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流浪の月

はじめまして

この一文から始めさせていただきます。

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流浪の月を読んだ

2020年本屋大賞を受賞し、今年は実写映画化もされた話題作だ。友人にも勧められ、多くの有名人が好きな本として挙げていた。

私自身、2020年にこの本を買っていた。しかし、コレクション化した積読の山に埋もれていた。これだけ話題になっているため、ここまでくると「読みたい」という感覚よりも「読まなければいけない」という強迫観念があった。

色んなメディアで取り上げられ、映画の予告も見ていた私はなんとなくあらすじを知っていた。あらすじどころか、ジャンルすら知らずに映画を見たり小説を読むのが好きだ。私の想像力なんてたかが知れているが、それでも何も想像していない状態で連れていかれるのが好きなのだ。神でもない限り、先のことは分からずに生きているのだから。

同じような趣味嗜好ばかりになるのが嫌で、なんとなくで本を手に取るようにしている。賞を獲っているか、クチコミ、などは多少気にする。だが書店でふらふらしながら「なんだろう、この本」となんとなく気持ちで取ると、自力では行けない場所に本が連れていってくれる。そういった意味では、あらすじを知っていた「流浪の月」はマイナスからのスタートだった。

平日だったが私は休みだった。日中にやらなければいけないことは済ませ、夕方頃に何をしようか悩んでいた。いつも通りYouTubeで音楽を聴くか、Netflixでアニメを見るか。現代において「時間を潰す」というのは特段難しいことではない。大抵の場合、読書は後回しなのだがその日は何故か本に手を伸ばした。そう、なんとなくだ。

なんとなくであらすじを知っていても裏切ってくれるのが名著というものだ。ちゃんと私の事を裏切ってくれたその本はなかなか私を離してくれない。次の日は朝早くに家を出なければいけなかった。

読む前に目次を見る癖がある私は、6章で構成されていることを知っていた。今読んでる3章が終わったら今日は一旦終わりにしようと思っていた。読み進めても読み進めてもなかなか終わらない。改めて確認したら、その章だけで本の3分の2を占めていた。まさか、本の構成にまで裏切られると思わなかった。

章の区切りまで到達するのは諦め、なんとなく区切りの良さそうなところで本を閉じた。ぐちゃぐちゃになった感情を片付けられないまま枕に頭を預けた。悪夢でも見るかと思っていたが、気づいた頃には朝日があがっていた。

文量的に3日間でなんとか読めるかなーという計算をしていたが、早くこの本を終わらせなければいけないという気持ちに駆られた。仕事があったものの、通勤電車の中、休憩時間やお昼休みはずっと本と共に過ごした。退勤するころには終わりが見えてきた。

帰りの電車の中で終わるか終わらないかまで来ていたので、そのまま読み進めていた。ラストに差し掛かり涙が溢れそうになった。このままではまずいと思い、目的地でもない駅で途中下車した。そのままホームで読み切った。私の感情は電車と共に流れていったままだ。

お気づきだろうか。ここまで私はまだ本の内容に全く触れていないのだ。本の内容に触れず、私のどうでもいい考えや本を読むに至った経緯だけで1000文字越えとは我ながらなかなかやる。結局のところnoteの投稿など自己満だから許してほしい。さて、そろそろ本題に入るとするか。

最初にお父さんがいなくなって、次にお母さんもいなくなって、わたしの幸福な日々は終わりを告げた。すこしずつ心が死んでいくわたしに居場所をくれたのが文だった。それがどのような結末を迎えるかも知らないままに――。だから十五年の時を経て彼と再会を果たし、わたしは再び願った。この願いを、きっと誰もが認めないだろう。周囲のひとびとの善意を打ち捨て、あるいは大切なひとさえも傷付けることになるかもしれない。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい――。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。本屋大賞受賞作。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488803018

本の内容は上記のようなものとなっている。

この本を読んで得られた1番のものは当人達にしか分からないものがある、ということだろう。結果的に犯罪者となった佐伯文、結果的に被害者となった家内更紗。最終的に安西梨花という理解者が出来たものの、基本的には当人である2人にしか理解できない、というものが一貫してあった。

2人の関係は世間から見たら幼女誘拐事件の被害者と加害者だ。それは揺るぎない事実としてそこにある。本作で印象的なものとして「事実と真実はちがう」という言葉がある。被害者と加害者という事実がある一方で、当人達にしか分からない真実がある。

友達でもなければ、恋人でもない。手を繋ぎたい、抱きつきたい、一緒に寝たいという気持ちはない。雑に言えば愛なのだろうが、その言葉がしっくりくるわけでもない。人との関係性の多くは仲間、友達、恋人、家族などというものに分類されるが、そのような枠を作れば、枠からはみ出るものが出てくる。文と更紗の関係は枠からはみ出た、日本語では形容しがたい関係なのだ。

読者として俯瞰して見れる立場にある私たちでさえ、2人の真実を覗き見ることは叶わない。本を読んでも、結局のところは理解した"つもり"でしかない。ただ"つもり"だったとしても2人の関係性の美しさは伝わってくる。そこの美しさこそが、本作が愛される理由だろう。

本作にはダメ人間やクズ人間が多く登場する。例に漏れず文と更紗もダメ人間である。だが、彼らを取り巻く人物はもっとクソだ。大人になった更紗にはDV彼氏である中瀬亮がいた。こいつが嫌いすぎて私が読みながら何度も吐きそうになった。

生憎DV彼氏というものは物語以外で触れたことがないので、その人間の思考など分からない。物語で触れるDV彼氏も一人称として描かれるものを見たことがないため、知る糸口すらない。様々なバックグラウンドがあるのだろうが、想像する気さえ失せる。

多少、同情の余地があるのだろうが、あまりにも無神経な発言をし、暴力で支配しようとし、離れそうになったら子供のように泣きじゃくり、本当に離れたら週刊誌に情報提供するような奴だ。そんな登場人物を自分は1mmたりとも愛せない。

今作で、文と更紗の2人は多くの人間に傷つけられる。亮のようなクソ野郎は言わずもがな、肝となるのは優しい人間が傷つけるということだ。文と更紗はお互い、幼い頃から周りとは異なっていた。いわゆる普通から外れた人間だった。そんな2人にとって、普通な人間から受け取る優しさは苦痛そのものだったのだ。

私自身、「一般的」「普通」という言葉はあまり好きではない。言葉として使うことは多々あるものの、その言葉の凶暴性については時々考える。普通なんてものは、主観的な部分が強く、統計的な話を言えばマジョリティー性が強い。

多少周りに染まらないと生きるのは大変だが、人と違う部分があるのは当たり前なのだ。全員が無意識に普通へと向かえば均一化した社会になってしまう。自分の普通を、社会の普通を全員に強要しないように気をつけてはいる。しかしそれが無意識におこなっていることもあるのだろう。

無意識どころか、善意や優しさのつもりだったものが傷つけることもあるということをこの本は嫌というほど教えてくれた。私は安西さんのような冷たい優しさを持つことはできない。出来ても店長のようなお節介な、中途半端な理解から来る優しさだろう。

noteを書くようになり、様々なことを考え、人に優しくするようになった(気がする)。しかし、その優しささえも互いを隔てていき、手を取り合えない距離にすることがあるのだと学んだ。この作品の中にいたら私はなにができただろうか。2人を傷つけることはあっても、救うことは私にはできないのだと苦しくなった。

三浦しをんの恋愛短編集で「きみはポラリス」という作品がある。その中では様々な愛の形(関係性)が描かれている。その中の短編「冬の一等星」という作品で、結果的に誘拐犯とその被害者になったおじさんと幼女の話が出てくる。「流浪の月」と同様に、2人しか分からない関係性があった。

そのため読みながら何度も「きみはポラリス」が頭を過ぎった。流浪の月を読んだ人なら分かるが、北極星というものが後半で印象的に描かれる。ポラリスとは北極星の別名だ。ここまで来ると凪良ゆうは「きみはポラリス」からインスパイアを受けたのではないかとさえ思えてくる。

ただ違うとすれば、「きみはポラリス」は愛の物語であり、「流浪の月」は愛ではない物語という点にある。是非両方読んでみることをオススメする。様々な人々の関係が垣間見え、新しい景色が見えるだろう。

何人かから、この本を繰り返し読んでいるという話を聞いた。それほど面白いということは分かるものの、読後わたしはその発言が信じられなかった。綺麗な2人の関係を見るまでの道程があまりにもクソすぎるのだ。

王道ジャンプ漫画で育った私にとって、物語とは努力・友情・勝利なのだ。それが私の根幹にある。そのため嫌な奴に対する耐性がほとんどない。ジャンプなどに出てくる嫌な奴は、愛すべきが枕詞としてつく。愛すべき点が皆無の亮が出てくる以上、私はこの作品を繰り返し読むことはできないだろう。

誤解がないように言っておくと、繰り返し読むことは出来なくても、私はこの本が大好きだ。私は文と更紗に寄り添える人間にはなれないと思う。それでも、作品の登場人物としての2人にいつまでも寄り添っていたい。2人のつくりだす、筆舌に尽くし難い雰囲気が大好きなのだ。大好きでなければここまでの文量の感想を書くわけがない。

個人的に好きだったのは、文を一人称として初めて書いた4章だ。先述したように3章がものすごく長く、話の多くは24歳の更紗が一人称として書かれている。そのため、更紗という人物のことは内面まで多く語られているが、文という人物は他者から見たものしか描かれていなかった。

4章になり、やっと文の心のうちが分かってくる。あまり表情に出さず、常に淡々としている彼の中に眠る言葉や感情が書き込まれている。それを読んだ時に「あぁ良かった、すべてが報われた」と思い目頭が熱くなったのだ。あの章が無ければ私はこの本を嫌いになっていたかもしれない。それほど、私にとって重要なものだった。

実写化されるより先に本を読むべきだった、と思う作品は何冊もある。小説の良くて悪い点は基本的に挿絵がないところだ。街の風景、室内の景色、登場人物の見た目、全てが私次第だ。それが映像化されると、文は松坂桃李で更紗は広瀬すずになってしまう。

映画を見ていないためなんとも言えないが、更紗が広瀬すずで、亮が横浜流星というのがしっくりこない。映画を作る以上人気の美男美女を起用するのが当たり前だろう。そんなことは分かっているが、あまりにも美男美女過ぎて原作とのズレを感じずにはいられない。映画を見たら「流石の演技力だわー」などと全力で手のひら返しをするのは目に見えているのだが。

さて、こんなに書いたのは初めてだ。気合いを入れた1発目の自己紹介投稿でさえ4000字は超えなかったが、今回は(あらすじ含めてだが)超えてしまった。読んだ人には伝わるだろうが、読んでいない人に伝わるかは微妙なところだ。そんなことはどうでもいいのだ。何回もいうがこのnoteは私の自己満でしかないのだから。

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手の届く範囲にいるあなたが

幸せでいることを願います

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