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失われた風景はただの風景でなく

なくなった風景

他の記事でも書いていますが、いろんな町の写真を撮っていて数年経ってから見返してみると、すでに無くなっている風景が意外と沢山あることに気づきます。
とくに昨今の状況から、経営が苦しくなったりネット移行が進んでいることなどから、お店や施設が営業しなくなるという事態に直面しています。

経済・文化・社会の顕著な変化

ネット移行は現代の象徴的な経済・文化の傾向であると言えますが、それだけでなく人間の価値観なども、SNSで顕著になったフラット化などの影響を受けて変化しています。マイノリティの問題などもおそらくその辺りから顕著になったことだと思います。

グローバリゼーションによって、世界的に文化の拡散、融合が進んでいるような気もします。
かつては「井の中の蛙」のような地域や国単位での常識みたいなものがありましたが、それが壊れて行きつつグローバルな見識(ものの見方)が広がっているとも言えます。

時代の変化とともに変わる街の風景

街の風景は、ただのビューとしてそこにあるのではなく、人間の活動の現れでもあるのですよね。
社会の常識・見識が変わっていけば当然、表現も変わっていくし、リアル世界に用事がなくなってバーチャルに行くものもあるわけです。(リアルの表現が変わっただけなので実際はバーチャルではないのですが)

なくなった風景への郷愁

だけど、風景が無くなることはとても寂しいことでもあるのです。
その代わりに何か新しい、ウキウキするものや、心癒されるものがそこに現れてくれるのならまだいいのですが、何も無くなって無味乾燥、殺風景な光景が広がってしまうと寂しいし、過ぎ去った過去をついつい思い出しては感傷に浸るようなことにもなってしまうのです。

まあ、感傷に浸ることは別に悪いことではありませんが。
むしろ新しいものが目まぐるしくそこに現れて過去のことを完全に忘れ去ってしまうよりも、そうやって記憶にしっかりと留めることの方が、大事なのではないかと思ったりはします。

街(町)の写真を撮ること

町の写真を撮ることは、人間の活動の痕跡を留めることを意味するんだと思います。
僕の個人的な興味として、街の風景の興味深いところは人間的な部分が垣間見えるところでしょうか。営み・暮らしの風景への反映。
自然の風景を撮ったときにも、僕は人間の生活や人工物との調和みたいなものに惹かれます。

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