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必要とされる人である限り生きていける

世の中は持ちつ持たれつ、お互いに支え合って生きているのが人間です。

日々、note を楽しめているのも、書いた記事を読んでくれる人がいて、楽しめる記事がたくさん流れてくるからなのです。

note で記事を有料にしていない場合、純粋に物々交換のようなものです。
不特定の誰かに情報を提供して、不特定の誰かから情報を得るという、インターネットに古くから存在する取引関係なのです。

親子関係

親子というのは社会において特殊な関係で、お互いに保護しなければならないと、法律で定められている関係です。
どんなことがあっても、基本的にお互い、保護しなければなりません。

一方で、親子の間には強い絆や愛情というものも存在します。
なかには愛情が薄い関係もありますが、それでも他人とは違うと認識していると思います。
他人とは違うのが親子です。

子供が働いていないのに生きていけるのは、ひとえに親の義務と、愛情があるからです。
逆に親が年老いて生きていけるのは、子供の義務と、愛情があるから。

お互い、相手にとって必要とされる人間ではなくても、親子の場合は、助け合えるから、生きていけるのです。
親子関係は、本当に特殊な人間関係だと思います。

社会

親子関係を除いた社会での人間関係は、誰かが出来なくて困っていることを誰か出来る人がやってあげることによって成り立っています。

昔の日本社会ならば、周囲に住んでいる人が助けてくれたら、お返しになにか他の面で力になってあげるとかしました。あるいは手土産を持って相手に礼を言いに行きました。
物々交換もありました。

でも今の社会は、そういうときの礼の返し方はお金ですね。
すべてのサービスに対してお金が必要な時代です。

そして、お金を得るためには、誰かに何か自分の能力や持っているものを売って、対価をもらう必要があるのです。

得たお金で、自分の必要なものを買ったり、必要な体験をする。
すべての他人のサービスをお金で買っています。
そうやって、生活も成り立っているのです。

基本は他人のおかげで、そこにすがるのにお金が必要という社会です。

個人主義

「私には・・他人に必要とされることなんて・・ない」
「私は一人で生きていく」

と言ったとしても、まったく必要とされていなければ、誰も自分に施しを与えてくれる人はいません。ライフラインも与えられません。
つまり生活できません。生きていけません。
社会に関わらず、何も提供しない人に、何かを与えてくれることはないからです。

社会の側に立ってみるとわかりますが、何もしてくれない人に、何かするという動機があるでしょうか?

親子ならば、それでもお互いに何かを与えてくれるでしょう。
しかし社会はそうではありません。

サービスと対価の関係があいまいな世の中

テレビやインターネットのように、なんでも無料で見たり参加したりできるけど、実はサービスにはお金がかかっていて、そのお金は広告主が払っているという状況があります。

サービスの利用者は、
取引相手ではなく間接的な存在の広告主に対して、
直接お金を払うか、
または間接的にお金を払っているから、
それらのサービスが受けられるのです。

でも広告主にお金を払っているという「感覚」はありません。
広告をブロックしたりして、心から自分には関係ないと思い込んでいる人もいると思います。

日常生活のなかで、サービスと対価の関係が一対一対応していなくて、当事者が勘違いしていることは多いのですね。
とくにサービスを受けている側は、なんでもとりあえず無料だと思っているし、無料でも文句言っていいと思っています。

でもシンプルな話、自分が誰かに何かを提供して、相手が礼も言わずお金も払わずに文句だけ言ってきたらどう思うか。

「なんなん???」

「なんなんなんなん???」

と関西人の僕なら思います。

みんな甘えている

必要とされていなくても、自分は誰かから施しを受けられると思い込んでいる人が多いでしょう。
僕も、知らず知らずにそう思っているところがあります。

でもそれは錯覚に過ぎなくて、足元をよーく見てみると、自分という存在は、誰かのおかげで出来ているのです。

買い物行かなくてもモノが買えるから楽ちん!と言ってても、真夏の暑いなか、モノを届けてくれるお兄さんのおかげで楽ちんなのです。
お兄さんに、間接的に何かをしてあげているから、届けてくれているというのが正確な捉え方でしょう。

だからそういうことを考えないで、お兄さんに無茶苦茶言うような人は「甘えている」としか言えません。

自分は偉くて、美しくて、金持ちで、社会が自分のために奉仕してくれていると考えるのは間違っていて、その前に社会は自分を必要としているからサービスをしてくれているのです。
もし何かをした心当たりがなければ、これからそれをしなければならないという義務が課せられていると認識しなければなりません。

必要とされない人は社会では生きていけない。ということは、生きられないということです。
それでも人間は生きていかなければならないから、社会に何かを提供しなければなりません。それは社会や政治が決めているわけではなく、自然の摂理なのです。

「私には・・他人に必要とされることなんて・・ない」

と言っている場合ではないのです。

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