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ネオライトフュージョン宣言                      (令和5年3月2日、追記更新)



【宣言文】

 21世紀に入ってから20年余りが経過し、日本は『令和』という新時代を迎えてから、丁度1年が経つ。日本という国家は、2680年という極めて長い最古の歴史を誇り、他国にはない『国体』を敬愛し、また、死守してきた。
もちろん、長い長い歴史の中で、日本という国家も他国と同様に、
現在に至るまで、数多の災害や災難が国土を襲ってきた。
 だが、それでも日本は数多の艱難辛苦を乗り越えてきた。
 それは日本という国家が誕生し、今日に至るまで、
日本民族の神様であり象徴であり父である『天皇陛下』があらせられたからこそと、日本民族が日本の伝統文化歴史を重宝し、
襲い来る数多の災害や災難でも、不屈不撓の精神で立ち上がり、
そして何度でも蘇っては挑戦し、
発展し繁栄をし続けてきたからこそに他ならないからである。
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 太古から続く長き歴史と、古き伝統文化を誇る日本では、
時代が経つにつれ、新しき文化が次々と芽生え、
それは、しなやかにたくましく根を張り、
地上から天空へと続く大樹となり、枝先からは数多の蕾をつけ、
それは華へと緩やかに成長していった。
ライトノベルも、その新しき文化の土壌に存在する一本の樹である。
 ライトノベルとは、
アニメや漫画やゲームといったサブカルチャーに位置づけられ、
すなわち、ラノベは二次元を意識した創作の一つで、
1990年にこの日本に芽生えた新たな文化の一つである。
 ライトノベルが緩やかな成長を始めたのは、2000年代からである。
その頃になると、ライトノベルの“樹”は、
全国の土壌に根を広げ、空に向かって飛翔するかのように成長し、
あらゆる場所に枝を伸ばしていった。
 そして気づけば、ライトノベルの“樹”は、
日本全国を見渡せるほどの高くてたくましい“大樹”となり、
枝先からは、多種多様で、数多の蕾を付け、
やがて蕾は開華していった。
 そんなライトノベルの“大樹”そのものに、
あるいは枝先から咲く“華”に10代から30代の若者と呼ばれる生命たちは感化され、憧れ、若き生命の中には、
自らがライトノベルの大樹と同化することを望む、
そんな生命が増殖していった。
ライトノベルの“大樹”にとって必要な栄養素――それは、
日本の若き生命からの“感化”と“憧れ”であるが、
実はそれだけでは足りない。
自らライトノベルの“大樹”と同化する若き生命も多いが、
それだけでもライトノベルの大樹の最適かつ最高の栄養素には程遠い。
 ライトノベルの“大樹”にとっての、
最適かつ最高の栄養素――それは、若き生命たちの中で、
感化され、憧れ、
ライトノベルの“大樹”と同化しよう――と望むことだけではなく、
“大樹”の枝から、
この世にたった一つしか存在しない華として咲くことなのである。
 それこそが、ライトノベルの“大樹”にとっての、
最適かつ最高の栄養素となるのである。
 多くの若き生命たちは、“大樹”が大好きだからこそ、
愛するからこそ、そのことに早く気がつくべきだった。
どの生命体でも同じ、栄養素が足りなければ、
生命活動を維持することは出来ない。
それはたとえ、
新たな文化の一つである――どんなに立派なライトノベルの“大樹”であろうとも、栄養素が足りなければ、
やがては虚しく枯れていってしまう。
 時に“大樹”の枝先に新しき蕾がつき、
それは見事な華となって咲くこともあるが、
“大樹”の栄養素としてはとても足りず、それどころか、
無情に進んでいく時代の流れと共に、ライトノベルの“大樹”には、
もっと強大で驚異的な力を持つ栄養素が必要となっていた。
 さらに追い打ちをかけたのが、
多くの生命を脅かす病と、
それと同時に発生した不況という暗雲に、
ライトノベルの“大樹”には、もはや絶体絶命の危機だった。
 そんな時、令和元年に降臨した、
日本の古き歴史を持ちながらも、
異国西洋の文化までもを知る霊鳥が、
ライトノベルの“大樹”の根元に新たな奇跡を起こしてみせた。
すると、ライトノベルの“大樹”の根元からは、
新たな芽が生えたのだった。芽生えたばかりの当初は、
多くの若き生命も、根元から新たな芽が生えたことに気づかず、
吹けば消えてしまうほど小さき存在だった。
 だが、霊鳥はそんな新たな芽という小さき存在に、
更なる奇跡を起こしてみせた。
 それは、霊鳥が、ライトノベルの“大樹”とともに、
新たな芽を育てていくということだった。
そのことで、新たな芽は、少しずつ、
様々な生命から認識され、時に感化され、
憧れを受けて、緩やかに成長を続けるようになった。
 ライトノベルの“大樹”の根元から生えた新たな芽。
 生みの親である霊鳥は、それをこう名付けた。
 “ネオライトフュージョン”
 ライトノベルの“大樹”の根元から芽生えたそれは、
“ネオライトフュージョン”と名付けられたのだった。
それはライトノベルの“大樹”から派生した存在ではありながらも、
それまでの“大樹”にはなかった欧米の文化を知り、更に、
西洋の美意識と、日本人が忘れかけていた日本の美意識、
伝統芸能文化の“全て”を合わせ持っているものだった。
 派生した“ネオライトフュージョン”は、
22世紀の未来に向けて、ポストライトノベルとして
ゆっくりと“大樹”へと成長しつつあるのだった。
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 ライトノベル生誕30周年を迎えた今、日本では、
未知の病とあらゆる不況の中で、
ラノベも新たな局面を迎えなければならない。
 30年間という、
それまでの『面白くて楽しいだけのライトノベル』からの完全な脱却をし、
これからは、作者と読者が別々の立ち位置で、
物語とは何か、創作とは何か、
自分とは何か、人類とは何か、人間とは何か、
生命とは何か、生きることは何か、世界とは何か、
美しさとは何か、というあらゆる〈何か〉を直視し、
自ら〈楽しみながら〉も、
独自のあらゆる視点と解釈と可能性で、
自己の未来を切り開いていく、
というポストライトノベルの時代となる。
 日本の伝統芸能文化を守っていく立場として、
ネオライトフュージョンは、
それまでサブカルチャーの一つとして存在していた、
自分の国さえもまともに愛せないどころか、
自国に刃向かうことを是とするという、
いわゆるカウンターカルチャーなるものに対しての、
アンチテーゼを唱え、その逆カウンターとして、
ならびに攻撃からの防御として、
ディフェンドカルチャー運動
の下に位置づけることを提唱する。
ディフェンドカルチャー運動は、
カウンターカルチャーの思想の真逆
の立ち位置であり、
自国と自国の伝統芸能文化を守り、
その発展と繁栄を大前提とした運動である。
 ポストライトノベルの先駆けであるネオライトフュージョンは、
今後更なる進化を遂げていくはずだ。
 芽生えたての新たなジャンルおよび創作哲学が、
22世紀に向けたムーブメントの一つとして、
若者のみならず、老若男女問わず、
多くの大衆に影響を与え、支持されることを願って、
蝦空千鶴はネオライトフュージョンを今ここに宣言する。

令和2年5月10日(土)    
ネオライトフュージョン提唱者    蝦空千鶴

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【ネオライトフュージョンとは何か?】

●大まかな特徴
ネオライトフュージョンとは、
従来のライトノベルを母胎に、日本はもちろんのこと、
アメリカラテンアメリカ
そしてヨーロッパ各国の20世紀モダニズム文学と、
ポストモダン文学の要素や技法手法を是々非々として融合させ、
更に、人類学や人間学や心理学や美学4学問を導入することで、
時代の最先端を突き進むハイブリッド型ジャンルであり、
新たなムーブメントであり、蝦空千鶴の創作哲学である。


●更に細分化させると

ネオライトフュージョンとは、“ライトノベル”を母胎に、
人類学、人間学、心理学、美学に加えて、

・新感覚派
・意識の流れ
・ドイツ表現主義
・イタリア未来派
・キュビスム
・イマジズム
・ヴォーティシズム
・ダダイズム
・シュルレアリスム
・マジックリアリズム
・クレアシオニスム
・ウルトライスモ
・ロスジェネ
・ビートニク
・ニューエイジ
・ヌーヴォー・ロマン

 など16種類以上の要素や、
その代表的作家ら独自の技法や手法の、
善き部分のみを取り入れて、
それらを一つの作品として昇華させていくことが目的である。
 なお、ネオライトフュージョンは、
20世紀欧米の前衛文学と自己意識運動を含めているため、
総体的に申せば、
 【否定、攻撃、破壊、虚無、創生、育成、肯定、癒し、防御、構築】
などの10種類以上を一つに凝縮させた膨大なテーマを持っている。

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【ネオライトフュージョンの理念(2つの理念)】

1.自己と世界の未知を開拓し、その真理を探究することである。

2.自国と自国の伝統芸能文化を護持し、次世代の繁栄と発展に繋げること。

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 ネオライトフュージョンは、ライトノベルを始めとした、
ありとあらゆる全ての創作分野に繋がる創作哲学でもある
 よってネオライトフュージョンを知るということは、
自分を知ることであり、世界を知ることであり、
創作を知ることである。
 なぜ、創作をするのだろうか。
 作品はなぜ生まれるのだろうか。
 作品は読者にどんな影響を与えるのだろうか。
 楽しませるため? 自分が書きたいから? 
 じゃあその根本となっているのは?

 創作とはつまり、作品を創ることだが、
自分のためであり、他者のためであり、
同時に、自分のためでもなく、他者のためでもない、
そんな二つの側面を持っている。
更に、作品とは、自分でもあり、
他者でもあり、世界でもある。
よって、創作をし、作品が出来たその瞬間から、
作品は、一つの〈自分であって〉と、
〈他者であって〉と〈世界であって〉という側面と、
〈自分ではなくて〉と〈他者ではなくて〉と、
〈世界ではない〉という側面、
この二つの側面を兼ねた新たな生命体として、
永久に生き続けるのである。
その生命体となった、作品における、
作者と読者は絶対に向かい合いながらも、
常に緊張感を持ち保たなければならない。
ネオライトフュージョンは、自分とは、
人間とは、動植物とは、世界とは、生きるとは何か、
それらを創作および作品とともに、
作者も読者も自らに問いかけ、その意味を見出していくことでもある。
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【ネオライトフュージョン創作心得10箇条】

第一条 我々は、いついかなる時も、
        ありとあらゆる艱難辛苦に屈することなく、
        自己を信じ、自己の信念を曲げずに、不屈不撓の精神で、
        自国と文化の発展と繁栄に繋がる作品創作に勤しむべし。

第二条 我々は、完全と完璧を常に目標とし、創作をし続けよ。
        この世に完全と完璧は存在しない。
        不完全で不完璧こそが、この世の完全で完璧な姿なり。

第三条 我々は、創作家である前に、自己という存在である。
        敵は自己であり、味方は自己であることを自覚せよ。
        世界もまた自己であり、自己の鏡そのものなり。

第四条 我々は、この世に存在する、
        ありとあらゆる技と手法を常に発掘し、
        全てを理解し、全てを受け入れるな。
        必要のある欠片のみを拾い集め、
        必要なき欠片は躊躇せずに捨てるべし。

第五条 我々は、自己における創造力に、
        もはや限界など存在しないことを理解せよ。
        創造力とは、果て無き夢幻宇宙にして、
        光溢れる泉の力なり。

第六条 我々は、自己意識の〈脱力〉にて、自己の創造力を解放せよ。
        創作意識に、力を入れるべからず。
        意識の〈脱力〉こそが、
        自己の創造を果て無き夢幻宇宙とさせる。
        〈脱力〉を信じ、
        自己の夢幻宇宙から新たな光と世界を見よ。

第七条 我々は、意識と無意識の狭間の下で創造し、創作をせよ。
        あらゆる自己の〈未知〉と、
       〈可能性〉と〈力〉を見逃すなかれ。

第八条 我々は、創作家としての四季であり、
        四季の自然と一体化した存在である。
        物語もまた永久の生命となる。
        創造主として、自己の四季を創生せよ。

第九条 我々は、あらゆる自己と、あらゆる世界と、
        あらゆる〈未知〉を見続けよ。
        創造と創作に終わりという言葉は皆無なり。

第十条 我々は、〈美〉を描くのではなく、創生するのである。
        〈美〉とは、形ではなく、触れることも出来ない。
        〈美〉とは、自己の中にのみ存在する。
         自己の〈美〉を創生せよ。

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【ネオライトフュージョンの原理】

●徹底したキャラクター創り

ネオライトフュージョンでは、
それまでのラノベの原理を引き継ぐだけでなく、
それまで以上に、魅力的なキャラクター創りを目指す。
キャラクターとは登場人物のことだが、
それはこの世でただ一つしかない存在であり、
良くも悪くも物語の進行を左右する。
味方キャラであろうが、敵キャラであろうが、
そのキャラにしかない、
魅力が〈必ず〉存在するということを忘れてはならない。
その魅力とは欠点がない――ということではない。
むしろ欠点のないキャラクターは淘汰される。
人間界と同じように、良いところと、
悪いところがあるということ、
そのキャラクターが好む仕草や、服装、
あるいは髪型をしっかりと決めること。
そして、どんな特技があって、どんな性格なのか、
過去はどんな人生を送り今はどうなのか、
物語で、キャラクターはどのように発展し、
成長していくのか、という、
一つ一つ、人間と同じように、
細かく設定していくことで、キャラクターは魅力は向上していく。

●無意識からの〈自動筆記〉だけでなく、《超意識》と〈意識の流れ〉を巧みに使いこなし、
 巧みに使い分けよ。

ネオライトフュージョンの創作において、
瞬時に意識の切り替えが重要となる。
したがって、ネオライトフュージョンでは、
従来のラノベの原理である、意識下の創作だけに囚われることなく、
意識と無意識さえも超越した超意識の下で創作せよ。
まず無意識の創作とは、
ダダをはじめ、半分夢を見ながら、
というシュルレアリスム特有の自動筆記――すなわち、
オートマティスムの創作などがそれにあたる。
とはいえ、オートマティスムのみで絶対に物語を進行させないこと。
オートマティスムだけでの創作では、時に読者に混乱を与えかねない。
使い分けることが大事だ。
〈意識の流れ〉もまた然りである。
唐突な場面転換というのは、読者も驚愕する。
〈意識の流れ〉は清流の如く行うべし。

●実にわかりやすい物語内容と実にわからない展開

これは、それまでのラノベと同じ原理ではあるが、
しち難しい物語内容は読者に嫌がられる。
仮にしち難しい内容がコアな読者の一部にわかったとしも、
それでは全く意味をなさない。
逆にそれでは、単に作者の自己満足な作品となって、
読者離れだけでなく、信用さえも失ってしまう。
ストーリープロットは至極わかりやすく、
けれども、どんな展開になるのかは、何があろうとも、
絶対、読者に悟られてはならない――わからなくさせることが大切だ。
ネオライトフュージョンに年齢層というものは基本的に存在しない。
誰もが読める作品――ではあるが、
読者が読み終えて何を得ることが出来たかが重要だ。
それはもちろん、読者のみにしかわからないことだが、
それぞれ読者のみにしか学べない作品創りをしていくことが重要である。

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●予測と予想の制御

多くの読者は物語展開の予測や予想をする。
だが、ネオライトフュージョンにおいて、
読者に予測や予想をされてしまうことはタブーとされる。
よって、ネオライトフュージョンでは、
虚実を上手く利用することで読者の予測と予想を制御する。
ちなみに、フェイクとフェイントというのは、
それぞれ意味が異なる。
世界というものは、日常と非日常が表裏一体であり、
常に流動している。
そして、日常というものは、
何をもって日常とするかは独自の解釈によるもので、
気づけば、それは日常ではなく、
非日常であり――けど、
やはりそれも日常であるような非日常であるということ。
これがすなわち“フェイク”である。
また、世界は抽象的にぼかされてい、
前を歩けば、後ろに歩き、右を向いたら左を向いていた。
正しいと思っていたら間違っていて、
間違っていると思ったら正しかったり、
けど、正しさと間違いが存在するかもわからなくなる。
これが、すなわちフェイントである。
よって、ダブルトラップで重要な鍵を握るのが、
いかに物語の進行内で、
物語と読者との間で虚実を産ませるか、
ということも重要視されるが、
なによりもベーシックとなっている16種類の要素、
ならびに手法技法の均一な使い分けと技の使い方、
すなわちマルチテクニックである。
手法を理解し、その使い分けにより、
フェイクトとフェイントは自然に発生し、
ダブルトラップに移行出来る。
例えば――。
読者がもし仮にAの展開になるのではないか、
と予想予測されそうになったとしても、
実はKのようなFだったという風な展開に、
あるいは、Zの展開になるかと思ったら、
BのようなWだったと、そういうトラップである。
予測も予想も出来なくさせることが極めて大事である。
このフェイクとフェイントのダブルトラップ――というのは、
ネオライトフュージョンのベーシックの一つとなるが、
もし自信があれば、
フェイクとフェイントを結合させた、
トリプルトラップへのも移行も可能である。
要するに、基本的に読者の予測と予想を制御さえ出来ればいいのである。
 とはいえ、ネオライトフュージョンの作品を読み終えた読者が、
『作品内容がわかった楽しい!』だけでも駄目だ。
逆に、『わからなかったけど楽しい』でも駄目だ。
 ということは、
『わかった』と『わからなかった』の二つが結合されて、
“楽しくて何かを”でなくてはならない。
 よって、読み終えた読者が、最後に心の中で、
『わかったような、わからないような、
けど楽しくて何かを得た』というのが、
ネオライトフュージョンにおける理想である。

●(あらゆる全てに生命が宿り、
   あらゆる角度から見られている)

従来のラノベでは、それまでなかったが、
ネオライトフュージョンでは、
主人公の周りに見える景色も風景も空間も、
何もかも全てにおいて、生命が宿り、
そして意識があって、
自分を見ているということ――それを忘れてはならない。
つまりどういうことかというと。
それは例えば、風の音や、車のエンジン音や、
人の歩く音や、繁華街の音や、
人の声や、獣の声や、時計の音や、パソコンの音や、
テレビから流れる音や、
天候や、空や、家の天井や、床や、机や、
学校の教室の黒板などなど、
あらゆる全てに命が宿り、意識があって、
それは常に形を変えて主人公や、
それ以外の誰かを観察しているのである。
この、あらゆる全てに生命が宿り、意識があって、
感情があって、それはあらゆる角度から見ている、
もしくは見られている――ということを、
念頭に創作していくことが、
ネオライトフュージョンにおいて極めて重要である。

●徹底した是々非々による手法技法の融合。

ネオライトフュージョンは、
常に新しさを追求し、探求していく。
自分にとっての新しさを発見したら、
それを取り入れていくことが重要だ。
とはいえ。
ネオライトフュージョンにおける是々非々は、
善き手法“のみ”を、取り入れることであって、
手法技法であろうとも、
作品の質を逆に下げてしまうデメリットな部分は一切排除している。
あらゆる手法や技法においても、
それぞれ必ずメリットとデメリットが存在する、
ということを創作家らも理解すべきである。
ネオライトフュージョンは、
メリットのみの手法と技法、作品として昇華出来るかどうかである。
逆にそれ以外の、使えない必要のない部分は迷わず躊躇せずに捨てていくことが大事である。

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●徹底した〈美〉の追求と探究。

ネオライトフュージョンに必要不可欠なのが、〈美〉である。
実に極論だが、これは何があろうとも、
どんなに笑える話であろうが、卑猥な話であろうが、
悲しい話であろうが、
奇妙な話であろうが、〈美〉を絶対に忘れてはならない。
もはや〈美〉を意識した創作だからこそ、
ネオライトフュージョンとも言えるのである。
だからこそ、ラノベを母胎に、
4学問の一つである〈美学〉を導入した。
〈美〉とは国によって、意味合いが全く違う。
ネオライトフュージョンの基本的な〈美〉は、
古来から伝わる日本伝統の〈花鳥風月〉を始め、
〈をかし〉や〈わび・さび〉という美意識ではあるが、
もちろんそれだけではなく、西洋独自の美意識も導入する。
西洋における〈美意識〉は、
日本のそれとは似ているようで、
また訳が違う。
だが、ありとあらゆる角度から〈美しさ〉とは一体何かを、
その目で見極めよ。
ネオライトフュージョンの創作そのものが美しいのではなく、
 そもそも古来から伝わる日本の伝統芸能文化というものは、
美しいものだ、ということを読者に物語で知らしめ思い出させよ。

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【そもそもライトノベルとは何か?
(本当のラノベ定義)】

ラノベ本棚素材1
書店におけるラノベコーナーの様子

 蝦空千鶴は、はっきりと定義付ける。
 ライトノベルとは、1990年に誕生した、サブカルチャーの一つで、
大衆文学から派生したジャンルであり、ムーブメントである。
 ライトノベルは主に〈作者自身〉が、
アニメや漫画・コミックやゲームといった、
いわゆる二次元世界と自己のオリジナリティを〈意識〉し、
読者にストレスなく、読みやすい文体で創った作品のことである。

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・ライトノベルの定義が現在も曖昧な理由について。
(ラノベ論争の終結への提言)

 ライトノベルの定義に関する、ラノベ論争は30年以上におよぶ。
 この論争に終止符が打たれないのは、実に簡単な理由だ。
 それはライトノベルの定義付けに、
いまいちラノベを知らない読者や批評家たちが無闇に関与し、
介入し――つまり、口を挟んできたことが要因である。
 言うなれば、そもそも論として、
読者や批評家らは“ラノベの定義付け”に、
介入――すなわち口出しをすべきではなかったのである。
 ライトノベルの定義付け、
それは作者自身が決めることが重要なのだ。
 それと、読者や批評家らによる、
ラノベの定義付けの介入および関与について、
書き手側であるラノベ作家はそれを黙認すべきではなかった。
 ラノベの定義、至極簡単に言えば、
作者がアニメや漫画・コミックやゲームといった二次元、
そして、キャラクター創りから、
ストーリープロットの構築に至る全てにおいて、
オリジナリティをしっかりと〈意識〉しているか否かである。
 それが、“結果論的”にも〈意識〉して書いていれば、
“ラノベ”であるし、逆に言えば、
作者自身が“ラノベ”を〈意識〉して書いていなければ、
それはもうその時点で“ラノベ”ではないのである。
 したがって、一般の読者や批評家らが、
『これはラノベだとかラノベじゃない』とか言ったところで、
 そんなことはもはや関係ない話なのである。
 本来ならば、もう既にこの時点で、
ライトノベル定義付け――。
ラノベ論争に関しては終わり――な筈である。

 まずラノベ作家というのは、ラノベをまだ知らない読者に、
 ラノベとは一体何かを教えることが重要なのであって、
 ラノベ作家ともあろう者が、読者や批評家らと一緒になって、
『さてさて、ラノベの定義とは一体何だろうか?』
などと考えていることは、
 常識的に考えてありえない話であり、
ラノベの基本の『基』の字もない、もってのほかなのである。
 つまりラノベ作家も、実はラノベをよく知らないで、
 今まで『何か』を書いていたということなのである。
 もっとも、昨今のラノベでは、
ラノベ作家自身がラノベを知らぬものだから、
オリジナリティの欠如どころか、
パスティーシュと言うにもおこがましい、
流行りのパロディやネットスラングの連発と、
別作品の真似事的作品が量産されているのが現状なのである。
 このように作者以外の読者や批評家らが口出しをし、
それを黙認してきたラノベ作者らが原因で、
 ラノベの定義――ラノベ論争は、
『ラノベ』という名前が誕生して30年が経ったにも関わらず、
 2020年の現在も、曖昧なままで、
このあまりにも愚かな論争に終止符を打てないのでいるのだ。
 愚の骨頂とはこのことである。
 また、ライトノベル定義の曖昧さの致命的要因が、
今でも迷言として存在し、崇拝している者すら存在してい、
 その文言内容は、
 『あなたの読んだ作品がラノベと思ったものがラノベである』
などという、あまりにも適当で不安定で、
曖昧模糊な過去のネット掲示板の文言に、
 多くのラノベ作家は、はっきりと『否』を突きつけなかった。
 それどころか、読者や文芸評論家と一緒になって、
 その適当で不安定で曖昧模糊なネット掲示板の文言に、
同調さえしてきたこともある。
 こうしたことにより、もう一度繰り返すが、
 曲がりなりにも、勢力を上げ、
経済効果を上げつつたライトノベルは、
 本来の真骨頂ともいえる、オリジナリティが時代が経つごとに欠如し、
 数多くの似たり寄ったりな作品名や、似たり寄ったりな内容や展開や、似たり寄ったりなネタや、似たり寄ったりな作家名で、
ドミノ倒し状態に陥ったラノベ作家やら作品やらが、
大量生産されてきたのである。
 この似たり寄ったりなライトノベルは、
更なる読者離れを引き起こすだけではなく、
 マイナス面での差別化が図られてしまうのだ。 

 現在、ライトノベル作家として活動している者も、
また将来ラノベ作家になろうと志す諸君らも、
 今一度、はたして二次元を意識した創作とは一体何か、そして、
オリジナリティとは何か、ということを考えてみるべきだ。
 オリジナリティとはなにか。すなわち〈独創性〉のことである。
 独創性とは、独自の考えで物事をつくり出す能力のことを意味する。
 だが、ライトノベルにおけるオリジナリティとは、
〈個性〉のことでもある。
 独創性と個性は、それぞれ当然ながら意味が違う。
 意味は違うが、この〈独創性〉と〈個性〉の2種類の言葉の意味が、
 この〈オリジナリティ〉という言葉のフォルダーに凝縮されているのである。はてさて、個性というものは一体何か。
 個性とは、自分にしかない自分だけの〈全て〉である。
 そして、それはこの世にたった一つしか存在しないのである。
 この〈個性〉はラノベの命でもあり、
この個性が欠けてしまえばラノベはラノベにあらず、なのである。
 個性を信じ、個性と共に生き、
 個性を究極的に作品で発揮することが大事で、それはラノベ発展の鍵でもあるのだ。

『ラノベ定義付け』に関しては、
 読者でも批評家でもなく、『ラノベ作家自身』がすることだ。
 ちなみに批評家についてだが、
彼らがラノベの有識者かといえば、実は割とそうではなかったりする。
 批評家の多くは、ラノベが何かを知っていない、
にも関わらず、『ああでもこうでもない』と言っているのである。
 もし批評家――文芸評論家が、
ラノベを研究し、尚且つ、
ライトノベル作品を書いているというならわかる。
 だが、ラノベに誇りを持ってラノベを書いている、
という批評家は、残念ながら聞いたことがない。
 であるならば、ラノベを知らなければ、
まして書いたことすらない読者も批評家も、
 『ラノベの定義付けに関して』は、
一切の口出しをしないで、作者に委ねて黙っているべきである。
 ラノベ作家と読者は〈対等〉ではあっても、
決して〈同等〉ではないのだ。
 そこのところを現役のラノベ作家諸君、
あるいは、その志願者は、絶対に履き違えてはならない。
 書き手側と読み手側は、
それぞれ別の星として存在するからこそ成り立つもの。
 読者は、読者だからこそ、
読者だけにしか出来ない未知の発見と開拓が出来るのであって、
 それをラノベ作家すなわち書き手側に、
時に、ご教授していく役割を持ち、
 書き手側――ラノベ作家は、
読者を遠く離れた距離で『ライトノベル』、
という光で照らす星でなくてはならないのだ。
 千差万別な意見を持つ膨大な数の読者らや、
なんちゃって批評家らの『ラノベ論争』の未介入の重要さ。
 これがおよそ30年以上の長きに及ぶ、『ラノベ論争』の“終結”の鍵となるのではないであろうか、と蝦空千鶴は提言する。
下記の蒲生竜哉殿のライトノベル論に関しても、参考までに。

蒲生殿は、旧式のラノベ定義を信じているらしいが、
もはや時代は令和となり今も進んでいる。
そして時代に合わせて、
ラノベ定義の横着状態を打破し、今後の22世紀の未来に向けて、
ラノベ革新として、表現および内容も更に進化させなくてはならない。

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【ネオライトフュージョン、16種類の用語解説】

・新感覚派とは

新感覚派の専用画像

新感覚派は、明治時代に主流であった私小説、それも現実主義を超える、
新たな言語表現の可能性と独立性を強調したものであり、
20世紀の初頭に、大正時代の日本で誕生した文学の一流派である。
新感覚派は、第一次世界大戦後に、スイスで産声をあげたダダイズムや、
ドイツ表現主義といった前衛芸術などの、
表現手法や技法を取り入れ、
それに加えて日本ならではの伝統美を意識しつつ物語を描き、
読み手側に、
まるで美術や音楽を鑑賞しているかのような気持ちにさせるという、
斬新で極めて詩美的な文章表現なのが特徴である。
更に、主観的な把握や、
知的に再構成された新現実を感覚的に、
置換・創造するといった作風なども傾向としている。
新感覚派は、日本で初めての、
西洋式の文学を取り入れた派閥であり、
擬人法や比喩の手法技法を導入することによって、
後の昭和から現代の純文学に驚異的な影響を与えた。
ちなみに、この新感覚派と同じ頃に出来たのが、
苦しく貧しい労働者の生活などを描くプロレタリア文学であった。

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・意識の流れ

意識の流れの専用画像

意識の流れとは、
アメリカの心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に、
初めて用いた心理学の概念であり、
人間の意識とは、〈静的〉な部分の配列で成り立つものではなく、
〈動的〉なイメージあるいは〈観念〉が流れるように連なったものだ、
という考え方のことである。
ただ、文学上における意識の流れとは、
主に「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、
特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法である」とされ、
20世紀初頭における欧米の前衛文学作家や、
後に輩出されるノーベル賞作家、そして日本においては、
過去から現在に至る数多くの芥川賞作家などにも強い影響を与えた。

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・ドイツ表現主義

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ドイツ表現主義は、20世紀初頭の第一次世界大戦前に始まり、
1920年代には最盛期を迎え、
ドイツ国内で異彩を放っていた前衛芸術運動のことである。
ドイツ表現主義は、主に自己の内面や感情や精神といった、
いわゆる「目に見えない」そして、
「輪郭がはっきりとしない」ものを、
表現者あるいは創作者自らが、あえて独自の捉え方で、
主観的にそれらを〈形〉や〈何か〉に変えて、
〈強調する〉といった様式のことである。
ドイツ表現主義には、主に二つの派閥があり、
北ドイツのドレスデンで産声をあげ、
後にベルリンにて拠点を置いた「ブリュッケ(橋)」派と、
南ドイツのミュンヘンに拠点をおいた、
「青騎士」派などの二つに分類される。

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・イタリア未来派

イタリア未来派専用画像

イタリア未来派は、20世紀の初頭、
1909年にイタリアの詩人、
フィリッポ・マリネッティが提唱した前衛芸術運動のことである。
マリネッティは当時、
イタリアよりも芸術が盛んで、
芸術の名高い国、フランスの日刊紙『フィガロ』にて、
『イタリア未来派宣言』をしたことが未来派芸術の発端となった。
イタリア未来派は、産業革命以降、
顕著となっていた工業機械文明と、
急速に進化する都市化などを背景に、
それまでの伝統的な芸術や社会といったものを全て否定し、
〈新しい時代〉にふさわしい〈機械美〉や〈スピード感〉、
また、〈ダイナミズム(力強い動き)〉
といったものを強く支持し、
これを賛美した。
未来派の思想や活動領域は、絵画、彫刻、
造形芸術だけでなく、
写真、建築、デザイン、ファッション、演劇、
音楽、文学、更には、
『共産党・共産主義撲滅!』あるいは、
『反共産主義!』を掲げたムッソリーニ率いる、
イタリアファシズム、いわゆる国家社会主義、
といった政治活動に至るまで広範囲におよび、
後に誕生する新たな前衛芸術の先駆けとなり、
強き影響を与えた。

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・キュビスム

キュビスム専用画像

キュビスム(またの名をキュビズム)は、
時に立体派とも呼ばれ、
20世紀の初頭、フランスの画家バブロ・ピカソと、
ジョルジュ・ブラックの二人が立ち上げた前衛芸術運動である。
キュビスムは、遠近のダイナミズムの強調をする技法だけでなく、
〈対象物〉あるいは〈対象となる何か〉を、
自己における、可能な限りの複数の視点で捉え、
それらを一つの作品に書き収める、
という20世紀の初頭においては極めて革新的な手法の一つである。

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・イマジズム

イマジズム専用画像

イマジズムは、20世紀の初頭、
詩人のエズラ・パウンドが創始し、
主に1910年代のイギリスやアイルランドや、
アメリカを中心に、巻き起こった前衛詩運動である。
イマジズムは、20世紀モダニズム文学の起点ともされてい、
その詩の特徴としては、
それまでの詩のような規則や、
形式に縛られることのない自由的で、
かつ、正確な単語の使用,更には、
新しいリズムの創造や,題材を選択する自由,
また明確なイメージの提示や、
堅い明確な詩体,集中主義を主張,
象徴主義の音楽に代って、
彫刻との類似を追究していくといったもので、
イマジズムならではの詩は、
今の現代詩の原点の一つともされている。

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・ヴォーティシズム

ヴォーティシズム専用画像

ヴォーティシズムとは、20世紀の初頭、
1910年代の中頃にイギリスで誕生した、前衛芸術運動である。
ヴォーティシズムは、
やはりその名のとおり、詩においても絵画においても、
作品全体が渦を描くようなもので、
キュビスムやイタリア未来派の影響を受けている。
ヴォーティシズムは、誕生したその当時、
産業革命以降における機械文明の様子や、
その形状と、
動物あるいは人間などの主な題材を抽象化させ、
エネルギッシュな形象に組み合わせていくなどして、
極めて“どぎつく”大胆で、斬新な作風にさせるのが特徴である。
なお、ヴォーティシズムの画家や作家たちは、
ヴォーティシストとも呼ばれ、
更には、〈渦巻き派〉とも呼ばれている。

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・ダダイズム

ダダイズム専用画像

ダダイズムとは、20世紀の初頭、
フランスの詩人トリスタン・ツァラが1916年に、
スイスのチューリッヒにて、
『ダダイズム宣言』をしたことがきっかけで、
芸術の革命が巻き起こったとされる前衛芸術運動である。
ダダの創始当初の主な活動拠点は、
スイスチューリッヒのキャバレー・ヴォルテールであったため、
『チューリッヒ・ダダ』とも呼ばれていた。
1910年代は、世界において、
第一次世界大戦で世間は混乱していたため、
多くの芸術家たちは自分の無力さに嘆いていた。
だがそんな時、詩人トリスタン・ツァラは、
もしや理性というものこそが、
人々が争いをする原因を作っているのではないかと思い始め、
理性とは意識をすること、
すなわち意識をしないことに着目した。
そこでダダイストなる創作家らは、
〈創る〉という意識を根底から否定し、破壊し、
その撤廃を基本とした革新的芸術運動を展開していった。
後に、キャバレー・ヴォルテールは衰退したが、
パリ・ダダやネオ・ダダといったものが派生し、
更には、シュルレアリスム誕生のきっかけや、
フルクサスや、
ビートジェネレーションの作家らに多大な影響を与えた。

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・シュルレアリスム

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シュルレアリスムは、20世紀の初頭、
フランスのパリ・ダダの詩人アンドレ・ブルトンが、
1924年に『シュルレアリスム宣言』をしたことがきっかけで始まり、
フランスやベルギーなどで、
盛んになった前衛芸術運動のことである。
シュルレアリスムは、時に、
シュールレアリズムもしくはシュールレアリスムとも呼ばれたり、
超現実主義などとも呼ばれている。
シュルレアリスムの主な特徴は、
夢と現実の矛盾した状態を肯定することと、
不条理で非論理的な風景を描いたり、
あるいは、日常的な風景と、
奇妙な非現実的な生き物を並列して描いたり、
自分自身の無意識を表現することなどが特徴である。
なお、シュルレアリスムには、
オートマティスムと呼ばれる自動筆記の技法があり、
これは、元々パリ・ダダから決別した、
詩人のアンドレ・ブルトンが、
心理学に精通していたため、
それを取り入れたことで、
半分起きていて、半分眠って夢を見ている状況の中を、
彼は常軌を逸したスピードで文章を書く実験詩に成功し、
これを多くのシュルレアリスト、
並びにシュルレアリスム特有の技法となった。

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・マジックリアリズム

マジックリアリズム専用画像

マジックリアリズムとは、20世紀の初頭、
1925年のドイツの、
『新即物主義展(ノイエ・ザッハリヒカイト)』で、
展示されていた、
「冷静に現実を表現することによって現れる魔術的な非現実」
を感じるという、
いわゆる作品群の美術的表現であった。
それが後にヨーロッパやアメリカ、
ラテンアメリカまでの20世紀文学で幅広く使われるようになった。
シュルレアリスムとは似て非なるものであるが、
「魔術的非現実」と、
「合理的現実」を同時に見るという複眼的視線に基づいている。
つまり、日常にあるものが日常にないものと融合していたり、
魔術の非日常、非現実とリアリズム すなわち現実の日常、
現実という相反した状態が同時に現れていることが特徴だ。

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・クレアシオニスム

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クレアシオニスムとは、20世紀の初頭、
ラテンアメリカ(チリ)の詩人ビセンテ・ウイドブロが、
1920年代に提唱した前衛文学運動である。
クレアシオニスムは、創造主義とも言われ、
イタリア未来派やキュビスムの少し後に現れたが、
ダダやシュルレアリスムとは時代を共有した。
それまでのラテンアメリカ文学は、
ルベン・ダリーオ率いるモデルニスモ文学が主流であったが、
衰退していったために、
ウイドブロのクレアシオニスムは、
それまでの伝統的な詩作の方式を認めず、
新たに創造されたイメージや、
創造された状況、
創造された概念で構成させた詩で、
書かれているのが特徴である。
クレアシオニスムは、言葉による言葉だけの、
新たな世界を創造する先駆け運動の一つであった。

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・ウルトライスモ

ウルトライスモ専用画像

ウルトライスモとは、20世紀の初頭、
1920年代にスペインのマドリードを中心にして、
展開された前衛文学運動である。
ウルトライスモは、かつて、
1919年のマドリードで発行されていた月刊誌『セルバンテス』にて、
ウルトライスモ宣言をしたことから始まった。
ウルトライスモの特徴としては、
〈イメージ〉および〈メタファ〉の考察である。
創作上、イメージないしはメタファというものは、
非常に重要な位置を占めた。
それと、軽やかさや、スピード感を追求し、
機械文明と科学の発展なども詩に融合させた。
また、コンクリートの打ち放しの壁面の如く、
名詞を形容する語をできるだけ削ることにより、
ウルトライスモの詩は、
筋肉質でスピーディな印象を与える、
というのも特徴の一つだ。
また、キュビスムを取り入れたことで、
作品の造形性つまりは、
聴覚から視覚へのシフト変換を起こす、
という創作上における視覚効果などにも力を入れた。
ウルトライスモという前衛文学運動のもう一つの特徴は、
もともとクレアシオニスムから派生しただけでなく、
従来のラテンアメリカのモデルニスモ文学に対する反動、
および反抗で誕生した運動であるが、
思索的で内面的なクレアシオニスムと違って、
ウルトライスモの場合は、機械文明の礼讃や、
偶像破壊思想を繰り返し表明することに伴って、
時に作品の調子も攻撃的になるというところである。

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・ロスジェネ

ロスジェネ専用画像

ロスジェネの正式名称は、ロスト・ジェネレーションであり、
(失われた世代)とも呼ばれる。
このロスジェネと呼ばれる者らは、
そのほとんどが1890年代の後半に生まれ、
20世紀の初頭、第一次世界大戦が勃発した時に、
青年期を迎えたり、
あるいは従軍した若者たちのことで、
その自らの戦争体験によって、
それまでの思想、道徳、宗教などといった既成の価値観に不振を抱き、
独自の新しい生き方を探し求めて国籍をあえて離脱し、
フランスのにパリに渡った一群の若者たち、
あるいはその時代の作家らのことを言う。
具体的かつ代表的な作家には、
カミングズや、ドス・パソス、フィッジェラルド、
ウィリアム・フォークナー、
アーネスト・へミングウェイなどの、
アメリカ前衛文学作家、詩人、批評家たちである。
ロストジェネレーションの特色は、
社会の風潮に反抗し、
固く自我を守るところにあり、
彼らは、パリ滞在中に当時の、
モダニズム運動の洗礼を受けたことで、
戦後独自の文学スタイルを確立していった。
彼らがその後のアメリカ文学に及ぼした影響は計り知れず、
1920年代の彼らの文学活動は、
今もアメリカ文学史上ひときわ際だっている。
ちなみに、このロスト・ジェネレーション、
という名称についてだが、
これは、その当時パリに滞在していた、
ガートルード・スタインが、
へミングウェイに向かって、
『あなた達はみんなロスト・ジェネレーション(失われた世代)よ』
と言われた言葉に由来する。

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・ビートニク

ビートジェネレーション専用画像

ビートニクの正式名称は、ビート・ジェネレーションであり、
(打ちひしがれた世代)とも呼ばれる。
ビート・ジェネレーションは、20世紀の中頃、
主に1950年代から1960年代のアメリカで、
カウンターカルチャー運動の一つとして、
若者ら――特にヒッピーたちに絶大な影響を与え、
熱狂的な支持を受けた前衛文学運動のことであり、
また、その作家らの呼称である。
代表的な作家では、ケルアック、
ギンズバーグ、バローズなどがいる。
ビートニクは、アメリカの腐敗が極限にまで達した、
既成の価値観と、発展および進化し続ける、
アメリカの産業社会の習俗から、あえて絶縁し、
禅や、神秘体験や、ジャズや、酒や、
ドラッグなどで泥酔することによって、
至福的な悟りを開く、という独自の哲学を持っていた。
更にビートの作家たちは、反体制派を掲げ、
アメリカにおける社会と政治に抑圧された状況というものを、
自分たちが、どのように見つめているのか、
ということを、説得力のある詩や小説などで表現した。
こうしてビートニクは、
とにかく自我を無制限に解放する方向を目指していった。
なお、ビート・ジェネレーションは後のヒッピームーブメントにも大きな影響を与える存在となった。

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・ニューエイジ

ニューエイジ専用画像(加工済み)

ニューエイジとは、新しき時代を意味し、20世紀の中頃に、
アメリカの西海岸で誕生した自己意識運動のことである。
ニューエイジという言葉そのものは、
魚座の時代から水瓶座の時代の、
新時代(ニューエイジ)に移行する、
という西洋占星術の思想に基づいている。
さらに、ニューエイジの根幹には、
既存の古い宗教的教義や道徳は捨てて、
新しい思想を追求することが流れている。
ニューエイジの範囲は、あまりにも広く、
オカルトやスピリチュアル、
つまりは(神、精霊、魂、天使)をはじめ、
占星術、宇宙の神秘、臨死体験、
マインドフルネスすなわち瞑想や、
自己啓発または意識の在り方など膨大にあり、
それは時代が経つごとに、派生に派生を繰り返し、
今も進化し続けている。
ニューエイジャーは、無数に存在するが、
固定観念というものが、基本的にはないため、
独自の観念主義に基づく。
よって、他の文学のように、
派閥に属するということはまずない。

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・ヌーヴォー・ロマン

ヌーヴォー・ロマン専用画像

ヌーヴォー・ロマンとは、20世紀の中頃、
第二次世界大戦後のフランスで誕生し、
異彩を放った前衛文学作品群を形容した呼称である。
ヌーヴォー・ロマンは、はっきりとした宣言や、
運動や、派閥があったわけではなく、
『新フランス評論』と呼ばれる文芸雑誌で、
従来の近代小説的な枠組に逆らって書いた、
同時代の作家達を総称するための、
ジャーナリスティックな呼称として出来た。
ヌーヴォー・ロマンは、新たな実験小説でもあり、
物語の内容をそのまま読者に伝えるというやり方を変えて、
とにかく言語を抽象化して配列させて、
それを読者自身が、
一つ一つ考えることで楽しむというものだ。
よって、ストーリープロットや心理描写は、
ところどころ抜け落ちてい、どのような結末になるのかも、
それは読者次第なのも特徴である。
ヌーヴォー・ロマンの技法としては、
『意識の流れの叙述』や『二人称小説』や、
『客観的な事物描写の徹底』など様々なバリエーションが存在する。

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【ネオライトフュージョンの表現の地域スタイル】

・日本 ・アメリカ ・ラテンアメリカ(主にスペイン語圏)
・ドイツ ・オーストリア ・ハンガリー ・スイス
・チェコ ・スロバキア ・アイルランド ・イギリス 
・フランス ・ベルギー ・イタリア ・スペイン
・デンマーク ・アイスランド ・ノルウェー 
・フィンランド ・スウェーデン

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【22世紀に向けたポストライトノベルにおける、
 今後の在り方について】

 今の時代、これからの時代において、
 もはや『面白ければそれでいい!』などという、
それだけのラノベ作品であってはいけないし、
あってはならない。
 それはもう過去の話である。
 たしかに過去、従来のラノベは、
『面白ければそれでいい!』
などという甘い文言で済んだかもしれない。
 だが、22世紀に向けた、
これからの時代はそうはいかない。
 今現在、他国と同様に、
日本もまた国難であるという状況――そこをよく理解すべきだ。
 日本は、経済がどんどん悪化し、
失業者は増え、多くの街は衰退し、
希望さえ失いつつある人々が多い社会において、
 『面白ければそれでいい!』
なんていう甘っちょろい考えでは、もう到底通用しない。
 それどころかラノベ業界の衰退まで、
より危うくなる――もっと極端に言えば、
ラノベ業界は空中分解する一方なのだ。
 『面白ければ』という、
甘っちょろい考え方での創作思考は、
今後、一切合切捨てるべきだ。

 だからこそネオライトフュージョンというものは誕生した。
 今までのライトノベルにはない、
ラノベ史上初ともいえる、ラノベの根底を覆すレベルの、
 強大で膨大な力を持って、
革新的なライトノベルの力を読者に提供し、
あらゆる未知や、
あらゆる解釈や、
あらゆる意識変動の“きっかけ”といったものを、
『楽しさ』というものに融合させ、
それを読者の心に浸透させることが大事である。
また、それがネオライトフュージョンであり、
 それこそが、
これからの未来における、
ポストライトノベルの在り方ではないだろうか。
 自己の特性を究極限に活かし、
ラノベ作品あるいはネオライトフュージョン作品の向上に努めよ。
 よって、ネオライトフュージョンでなくても、
 これからライトノベル作家を志す者らは、
読者に『面白かった!』だけではない、
『面白かった!』の一言では足りなく言い表せない、
『面白い』以上の『面白い』驚異的な作品創りをするべきだ。
 そもそもライトノベルとは、
自分だけが書きたいように書くものではない。
 今の日本社会において、読者が今一体何を求め、
本当は何を読みたいと思っているのか、
 それを深く考えてライトノベルを書くべきなのと同時に、
 本来、自分すなわち作者自身も、
〈それ〉を〈求めて書きたかった〉ことを、
シンクロさせることが重要だ。
 書き手があって、読み手があって、
初めてライトノベル作家は、
   ライトノベル作家でいられるのである。
 したがって、ただ単に、
自分だけが書きたいように書くというのであれば、
 それはもうライトノベル作家を名乗らずに、
趣味かなんかで適当に書けばいいだけの話である。
 ライトノベルとは、趣味で書くものではない。
 ラノベ作家は、
ラノベ作家としての自覚と誇りを持って書くべきなのである。
 この世がそうであるように、
ラノベの世界もまた同様で、完成された物語もなければ、
完璧な物語も存在しないのである。
 だからこそ、完成と完璧を常に目標とし、
追い続け、その真理を探究していくこと――これが、
今後のポストライトノベルにおける、
重要な課題の一つではないだろうか。
 ネオライトフュージョンは、
22世紀に向けたポストライトノベルの先駆けであり、
 ラノベ史上初のコンセプト派として爆誕した新ジャンルであり、
ムーブメントであり哲学だ。
だが、ライトノベルの世界は、
〈未知〉が宇宙のように存在する。
 これから先々、ライトノベルにおいても、
ネオライトフュージョンにおいても、
 新たなるコンセプト派の創作家らが誕生し、
 後世の自国発展と、
 繁栄に繋がるなる一輪の華となることを切に願う。


蝦空 千鶴

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