に似ているかもしれない。在来種ではないから、誰かが植えたのだろう。

 石段を上った先は、平らな土の境内に、石畳がまっすぐ続いていた。右手に年季の入った石の九重塔、左手には何かの石碑と赤い実が生るサンゴジュ。そして、突き当たりの石壇の上に、観音像が立っていた。台座を含めれば、高さは三メートルくらいあるだろうか。石壇の背後には、像からやや左にずれて、ノウゼンカズラが巻き付いたシュロの木が生えている。

「へえ、いいじゃん。ここで写真撮ろうよ」

 先頭で足を止めた美汐が、花が咲き乱れたシュロ皮付近を見上げて声を弾ませる。ノウゼンカズラの大ぶりで鮮やかなオレンジ色の花は、もっとも夏らしい花の一つ。溢れる緑の中で異彩を放ち、ここが楽園の入り口であることを示しているようだ。

「アンコールワットみたいだね」

 美汐はぐるっと視線を一巡りさせて、みんなを振り返った。まあ、本物のアンコールワットと規模は比べ物にならないが、エキゾチックな雰囲気は確かに似ている。年季の入った九重塔とか。日本の仏教寺院に、こうした雰囲気はない。

「こんな場所があったとはね……」

 ボディボーダーで、あちこちの海に行っている美緒も、ここは初めてらしい。感心した面持ちで、像と花を見上げている。

「じゃあ、このへんに並んで下さい」

 四谷が指で場所を示して、真一たちは石畳を跨いで横一列になった。あまり像に近づきすぎても、構図が悪くなってしまう。

 カメラを構える四谷。

 一見、自然なポーズ……だが、よく考えると変だ。デジカメにファインダーは付いていない。

 きっとそれは、持ち主が最もよく知るところだろう。四谷は決まり悪そうに咳払いすると、顔にくっつけていたカメラをさりげなく離した。

「そ、それじゃあ、撮りまーす」

 幸い、真一以外の三人が失敗に気づくことはなく、四谷は笑い者にされずに済んだ。

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