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かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた / Vladimir Alexandrov

世の中には多くの境界線がある。今日も、無論。コロナの感染者とそうでない人の間、社会的立場、宗教、心の内と外、建築物の間、壁の外と内、国境の内と外。残念ながら私は未だ井の中の蛙を脱せずにいるが、この書にはそれをフッと越えて行った一人の人物の人生がどんなものであったのかが記されている。南部から北部へ、アメリカから西欧へ、ロシアへ、トルコへ。被差別者から少数者へ、給仕から富豪へ、富豪から難民へ、そして富豪から囚人へ。

この境界線は普段の生活の中でも多分に感じる。社会学の一般性。よそよそしさ、非干渉性。

このような境界線、皆が越えられない境界線を越えて行く人物は、魅力的に見えるものだ。フレデリックはこのような人物だという印象だった。国境を越え階級を超え、人と人の間の壁を越えてゆく。

私は自分が当時の感覚を分かっているなんて微塵も思わないが、旅行費を稼いでは次の国へというふうにヨーロッパを旅行するトーマスの若き日の生き方は豊かなものに感じられ、とても惹かれる。多くのものを見て、聞いて、感じて、多様な人間観、ものの考え方・見方を得る。その眼で世界を眺めて生きる。その視野と「こころの広さ」は当人の人生を豊かなものにするに違いない。私はこの伝記を読んで、そのようなことを改めて感じさせられた。

現在を翻ってみるとどうだろうか。

メディアはロシアを排斥するかのような極端な論調に染まり、それまでの背景を参照するような報道はなかなかない。アメリカ側の理屈がまるで普遍でもあるかのようだ。まるで大政翼賛会ではないか。

立ち止まってものを考える。様々な立場の人へ思いを馳せる、境界線の向こう側を知ろうとする、理解しようと努力する。このような営みが決定的に欠落しているように私は感じる。

そんな中、この伝記は偏狭化した視野に縛られた現在の人間に、「そんなだけじゃないぜ」と語りかけてくる。コチコチに固まった頭と心に対してフッと広がる視野を垣間見せ、のしかかった重しを取り除いてくれる。知識だけでない体感的な読書を与えてくれる。こんな体験は、立ち止まってものを考える、様々な立場の人へ思いを馳せる、境界線の向こう側を知るきっかけとなり、また自らがトーマスのような境界線を越えてゆける存在となるヒントを与えてくれるものだと私は思う。

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