『辛いのはみんな同じ』という助言について

『辛いのはみんは同じ』の一言に打撃を与えられる沢山の人達がいる。
私も例に漏れず、この無責任な一言に沢山の傷を負った一人である。
以前は、傷付いていることにも気が付けず、何だかモヤモヤ〜次第に腹が立ち、でも、そんなこと言われる隙のある自分が悪いんだよなと自責し尽くして、へらへらと笑顔を作り無理矢理話を終わらせていた。
当然、人を傷付ける配慮のない言葉は好きではないし、怖い。
ここ数年、Twitter界隈では、こういう言葉を言う人達は追放しろ!と言わんばかりに、みなさんメンタルヘルスに目覚めましょう!ほら早く!な流れ。
ちょっとモヤモヤする。

マインドフルネスを学び始めて少し経ったある時、『他人(ひと)の悩みを一般化するな』という一文をTwitterで目にした。
その時、『辛いのはみんな同じ』が、正に相手の苦悩を一般化し、無かったことにしている言葉だと気が付いた。
大抵の人は、それぞれの環境でそれぞれの傷を抱え、それぞれその時の自分に出来る最大限の力を尽くし、苦悩や葛藤と戦っている。
その人がそれまでどんなことを考え、どんな苦しみを味わい、どんな努力をして来たのかなんて、他人が知る由もない。
それでも、『辛いのはみんな同じ』と相手が必死に漏らした、救助要請かも知れなかった言葉を一般化し、無かったことにまでしてしまうその心理は、一体どこから生まれて来ているのか?
あるある!と万単位で共感を得るこの不快な一言をぶった斬る構図に、何故モヤモヤしてしまうのか?

まず、『辛いのはみんな同じ』発信者の心理として、「誰だって辛い、当然私だって辛い、何なら私こそ辛いし努力しているし、こんなにも耐えている!それなのにそんなことで弱音を吐くなんて甘えだ!」という感情があるのではないか。
そして、その言葉の裏に、「私だって甘えたい!私だって認められたい!私だって愛されたい!私だって優しくされたい!私だって休みたい!」というような、〇〇したい(願望)が隠されていると推察することにした。
彼等が、普段、自分の本心と向き合わず(向き合えず)に過ごし、自分がどうしたいかも分からないまま遣り過して生きている人達であると仮定すると、相手の環境や背景を考慮せず、主観のみで相手の悩みを一般化し、「あなただけ幸せになろうなんて許さない」的な怒りを撒き散らさずにいられない気持ちも、理解出来るのだ。
先に述べたように、マインドフルネスの存在すら知らなかった時代の私も、自分の本心と向き合わずに耐えてばかりいたからだ。
勿論、性格的な問題も加味され、私の場合は昨今Twitterで叩かれる「古い価値観」程、他人を強く批判したりすることはなかったとは思うが(せめてそうでありたい…)、それでも本質的には似たようなものだ。
当時の自分を被害者とは今は思わないが、『辛いのはみんな同じ』発信者のことは被害者と感じるところがある。
彼等だって傷付いて戦っている。
他人の痛みがちっぽけなものに見える程に。
それを社会全体で攻撃する構図が、私には集団リンチのように見えるのだ。
モヤモヤの原因はそこにあった。
彼等を、『そういうこと言う奴って〜』と叩くことと、『辛いのはみんな同じ』と他人の苦悩を一般化することと、どれ程の違いがあるのだろうか。


話は少し反れるが、脳の話をしよう。
長い間、〇〇したいという願望を押し殺して生きてきて、我慢すること、自分らしく生きないことが習慣化されてしまった者達。
そうするしか生きる術がなかった、かつての子供達だ。
さて、私達は大人になった。
誰かがご飯を作ってくれなくても、お腹が空けば自分で買うなり作るなりして食べられる。
何処かで誰かに追い出されたとて、屋根のある場所を探し出し、雨風を防ぐことが出来る。
たとえ本音を伝えて誰かに怒られても、基本的には命の危険は侵されない。
それでも、脳は過去の傷から推測して、危険を察知し防衛反応を起こす。
優秀なのだな。
だからこそ、自分は何かあれば見捨てられる人間であり、愛されないのは当然であり、些細なことで怒られると言う防衛反応=誤った固定観念を捨てられない。
自分が何もしなくても、そこに居るだけで価値のある人間であると、あるがままに生きることを許せない。
見捨てられないように、怒鳴られないように、〇〇したい願望は封印され、自ら抑圧する。
自分を許し、固定観念を覆し、新しい思考回路を構築してその道を走れるように努力するより、今まで通り生きた方が楽だからだ。
脳は優秀だが、自分の身を守る為には狡くも怠惰でもある。
自分自身が幸せになることを許可してあげられないのだから、当然他人の幸せなど容認出来ない。

つまり(ちゃんとつめられるかな…?)、『辛いのはみんな同じ』発信者は、お腹の中にいる子供時代の自分(インナーチャイルド)が、「私の痛みにも気付いて」と泣いている状態なのだ。
おぉ、可哀想に。
愛情の欠乏が怒りに変わり、怒りが憎しみに変わるまで、自分を押し殺して戦っているなんて、さぞ辛いことよ。

そんな学びを幾つか得たタイミングで、実体験的『辛いのはみんな同じ』も新展開を迎えることになった。
ある人に、意を決して結構ヘビーな人生相談をしたところ、またしても『辛いのはみんな同じ』と即答されたのだが、「来た…!」と構えた刹那、『だからお互い様。もっとはっきり他人に甘えて良いし、弱音吐いて良い。困った時に力を借りることは我儘じゃなくて権利。戦わないで、我慢しないで』が続けられたのだ。
目から鱗だった。
多数の人を傷付けまくっているこの言葉の先に、こんな優しい未来が待っているなんて!
思わず泣いてしまった。
その言葉が琴線に触れ、血となり肉となり、幾多の学びを得、誰かが誰かを攻撃している時、この人も辛いのだなぁ必死で生きているのだなぁと思えるようになった。そうやって、傷付くより前に、すぐに客観的に感じられるようになることが目下の目標だ。

自分が我慢しているのだからと相手にも我慢を強いて、誰も幸せになれないまま世間みんなで共倒れを望むより、自分も辛いしみんなも辛い…だから手を差し伸べ合って共に幸せになろう!スタイルの方が明らかに効率も良いし燃費も良い。
そうなんだね、私も今辛いんだ、余力がなくてごめんね、ちょっと余裕が出来たら声掛けるねと素直に伝えて、困ってる仲間がいることを共有して、聴き手を誰かにバトンタッチ出来る…そんな優しいサイクルが確立されたら良いなと切に願う。
自分と向き合う余裕のある社会。
自分を許して相手も許す社会。
自分を他人も許せない人のことも許す…そんな世の中を、一人でも多くの人が想像していれば、集合意識で叶うだろう!と思い、この記事を書いた。

最後まで読んで下さった方。
あなたの明日が優しさに包まれますように。

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